平陽郡平陽郡(へいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の山西省南西部に設置された。 概要247年(正始8年)、魏により河東郡の汾北10県を分割して平陽郡が立てられた[1]。平陽郡は司州に属した。 晋のとき、平陽郡は平陽・楊・端氏・永安・蒲子・狐讘・襄陵・絳邑・濩沢・臨汾・北屈・皮氏の12県を管轄した[2]。 443年(太平真君4年)、北魏により東雍州が置かれると、平陽郡は廃止された。494年(太和18年)、東雍州が廃止されると、再び平陽郡が置かれた。孝昌年間に唐州が置かれると、平陽郡は唐州に属した。528年(建義元年)、唐州は晋州と改称されると、平陽郡は晋州に属した。北魏の平陽郡は禽昌・平陽・襄陵・臨汾・泰平の5県を管轄した[3]。 582年(開皇2年)、平陽郡は平河郡と改称された。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、平河郡は廃止されて、晋州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、晋州は臨汾郡と改称された[4]。618年(義寧2年)、臨汾郡が平陽郡と改称された。隋末の平陽郡は臨汾・襄陵・岳陽・冀氏・楊の5県を管轄した。 618年(武徳元年)、唐により平陽郡は晋州と改められた。742年(天宝元年)、晋州は平陽郡と改称された。758年(乾元元年)、平陽郡は晋州と改称され、平陽郡の呼称は姿を消した[5]。 脚注 |