史 天祥(し てんしょう、1191年 - 1258年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人である。析津府永清県の出身。父は史懐徳。子は史彬・史槐。真定路を拠点とする大軍閥を築き上げた史天沢の同族。
概要
史家は史天沢の曾祖父の史倫が埋蔵金を発見したことで裕福になっており、史天祥の代には史倫の孫の史秉直が当主となっていた[1]。1210年代にチンギス・カンによる金朝侵攻が始まると華北一帯は荒廃し、華北の各地では自衛のための武装組織(郷兵)が乱立した。その内の一つ、史家は1213年(癸酉)に一族を挙げて国王ムカリ率いる軍団に投降し、ムカリの要請によって史家の中から史天倪(史秉直の長男)・史天祥らがモンゴル軍に加わることになった。
史天倪・史天祥らは郷里の兵を集めた「清楽軍」と呼ばれる精強な軍団を率い、華北では覇州・文安・大城・滄浜・長山といった諸城、山東では淄州・沂州・密州といった諸城を攻略し、この功績により銀符を与えられた。1214年(甲戌)、史天祥らは遼西に侵攻し高州・恵和・金源・和衆・龍山・利建・富庶といった諸城を攻略したが、遼西の要衝の北京のみは落とすことができなかった。遼西一帯、特に北京の攻略は史天倪らがムカリに進言して行わせたものであるが、純軍事的な理由のー方で故郷を離れモンゴル軍に従軍していた史氏一族の新たな拠点を求めるという側面があったと考えられている。そのため、史天祥を始め史懐徳・史天倪・史進道といった史家の軍人はほとんどが北京攻略に参加し、攻略には成功したものの史天祥の父の史懐徳はこの戦いで戦死してしまった[4]。
史天祥は父の死を深く悼み、それまで以上に熱心に北京周辺の諸寨の平定に従事した。北京を落とした同年にはウヤルの指揮下にあって興州の趙守玉を、ムカリの指揮下では錦州の張致を、それぞれ討伐した。1216年(丙子)にはダライ・ノールに駐留するチンギス・カンに面会し、金符を与えられた。同年中には蓋州・金州・蘇州・復州を攻略し、完顔奴・耶律神都馬らを捕虜とした功績によって鎮国上将軍・利州節度使・所部降民都総官・監軍兵馬元帥に任じられている[6]。1217年(丁丑)夏、武平を拠点とする山賊の祁和尚を討伐した。1219年(己卯)には権兵馬都元帥とされ、河東・平陽・河中・岢嵐州・絳州・石州・隰州・吉州・廓州などの80城余りを平定した。1220年(庚辰)には真定を攻略し、ウヤルは当初史天祥に真定の管理を任せようとしたが、ムカリの意見によって史天倪が真定を任せられるようになった。以後、真定は史家の新しい拠点として発展することになる[7]。
1223年(癸未)、史天祥はそれまでの功績により蒙古漢軍兵馬都元帥に任じられ、次いで西夏遠征に従軍することになった。西夏遠征では賀蘭山の攻略に功績を挙げたが、遠征の帰路に盗賊の襲撃を受けた史天祥は目に傷を負い、視力を失ってしまった。これをきっかけに史天祥は前線指揮から引退することを決め、1224年(甲申)には一族の住まう北京に戻って右副北京等七路兵馬都元帥に任じられた。1230年(庚寅)には新皇帝オゴデイにケルレン河で面会し、1231年(辛卯)にはオゴデイの金朝親征に従軍し補給を担当することになった。1232年(壬辰)、覇州で駐屯していたところ、夜中に流れ矢が頬に当たり、引き抜くことができなかったので口から鏃を吐き出したという。これを聞いたトルイは史天祥の不運を憐れみ、海浜和衆利州等処総管・覇州御衣局人匠都ダルガチ・行北京七路兵馬都元帥府事の地位を与えて報いた。その後も史天祥は第4代皇帝モンケの治世まで健在であったが、1258年(戊午)9月に68歳で亡くなった[9]。死後は息子の史彬が後を継ぎ、また娘の一人は史天祥の上官で北京の有力者ウヤルの孫に嫁いでいる。
真定史氏
脚注
- ^ 『元史』では史天祥の父の史懐徳は史秉直の兄弟とされるが、現在では「碑」の内容に従って史倫の代に枝分かれした親族と考えられている(池内1980, p. 486-487)
