新昌郡新昌郡(しんしょう-ぐん)は、かつて中国王朝が設置した郡。魏晋南北朝時代に別の2カ所で立てられ、併存した時期もある。 交州の新昌郡271年(建衡3年)、三国の呉により交阯郡を分割して、新昌郡が立てられた[1]。この新昌郡は現在の中国とベトナムの国境地帯にあり、交州に属した。 晋のとき、新昌郡は麊泠・嘉寧・呉定・封山・西道の6県を管轄した[2]。 南朝斉のとき、新昌郡は范信・嘉寧・封山・西道・臨西・呉定・新道・晋化の8県を管轄した[3]。 589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、新昌郡は廃止されて、興州に編入された[4]。 滁州の新昌郡473年(元徽元年)、南朝宋により秦郡頓丘県・梁郡穀熟県・歴陽郡酇県を分割して、新昌郡が立てられた[5]。この新昌郡は現在の安徽省滁州市一帯に相当し、はじめは徐州に属した。 南朝斉のとき、新昌郡は北徐州に属し、頓丘・穀熟・尉氏の3県を管轄した[3]。 東魏のとき、新昌郡は譙州に転属し、赤湖・荻港・薄陽・頓丘の4県を管轄した[6]。 552年(天保3年)、北斉により南譙州が立てられると、新昌郡に州治が置かれた。 583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、新昌郡は廃止されて、滁州に編入された[4]。 脚注 |