始興郡始興郡(しこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の広東省韶関市と清遠市にまたがる地域に設置された。 概要265年(甘露元年)、三国の呉により桂陽郡南部を分割して、始興郡が立てられた[1]。始興郡は荊州に属した。 280年(太康元年)、晋が呉を滅ぼすと、始興郡は広州に転属した。始興郡は曲江・桂陽・始興・含洭・湞陽・中宿・陽山の7県を管轄した[2]。東晋の成帝のとき、始興郡は荊州の属郡にもどされた。 452年(南朝宋の元嘉29年)、始興郡はまた広州に転属した。翌年、湘州に転属した。470年(泰始6年)、始興郡から封陽・陽山・含洭の3県を分割して、宋安郡が立てられた。472年(泰豫元年)、宋安郡が廃止されてもとに戻され、始興郡は広興郡と改名された。宋の広興郡は曲江・桂陽・陽山・湞陽・含洭・始興・中宿の7県を管轄した[3]。 南朝斉のとき、始興郡の称にもどされた。斉の始興郡は曲江・桂陽・仁化・陽山・令階・含洭・霊渓・中宿・湞陽・始興の10県を管轄した[4]。 南朝陳のとき、東衡州が立てられると、始興郡は東衡州に転属した。 589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、始興郡は廃止されて、広州総管府に編入された。601年(仁寿元年)、広州は番州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、番州は南海郡と改称された[5]。 621年(武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、南海郡曲江県が番州と改められた。627年(貞観元年)、番州は韶州と改称された。742年(天宝元年)、韶州は始興郡と改められた。758年(乾元元年)、始興郡は韶州と改称され、始興郡の呼称は姿を消した[6]。 脚注 |