後漢書
『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋の范曄で、「志」の編纂者は西晋の司馬彪。 成立までの経緯『後漢書』は、范曄が、先行史書を題材として編纂したものである。後漢の歴史を叙述しようという試みは、後漢王朝在世中から行われていた。まず、明帝のときに班固が蘭台令史となり、陳宗・尹敏らとともに世祖(光武帝)本紀や列伝・載記20篇を作った[1]。その後、史書撰述の場は蘭台から東観へと移り、安帝の頃に劉珍・李尤らが、桓帝の頃に伏無忌・黄景・朱穆らが、霊帝・献帝の頃に蔡邕・盧植・楊彪らが執筆に当たった。ここで編纂された後漢の歴史書は『東観漢記』と呼ばれる[2]。 『東観漢記』は『史記』『漢書』とともに「三史」と呼ばれて世に広まったが、同時代の編纂であるため記述に制約がある点、後漢歴代の多数の官吏が編纂にあたったため、一貫性に欠ける点に問題を抱えていた。そこで、徐々に民間で単独の史家の手になる『後漢書』の執筆が試みられるようになった[3]。以下が代表例である[4]。
以上はいずれも紀伝体であり、編年体を取るものとしては、東晋の張璠の『後漢紀』、袁宏の『後漢紀』があり、特に後者は古くから范曄『後漢書』と並び称され、完全な形で現存する[5]。 范曄は、学問に秀でた范氏一族の伝統を受け継ぎ、幼い頃から学問に長じ、経書・史書に通じ、文章・音楽が得意であった。432年(元嘉9年)に左遷されて宣城郡の太守になった際、『後漢書』の執筆を思い立った[1]。范曄は、『東観漢記』と『後漢紀』を始めとする以上の先行資料を利用しつつ、完備した後漢の歴史書を執筆しようと試みた。先行資料の取捨選択と、范曄の文章である序・論・賛の部分に范曄『後漢書』の特色が現れている[6]。 范曄が編纂したのは本紀と列伝であり、志を編纂する意思はあったが、皇帝への反逆に連座して処刑されたため、著作物として完成できなかった。後に、南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を併合し、全体に注釈を付けた。ここで、現在の范曄の本紀・列伝と司馬彪の志からなる『後漢書』が成立した[7]。 なお、後漢末期の事績についての記述は『三国志』と重複する部分も多いが、成立年代は陳寿『三国志』が、一世紀半先行する。 構成と本文の概要『後漢書』は後漢王朝の栄光と衰退を綴ったものであり、文章は名文として名高い。構成についても先行する史書と比べても著しい特色があるとされる。
以下、内容を簡単に説明しながら後漢書の構成について記す。後漢書は時系列に沿って書かれているので、初期・中期・末期に分けて本紀・列伝のそれぞれの巻の概要を説明し、「列女伝」のように後漢王朝一代の女性を網羅したものは末尾にまとめた。 後漢初期(光武帝・明帝・章帝)の時代まず後漢書の冒頭を飾るのは「光武皇帝紀第一」、すなわち光武帝劉秀の活躍である。十八史略にも採られた昆陽の戦い
の描写は精彩を放っている。范曄は光武帝とそれを支えた雲台二十八将及び馬援[9]について列伝の前半でその素晴らしさを綴っている。文選に名文として採用された「光武紀賛」「二十八将伝論」は光武帝と雲台二十八将を称える文章である。 後漢中期(外戚・宦官と名士の争い)の時代しかし、後漢王朝は中頃から貴族政治の弊害が出て、後世の史家・司馬光から「孝和(和帝)以降に及びて貴戚(外戚)・権を擅(ほしいまま)にし、嬖倖(宦官)事を用(おこな)い、賞罰章(あきらか)なる無く、賄賂公行し、賢愚渾殽し、是非顛倒す。乱れたりと謂うべし。」(『資治通鑑』)[12]と評される暗黒時代が訪れる。司馬光がいうように宦官・外戚が政治を牛耳って賄賂や私利私欲の追求に明け暮れた悪政の時代であった。本紀では巻4の「孝和孝殤帝紀」から巻6の「孝順孝沖孝質帝紀」がこの部分に当たり、列伝では巻45「袁安伝」以降がここに当たる。 范曄はこの時代の記述では外戚の暴政に抵抗した袁安、宦官政治を弾劾して疎んぜられた楊震ら貴族(名士)の正義漢を多く取り上げている。范曄はこの部分では後漢名士を褒め称え、名士の儒教に基づく激しい政治批判や反政府運動(党錮の禁への命がけの反対運動)を著しく重視した記載をしている。[13]後漢書の全訳を行った吉川忠夫も「仁義を重んじ、守節をよしとする直線的な行為、烈しい行為への傾倒」への激しい称賛が見られるとしている。[14]また、党錮の禁に抵触した人物を「党錮伝」でまとめている。名士の政治批判は理想論に過ぎないことも多く、実効性を欠くものも多かった。例えば名士の一人宋梟は涼州の民衆反乱の平定を命じられた時に「民衆反乱が起こるのは道徳の乱れからだ。国民全員に『孝経』を読ませて親孝行を奨励すべき」と述べたほどであった。