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「史天祥、父懐徳、尚書秉直之弟也。歳癸酉、太師・国王木華黎従太祖伐金、天祥随秉直迎降於涿。木華黎命懐徳就領其黒軍隷帳下、署天祥都鎮撫、選降卒長身武勇者二百人、使領之。招来丁壮、得衆万餘、従取覇州・文安・大城・滄浜・長山等二十餘城、東下淄・沂・密三州、所至皆先登、詔賜以銀符。従大軍攻燕、不克。甲戌、略地高州、抜恵和・金源・和衆・龍山・利建・富庶等十五城、惟大寧固守不下。天祥獲金将完顔胡速、木華黎欲殺之、天祥曰『殺一人無損於敵、適駆天下之人為吾敵也。且其降時嘗許以不死、今殺之、無以取信於後、不若従而用之』。乃以為千戸。復合衆攻其城、懐徳先登、擒其二将、為流矢所中、没於軍。乃以所統黒軍命天祥領之」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「天祥憤痛其父之死、攻之愈急。乙亥、与大帥烏野児降其北京留守銀答忽・同知烏古倫。進攻北京傍近諸寨、磨雲山王都統首詣軍門降、天祥命入列崖、擒都統不剌、釈其縛、仍曉以大義、不剌感泣、願效死。天祥察其誠、許与王都統往説降城子崖王家奴、乃命三人各将旧卒、付空名告身、使諭楼子崖等二十餘寨、悉降、得老幼数万・勝兵八千。西乾河答魯・五指山楊趙奴独固守不下、天祥撃之、大小百餘戦、趙奴死、答魯敗走、得戸二万。授西山総帥兵馬。興州節度使趙守玉反、天祥与烏野児分道討平之。答魯復聚衆攻龍山、以槊刺烏野児中胸、随墮馬、天祥馳救得免、復整陣出戦、大敗之、斬首八千級、答魯戦死。進克中興府。張致盗拠錦州、従木華黎討平之。会契丹漢軍擒関粛、復利州、殺劉禄於銀治、斬首五十級、尖山・香炉・紅螺・塔山・大蟲・駱駝・団崖諸寨悉平、虜生口万餘、得錦州旧将杜節、並黒軍五百人、即命統之。丙子春、覲太祖於魚児濼、賜金符、授提控元帥。抜蓋・金・蘇・復等州、獲金完顔奴・耶律神都馬、遷鎮国上将軍・利州節度使・所部降民都総官・監軍兵馬元帥」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「丁丑夏、山賊祁和尚拠武平、討平之。縛金将巣元帥。又滅重児盗衆万人於興州之車河。己卯、権兵馬都元帥、蒙古・漢軍・黒軍並聴節制。下河東・平陽・河中・岢嵐・絳・石・隰・吉・廓等八十餘城。庚辰、至真定、木華黎使天祥攻城、天祥因請曰『攻之恐戮及無辜、不如先往諭之。苟其不従、加兵未晩』。木華黎許之。天祥往見守将武仙、諭以禍福、仙悟、乃降。吾也而請留天祥守真定、木華黎曰『天下未定、智勇士可離左右乎。吾将別処之』。乃以秉直之子天倪為河北西路兵馬都元帥、鎮真定;以天祥為左副都元帥、餘如故、引兵南屯邢西遙水山下。仙兄貴以万人壁於山上、負固不下、天祥携完顔胡速及黒軍百人、由鳥道扳援而上、尽掩捕之。仙驚曰『公若有羽翼者、不然、何其能也』。遂下邢・磁・相三州。従戦黄龍岡、破単・勝・兗三州。木華黎囲東平、久不下、怒吾也而不尽力、将手斬之、天祥請代攻。木華黎喜、付皮甲一、又与己鉄鎧並被之。鏖戦不已、木華黎使人止之曰『爾力竭矣、宜少休』。復以金鞍名馬与之。辛巳、従取綏徳・鄜・坊等五十餘城。壬午、木華黎攻青龍・金勝諸堡、花帽軍堅守不下、既破、欲屠之、天祥力諫而止、獲壮士五千人」
- ^ 『元史』巻147列伝34史天祥伝,「癸未春、還軍河中、木華黎上其功、賜金虎符、授蒙古漢軍兵馬都元帥、総十二万戸、鎮河中。冬、徇西夏、破賀蘭山、還、遇賊、射傷額、出血、目為之昏。甲申、帰北京、授右副北京等七路兵馬都元帥。庚寅、朝太宗於臚朐河、乞致仕、不允。辛卯、太宗用兵河南、強之従行、転漕河上、給餉諸軍。壬辰、命天祥領汴京百工数千、屯覇州之益津、行元帥府事、賜錦衣一襲。初、天祥夜中流矢、鏃入頬骨、不能出、至是、金瘡再発、鏃自口出。睿宗聞而閔之、授海浜和衆利州等処総管、兼領覇州御衣局人匠都達魯花赤、行北京七路兵馬都元帥府事。憲宗即位、俾仍旧職。戊午秋九月、以疾卒、年六十八。天祥幼有大志、長身駢脅、力絶人、性不嗜酒、喜稼穡、好施予。乙未括戸、縦其奴千餘口、俾為民。晩雖喪明、憂国愛民之心、未嘗忘也。子彬、江東提刑按察副使;槐、襲覇州御衣局人匠都達魯花赤」
参考文献
|
---|
真定史氏 |
|
---|
順天張氏 |
|
---|
済南張氏 |
|
---|
東平厳氏 |
|
---|
益都李氏 |
|
---|
西京劉氏 |
|
---|
徳州劉氏 |
|
---|
その他 |
|
---|
討伐対象 |
|
---|
関連項目 | |
---|
|