大竹平八郎大竹 平八郎(おおたけ へいはちろう、1904年(明治37年)2月8日[1][2]‐ 1985年(昭和60年)5月17日[2][3]) は、大正から昭和期のジャーナリスト、政治家。参議院議員。 経歴群馬県[2]群馬郡渋川町[1](北群馬郡渋川町を経て現渋川市下之町[1])で、呉服商・大竹直四郎(なおしろう)、タミ夫妻の四男として生まれた[1]。1918年(大正7年)渋川尋常高等小学校高等科(8年制)を卒業し[1]、上京して[1] 独学[3]。 1926年(大正15年)帝国通信社に入社し[3]無産政党、労働問題の担当記者となる[1]。その後、同社政治部長、大阪帝国通信社東京支社長などを歴任[1][3]。1934年(昭和9年)文部省嘱託に転じた[1][3]。長江産業貿易開発協会(のち日華経済協会)を成立し常任理事に就任し、1945年(昭和20年)理事長となる[1][3]。また廣池千九郎に協力して廣池学園の創設に尽力し理事に就任[1]。 1956年(昭和31年)7月の第4回参議院議員通常選挙で全国区から出馬して初当選し[1][2][4]、その後、第6回、第8回通常選挙でも再選され[5]、参議院議員に連続3期在任した[1][2][3]。この間、同志会国会対策部長、参議院大蔵委員長、同災害対策特別委員長、裁判官弾劾裁判所裁判長、参議院物価等対策特別委員長、選挙制度審議会特別委員、参議院予算委員長、自由民主党遊説局長、同総務などを務めた[1][2][3]。 1974年(昭和49年)春の叙勲で勲二等旭日重光章受章[6][7]。 1985年(昭和60年)5月17日死去、81歳。死没日をもって正四位に叙される[8]。 脚注参考文献
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