[15]これは後世の人からも「なまぬるすぎる」「迂遠ではないか」と批判された部分[16]だが、范曄はそのまま掲載している。 歴代諸家の評では、この部分は全く評価しない人と絶賛する人に分かれる。例えば江戸時代の儒学者・中井履軒は著書『後漢書雕題』において「後漢には本当の儒者はいなかった。政治に寄与することもなく、文章をもてあそんだだけだ。少しは役に立つこともしたかもしれないが、大したことはできなかった。」と酷評している。[17]一方、同じ江戸時代の儒学者でも吉田松陰は感激して彼らに詩を捧げており、[18]現代中国の毛沢東は「まあ良く書けており、読む価値がある」と評して特に黄瓊伝・李固伝を褒めている。[19] 後漢末期の混乱の時代後漢中期の外戚・宦官の弊害は是正されないまま後漢はいよいよ末期症状を呈するに至る。 本紀では巻7「孝桓帝紀」から巻9「孝献帝紀」、列伝では巻68「郭符許列伝」以降が末期の人物を描く部分である。いわゆる「東夷伝」の「桓霊の間」と言われる乱世である。倭にも「倭国大乱」と言われる混乱が起きていたが、この頃は中国本土でも黄巾の乱のような民衆反乱が頻発している。後に蜀の劉備と諸葛亮がこの時代を回想すると、嘆息し痛惜しないことはなかったという時代であった。(出師表による)三国志演義は陳寿『三国志』の他、范曄『後漢書』の該当部分が元にされているとされる。 范曄『後漢書』は民衆反乱により後漢王朝が衰退し、董卓や呂布のような群雄が争った後、献帝を奉じた上で、帝位簒奪を図る曹操が献帝を迫害する描写で終わる。范曄は人間の力を信じ、「これは運命だから仕方がない」というような「あきらめ論」を嫌ったと思われる。[13]だから、曹操に対する後漢高官の抵抗が描かれるが、結局それは実らず、後漢は曹操の子・曹丕により簒奪されて終わる。 この部分では、孔融のように事あるごとに曹操を批判する人物が描かれる。曹操は孔融を憎み、罪に陥れて孔融の幼い子供二人共々処刑するという挙に出た。范曄は孔融を称賛し、「曹操が後漢を乗っ取れなかったのは孔融のような忠臣がいたからだ」としている。[20] 後漢最後の皇帝・献帝の伝記「孝献帝紀」は范曄の絶望を表す以下のような言葉で終わる。 「天の漢の徳に厭きることや久し。」(天は漢王朝を見放してしまった)[13] 後漢書本紀の最後は皇后紀下である。この巻は「孝献帝紀」より更にひときわ悲痛を極める。董卓の部下李儒に毒殺された十八歳の少年皇帝・少帝弁の伝記もここに入っている。毒殺される前の最後の酒宴で少帝弁と妻の唐姫が悲しんで詠んだ歌は、藤田至善が「後漢王朝の挽歌」と評した。[21]藤田が「漢王朝の悲運と、その夫を守り通そうとした一人の悲しい女性」[22]と称した献帝の献穆曹皇后は、後漢王朝の禅譲を強要した兄・曹丕に抵抗し、最後まで玉璽を渡そうとせず、「わたしたちには天運がなかった!(天不祚爾)」と号泣した。左右の人々はみな痛ましさに正視することができなかったという。このように後漢書は悲劇的な結末となっている。 通時代的な列伝(雑伝)范曄は時系列に沿った上記の本紀・列伝の他、後漢一代を全て網羅した列伝も立てている。これは「雑伝」と呼ばれる。 この他、後漢末期の戦乱を避けた人々を描く「逸民伝」「独行伝」、文学者たちをまとめた「文苑伝」なども作られている。 逆に范曄が重んじた貴族主義の立場から、庶民の歴史は捨て去られた。このため司馬遷が作っていた庶民の活躍を描く「滑稽伝」「游俠伝」「貨殖伝」などの列伝は作られなかった。范曄はこれらの列伝の削除について何も語っていない。金の王若虚は范曄の意図を推察し、「史書は勧戒を宗とし、必要性があることだけを記載すれば良い。滑稽伝や游俠伝は勧戒の意味がなく、貨殖伝に書かれる市井の卑しい人のわざなど、史書に記載する必要がないからだ」としている。[13] 注釈と日本語訳范曄『後漢書』はすぐに普及し、南北朝において広く読まれていた。南朝梁の劉昭注など、注釈にも様々なものが生まれていた[24]。ただし、劉昭の注は当時、劉知幾から「范曄が捨て去ったカスばかりを拾い、どうでもいいことばかりを注釈している」と酷評されるなど甚だ評判が悪かった。劉昭は三国志の裴松之注を真似て後漢書に載っていない話を積極的に注釈としたが、唐代の人からすればこういう方向は軽蔑されるもので、新たな注が必要とされていた。このため北魏の劉芳による音注や、隋の蕭該『范漢音』など、音訓の注は劉昭注に対抗して多く作られていた。この中で蕭該『范漢音』は評判が良かったという。[25] 唐の高宗のとき、章懐太子李賢が、学者を集めて范曄『後漢書』の注釈を作成した。これを李賢注(もしくは章懐注)という。これは范曄の本紀・列伝部分に附された注釈であり、蕭該『范漢音』や顔師古の漢書注などに基づいた『後漢書』の語句に対する解釈と、『後漢書』に書かれていない史実を補う注釈の二つを兼ね備えたものであった[26]。