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劉淵 (元)

劉 淵(りゅう えん、1258年 - 1307年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍の一人。祖父は厳実の下で華北平定に従事した劉通、父は日本遠征に従軍したことで知られる劉復亨

概要

劉淵は至元11年(1274年)に進義副尉・徐邳屯田総管下丁壮千戸の地位を授けられ、同年9月より兵を率いて南宋領の泗州に赴いた。淮河の九里湾で南宋軍と遭遇すると、これを破って敵船30艘余りを奪う勝利を得た。至元12年(1275年)3月には南宋の安撫の朱煥を清河で破り、14人を生け捕り歳、敵船の兵糧を奪った。9月、右丞のベクレミシュとともに淮安を攻めた。至元13年(1276年)には南宋軍を昭信軍の南の靖平山で破り、至元14年(1277年)にはそれまでの功績により武略将軍・管軍総管の地位を授けられた[1]

至元15年(1278年)、元帥の張弘範の配下に入って福建・広州・漳州・韶州の平定に功績があり、武徳将軍の地位を授けられた。至元16年(1279年)、崖山の戦いに後翼軍として加わって功績があり、至元17年(1280年)には安遠大将軍・副招討とされた。至元21年(1284年)、潁州副万戸の地位に移り、至元24年(1287年)からはベトナム出兵に従軍した。劉淵は鎮南王トガンの命を受けて歩兵・水軍2万を率いて万劫江を攻め、16人を生け捕りとした。ついで霊山城を攻めて敵軍を破ったが、その後遠征軍は敗退して本国に帰還した。至元28年(1291年)、浙東に賊が起こったため、その酋長3人を捕縛した。クビライが崩じた至元31年(1294年)以後、紹興浙江五翼軍を領して杭州を守ったが、やがて病にかかって大徳11年(1307年)に死去した[2]

死後、息子の劉無晦が昭信校尉・潁州副万戸の地位を承襲している[3]

脚注

  1. ^ 『元史』巻152列伝39劉通伝,「淵、至元十一年、佩金符、授進義副尉、為徐邳屯田総管下丁壮千戸。九月、領兵巡邏泗州、至淮河九里湾、遇宋軍、戦勝、奪其船三十餘艘。十二年三月、与宋安撫朱煥戦于清河、敗之、擒十四人、奪其輜重。九月、従右丞別乞里迷失攻淮安。十三年、与宋人戦昭信軍南靖平山。倶有功。十四年、北覲、進武略将軍・管軍総管」
  2. ^ 『元史』巻152列伝39劉通伝,「十五年、従元帥張弘範征閩・広・漳・韶諸州、以功授武徳将軍。十六年、従攻崖山、弘範命淵領後翼軍、水戦有功。十七年、進安遠大将軍、為副招討。二十一年、遷潁州副万戸。二十四年、従征交趾、鎮南王脱歓命領水歩軍二万、攻万劫江、擒十六人。継攻霊山城、賊衆迎敵、大敗之、師還。二十八年、捕寇浙東、獲其酋長三人。三十一年、兼領紹興浙江五翼軍、守杭州、継以疾卒、大徳十一年卒」
  3. ^ 『元史』巻152列伝39劉通伝,「子無晦、至大元年、襲授昭信校尉・潁州副万戸、俄進武徳将軍。延祐五年、以病免。六年、改河南江北行省都鎮撫。泰定四年、加宣武将軍」

参考文献

  • 安部健夫『元代史の研究』創文社〈東洋學叢書〉、1972年。doi:10.11501/12185117全国書誌番号:73006578https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12185117 
  • 井戸一公元朝侍衛親軍の成立」『九州大学東洋史論集』第10巻、九州大学文学部東洋史研究会、1982年3月、26-58頁、CRID 1390853649694060032doi:10.15017/24543hdl:2324/24543ISSN 0286-5939 
  • 愛宕松男『東洋史学論集 4巻』三一書房、1988年
  • 元史』巻152列伝39劉通伝
  • 新元史』巻143列伝40劉通伝
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