晋熙郡晋熙郡(晉熙郡、しんき-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。東晋から隋初にかけて、2カ所の晋熙郡が立てられた。 豫州晋熙郡本節では、現在の安徽省安慶市一帯に設置された晋熙郡について述べる。東晋の義熙年間、廬江郡南部が分割されて晋熙郡が立てられた。晋熙郡は豫州に属し、郡治は懐寧県に置かれた。 南朝宋のとき、晋熙郡は南豫州に属し、懐寧・新冶・陰安・南楼煩・太湖左の5県を管轄した[1]。 南朝斉のとき、晋熙郡は豫州に属し、新冶・陰安・懐寧・南楼煩・斉興・太湖左の6県を管轄した[2]。 南朝陳のとき、晋熙郡は再び晋州に属した。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、晋熙郡は廃止されて、熙州に編入された[3]。 益州晋熙郡本節では、現在の四川省綿竹市一帯に設置された晋熙郡について述べる。398年(隆安2年)[4]、秦州の流民を集めて晋熙郡が立てられた。晋熙郡は益州に属し、郡治は晋熙県に置かれた。 南朝斉のとき、晋熙郡は廃止されて、南新巴郡に編入された[6]。 南朝梁のとき、再び晋熙郡が立てられ、潼州に属した。 北周のとき、萇陽県と南武都県が晋熙県に編入された。さらに晋熙県が廃止されて陽泉県に編入され、晋熙郡の属県は陽泉県1県のみとなった。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、晋熙郡は廃止され、益州に編入された[7]。 脚注 |