李賢注は皇太子が自ら行った注ということもあり権威を得、李賢注の成立によって、『後漢書』は本紀・列伝は李賢注、志は劉昭注を附した形が一般的となった。ただし、李賢注は顔師古注などを引用する時に取り違えている所もあるとされる。[27] 清代に入り考証学が発展すると、恵棟の『後漢書補注』、侯康の『後漢書補注続』などが作られ、これらを包摂して王先謙の『後漢書集解』が作られた。 後漢書の日本語訳は、古くは江戸時代の和刻本で訓点を付したものがあり、汲古書院から1992年に復刻されている。これは元の大徳年間に刊行されたものを日本で翻刻したものである。 昭和期は抜粋版のみで、藤田至善(明徳出版社)、本田済訳『漢書・後漢書・三国志列伝選』(平凡社・中国古典文学大系の1冊、のち普及版「中国の古典シリーズ」、現代語訳)が刊行された。 後漢書全文の完訳がなされたのは2001年(平成13年)から2007年(平成19年)にかけ、吉川忠夫による原文・読み下し・訓注で岩波書店(全10巻と別巻〈人名索引・地名索引〉)からの刊行である(岩波版は范曄による著述ではない「志」は除外)。ただし岩波版は、現代日本語訳はなかった。 完全な日本語訳は、2001年(平成13年)から2016年(平成28年)にかけ、渡邉義浩を代表に原文・読み下し・訓注・現代語訳が、汲古書院(全18巻と別冊)で刊行された。 評価范曄は『後漢書』を高い自負を持って著し、自らの遺書である『諸甥姪に与うる書』題名の訓読は[28] に於いて「私の後漢書は漢書より博覧性は低いが内容は勝っている。特に序・論は賈誼よりも優れており、賛は私の文の中でも傑作で一字の無駄もない。昔からの史書と比較しても構成が雄大で意味が深長なことはわたしの後漢書以上のものは存在しない」と論述した。[29]この范曄の大言壮語は「漢書より上だ」ということを除き、後世の史家による判定で、定まった評価を得ている。一例では、唐の劉知幾は『史通』で范曄の『後漢書』を高く評価している。 後世には、八家後漢書がほぼ散逸し、袁宏『後漢紀』は残ったが、唐の章懐太子は、これに対して范曄の『後漢書』を高く評価したものといえる。 後漢末についての記述は、蜀漢に立場の近い南朝の宋で編纂されたため、西晋で編纂された先行する陳寿の『三国志』に比べて、曹操の悪事を強調した記述を採用する傾向にある。范曄の『後漢書』の曹操悪人説は、清の趙翼が二十二史箚記で「范曄は陳寿が西晋朝をはばかって微妙な書き方をしている曹操の悪事を暴いた真実の書である」と評価したことから有名になったが、現代では趙翼の主張や范曄の『後漢書』の史料編纂に疑問の声も投げかけられており、曹操の評価の回復が見られる[30]。 版本について范曄『後漢書』は版本ごとの異同・誤刻が非常に多く、張元済によれば4914箇所もあるという。これは、『史記』(異同約4900箇所)とほぼ同じであり、『漢書』(異同4449箇所)『三国志』(異同4605箇所)と比べても多い。誤刻の例を挙げると、『光武帝紀上下』のみでも有名な「中元二年、春正月。(中略)東夷の倭奴国王、使を遣わして奉献す」の箇所も「東夷倭奴国主」と宋本(南宋紹興本)では誤刻している。 主要な版本は以下の通り。
全巻の目録目録も版本により光武帝紀を上下に分けるか分けないかなど、異同があるが、中華書局版によって題目を示す。[34] 本紀
列伝
志
大秦王安敦西域伝の大秦国記事に桓帝の延熹9年(166年) 日南から象牙やタイマイなどをもった「大秦王安敦」の使者がきたと記述されている。この「大秦王安敦」はローマ帝国皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとの説があるが、確かではない。 日本との関係日本への伝来9世紀末の平安時代に存在した漢籍の情報を伝える藤原佐世『日本国見在書目録』には、『後漢書』が記録されている[35]。
この頃には、遣唐使などを通して日本にも『後漢書』が将来していたことが分かる。 倭国について『後漢書』東夷列伝の中に倭(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。 「魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県の志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝・霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。 主な訳注書
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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