下村定
下村 定(しもむら さだむ、1887年(明治20年)9月23日 - 1968年(昭和43年)3月25日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍大将。位階勲等功級は正三位勲一等功三級。 陸軍大臣(第56・57代)、教育総監(第27代)、参議院議員(1期)などを歴任した。 経歴本籍地は高知県。金沢聯隊区司令官下村定辞の長男として石川県金沢市に生まれる。 金沢第一中学校、名古屋陸軍幼年学校を経て、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校第20期を皇族を除いた6番/273名の成績で卒業する。砲兵科では、橋本群(陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部第1部長を歴任、のち中将)に次いで2番の成績であった。 同期には、皇族の朝香宮鳩彦王、東久邇宮稔彦王、北白川宮成久王、のちに大将になる牛島満(歩)、吉本貞一(歩)、木村兵太郎(砲)、太平洋戦争時に軍司令官を務める酒井隆(歩)、飯田祥二郎(歩)などがいる。 1916年(大正5年)に陸軍大学校第28期を首席で卒業。第一次世界大戦のころ、軍事研究のためフランス陸軍大学校へ留学。以後、参謀本部や教育総監部の系統を歩む。 日中戦争の初期においては、参謀本部第1部長・石原莞爾少将(第21期)の後任として、参謀本部第4部長から就任する。このとき上海付近で危機的状況にあった部隊の救出にあたって、周囲の反対を押し切り杭州湾上陸作戦を立案し成功させた。 太平洋戦争開戦時には陸軍大学校長の職にあった。その後、第13軍司令官、西部軍司令官を経て、北支那方面軍司令官に就任し、そのまま終戦を迎える。終戦を受けて下村は鎌田銓一第2野戦鉄道司令官(中将)の自決を思い留まらせ、「君は直ちに日本へ戻り、進駐軍先遣隊を接遇せよ」と下命し、鎌田に終戦処理のための任務を与えたという[1]。 陸士同期・東久邇宮稔彦王が首相に就任したことを受け、東久邇宮内閣で陸軍大臣に就任する。但し下村は北支那方面軍司令官として満州に駐在していてすぐに帰朝出来なかった為、下村が帰朝するまでの間は東久邇宮首相が陸軍大臣を兼摂した。続く幣原喜重郎内閣でも留任し、日本陸軍(帝国陸軍)で最後の陸軍大臣となった。 公職追放を経て[2]、追放中の1948年(昭和23年)10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[3]。追放解除後の1955年に防衛庁顧問に就任[4] し、1959年の第5回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で出馬、当選し参議院議員を1期務めた。その後、第7回参議院議員通常選挙全国区にも出馬したが落選した。 親族娘は俳優座で女優、演出家を務めた河内節子(下村節子)[5]。映画ライターの下村健[6]、俳優の河内浩は孫(節子の息子)[7]。 年譜![]() ![]()
栄典
帝国議会答弁1945年11月28日の帝国議会衆議院本会議において、斎藤隆夫議員より軍国主義が発達した理由について見解を問われた際、陸軍大臣として以下のように答弁した。
これは、下村自身で考えた草案で、終戦直後、軍部とくに陸軍を指弾する空気が強かった時期だけに、本人もかなりの反発を覚悟して壇上に上がったが、果たして議会の反応は彼のメモによれば「この答弁中には案外罵声もなく野次もなく、中頃から終りにかけては満場から度々拍手が起こり、中にはハンカチを取り出して涙を拭う議員を見受けられた。」という好意的なもので、「日本国民の底には深い理解と同情のあることを察してしみじみとありがたく、感涙を押さえて演壇を下った。」と記している。なお、直後に同席していた米内光政海軍大臣にも答弁が求められたが、米内は斎藤の質問には海軍大臣に答弁を求めることが議事録にないことを理由に拒否し場内の憤激を買った。 脚注
評伝
関連項目外部リンク
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