史 元亨(し げんきょう、1264年 - 1317年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。字は太初。モンゴル帝国最初期の漢人世侯たる史秉直の曾孫の史烜の息子にあたる[1]。
概要
史氏一族は史秉直が当主の時にモンゴル帝国に帰順し、本来はその長男の史天倪が後継者と目されていたが、史天倪が武仙の乱に巻き込まれて早世したことによりその弟の史天沢に家督が移っていた。史天沢は史天倪の遺児である史楫・史権が長じると地位を譲ろうとしたがモンゴル朝廷に認められず、最終的に家長は史天沢のまま史天沢・史楫・史権3人ともに高い地位が授けられることになった。時代が降り史権の長男の史烜が亡くなった時、史烜の息子の史元亨は史烜の幼く弟の史焃はまだ官位に就いていなかったため、史烜の妻の張夫人の計らいにより史烜の地位は史焃が継承する事になった。世の人は史天沢と史楫・史権兄弟の故事も含め、これを「史氏の譲」と称したという[2]。
至元29年(1292年)、隆福殿で皇太子テムルの宿衛(ケシクテイ)として仕えることになった。それから3年経つと龍興路(チンキム家の投下領)の守臣の要請によって龍興路同知に抜擢され、その後黄州通守・婺州通守を歴任した[3]。
地方官を務める中で、豪民で詐欺によって不当な利益を得ていた者を取り締まったことや[4]、銅を産出しない婺州でび鋳銭事業をやめさせた逸話などが記録がされている[5]。
延祐4年(1317年)、朝散大夫・饒州路同知に任命されたが、任地に赴かないままに亡くなった。この時54歳であり、同年5月22日に真定県姜故村に葬られた[6]。
真定史氏
脚注
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「公諱元亨、字太初、大中之長子。金紫生権、官鎮国上将軍・江漢大都督・河間総管都督。生烜、為大中大夫・同知両淮都転運司事」
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「先是、金紫薨、二子楫・権皆幼、未能嗣父爵、丞相以弟代。及長、丞相辞上弗許、並官其二子、全金紫丞相之友愛也。大中兄弟六人比易簀、季弟焃猶未得禄、張夫人呼公曰、元亨爾其以父爵譲而叔父焃、以毋忘爾父之撫其弟也。公奉母訓勿敢違、由是焃得調善化尹、蓋史氏之譲有自来云」
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「至元壬辰、公以大臣、薦入見皇太子向於隆福殿、遂給宿衛。越三年、龍興路守臣請用公為佐。乃権其郡同知、自是擢黄州・婺州、三為通守、皆以考最聞。中書以公閥閲禁近臣、不宜限年労、由奉訓進朝列大夫」
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「其居官能以公持平、深燭吏隠。有豪右武断凌轢、詐乗伝肆為姦利、公即縄以法、餘皆惕息。歳祲勧富者出粟以廩飢人、貧者即官貸薬、則損己俸銭市善薬給之、土兵負恃其衆以毒郷民、則屏諸其境」
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「婺土不産銅、請罷鋳泉貨、諸若平冤獄墾荒田、民皆徳之。自金華帰里首、構宇以祠金紫、公示敦報本、且議興義塾、以訓史氏之子姪・群従及郷里之楽学者、築堂貯書号曰万巻、其経度皆有序、祠未成、而公已疾、革夫人戒其子庸工卒事、以承先志。夫人同郡嘉議大夫・順徳総管趙公世美之女、総管娶史氏鎮国兄之女也。自夫人帰、公母儀婦則咸克嗣、其家生男一人曰鎮。鎮生子尚幼」
- ^ 『巴西集』巻下新建南涇観記,「公以延祐丁巳、拝朝散大夫饒州路同知、未赴而卒。寔己未五月〈闕〉日享年五十有四。即以是月二十二日葬真定県姜故村」
参考文献
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真定史氏 |
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順天張氏 |
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済南張氏 |
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東平厳氏 |
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益都李氏 |
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西京劉氏 |
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徳州劉氏 |
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その他 |
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討伐対象 |
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関連項目 | |
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