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厳忠範

厳 忠範(げん ちゅうはん、? - 至元12年3月15日1275年4月12日))は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。東平を中心とする大軍閥を築いた厳実の息子で、兄弟には厳忠済厳忠嗣らがいる。

概要

厳忠範は金朝末期にモンゴル帝国に降って東平一帯に大軍閥を築いた厳実の息子で、兄には厳実の地位を継承した厳忠済らがいた。中統元年(1260年)、帝国全土の承認を得ないまま一方的にモンゴル皇帝(カアン)への即位を宣言したクビライはモンゴル帝国内部の内戦に備える一方、華北を実質的に支配する漢人世侯の存在も危険視していた。この頃、漢人世侯の中でも東平の厳忠済は 「諸侯の中で厳忠済こそが強横にして制し難い(諸侯惟厳忠済為強横難制)」と評されるなど最もモンゴル朝廷に反抗的と見なされており、クビライは厳忠済を自派の拠点である開平に呼び出した[1]

そして中統2年(1261年)5月14日、開平に滞在していた厳忠済は突如として全ての官位を剥奪され[2]、更に5月17日に厳忠範を新たに東平総管に任ずる布告が出された[3]。この事件は漢人世侯の勢力を削減したいクビライと、兄に成り代わりたいという野心を持つ厳忠範の、両者の利害が一致した結果起こったものであるとみられる[4]。クビライの後ろ盾を得て厳忠範は厳忠済の地位を奪ったものの、これ以後も漢人世侯削減政策は着々と進められ、軍閥としての東平厳氏は実質的に解体された[5]

軍閥としての実態を失って以後も厳忠範はモンゴルに仕え続け、南宋との戦闘に従事した。至元7年(1270年)頃より四川方面に派遣され、同年5月にはイェスデルとともに嘉定・重慶・釣魚山・馬湖江で南宋軍を破った[6]。至元9年(1272年)には成都での南宋軍との戦闘で敗れてしまい京に送られたが、赦免にあったとの記録がある[7]。至元12年(1275年)正月、兵部尚書廉希賢・工部侍郎厳忠範・秘書監丞柴紫芝らは南宋へ国書を届ける使者として派遣されたが[8]、3月に独松関に至った所で南宋人によって殺されてしまった[9]

参考文献

  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年

脚注

  1. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年六月]乙卯、詔東平路万戸厳忠済等発精兵一万五千人赴開平」
  2. ^ 『秋澗先生大全集』巻81中堂事記中,「十三日……明日己亥寅刻、詔罷東平路管民総管兼行軍万戸厳忠済。仍勅戒諸路官寮。無是効焉、国有常刑」
  3. ^ 『秋澗先生大全集』巻81中堂事記中,「十七日……是日巳刻、上臨軒親諭諸路総尹、遂以前東平総管厳忠済弟忠範為東平総管仍戒之曰、兄弟天倫、事至於此、朕甚憫焉。今予命爾尹茲東土、非以訟受之也。彼所責匪軽、敬哉。今而後苟不克荷、非若汝兄幸而免也」
  4. ^ 愛宕1988,195頁
  5. ^ それまで東平厳氏に仕えていた著名な文人官僚は個人的にクビライの幕僚に抜擢され、東平厳氏は事実上これらの文人に見限られる形となった。モンゴル史研究者の杉山正明は東平厳氏のような漢人世侯を、明治維新後に配下の大久保利通らに裏切られる形で藩主としての実権を失った島津久光になぞらえている(杉山1996,52-53頁)
  6. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元七年五月]癸卯、陝西僉省也速帯児・厳忠範与東西川統軍司率兵及宋兵戦于嘉定・重慶・釣魚山・馬湖江、皆敗之、抜三寨、擒都統牛宣、俘獲人民及馬牛戦艦無算」
  7. ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元九年十二月]辛亥、宋将昝万寿来攻成都、僉省厳忠範出戦失利、退保子城、同知王世英等八人棄城遁。詔以辺城失守、罪在主将、世英雖遁、与免其罪、惟遣使縛忠範至京師」
  8. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年春正月]乙未、遣兵部尚書廉希賢・工部侍郎厳忠範・秘書監丞柴紫芝、奉国書使于宋」
  9. ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年三月]丙戌……国信使廉希賢・厳忠範等至宋広徳軍独松関、為宋人所殺」
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