張邦傑 (元)張 邦傑(ちょう ほうけつ、1211年 - 1254年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯(漢人軍閥)の一人。字は智万。済南を中心とする大軍閥を築いた張栄の息子にして後継者。 『元史』には立伝されていないが『羅氏雪堂蔵書遺珍』に収録される『経世大典』の抜粋にその事蹟が記され、『新元史』にはこれを元にした列伝が記されている[1]。 概要張邦傑の父の張栄は金末の混乱期に自立し独自の勢力を築いた漢人世侯の一人で、1226年(丙戌)にモンゴル帝国に降った[2]。金朝を征服したモンゴル帝国は征服民・征服地を「投下」として諸王・功臣に分配しており、張栄の本拠地である済南は皇族のアルチダイ(チンギス・カンの弟のカチウンの息子にあたる)の領地とされていた。そこでモンゴル帝国に投降した後の張栄はアルチダイに仕えるようになり、その息子の張邦傑は17歳にして質子(トルカク)としてアルチダイのオルドに差し出された[3]。 アルチダイのオルドで張邦傑はモンゴル人女性の阿可亦真氏を娶り、跡取りとなる張宏が生まれた[4]。張宏はウルグイ河(兀魯回河)で生まれたとされるが、ペルシア語史料の『集史』によるとカチウン家の領地はウルグイ河畔(رودخانه القوی)にあったとされ、張邦傑・張宏父子はまさにカチウン・ウルスの本拠地で生活を送ったようである[5]。 第2代皇帝オゴデイ・カアンの治世の末頃に張栄が老齢のため隠居すると、張邦傑は華北に戻って地位を継承した[6]。オゴデイ・カアンの没後、旧金朝領華北(モンゴル語でヒタイと呼ばれる)では行政長官であったヤラワチが罷免され、国政を代行していたドレゲネの側近ファーティマ・ハトゥンの意向によりアブドゥッラフマーンがヒタイ長官に抜擢されていた。アブドゥッラフマーンは従来の正税(常賦)の他に別途銀7両を徴収する「7両包銀制」を導入しようとしており、民にとって大きな負担であると予想されるにもかかわらず、アブドゥッラフマーンの権勢を恐れて多くの者が敢えてこれを批判しなかった[7]。その中で、張邦傑は堂々と「7両包銀制」がただでさえ兵乱で疲弊した民を苦しめるものであると批判し、遂にこれを廃止に至らしめた[8][9]。同様に、燕京行省が酒税を引き上げようとした時も、これが実行されれば民は逃散してしまい、いたずらに死に追いやるものであると批判し、元の税額に戻させている[10]。 その後、李仏なる賊が東平の斉河を攻撃した際には、これを討伐する功績を挙げた。また、霖雨の時期に泥濘がぬかるみ歩行が困難となる道があり、農閑期に甬道(石畳の道)を築くことで通行を簡便としている[11]。その後、1254年に張邦傑は44歳にして亡くなったため、息子の張宏が跡を継いだ[12][6]。 済南張氏
脚注
参考文献
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