小野義夫小野 義夫(おの よしお、1880年(明治13年)10月2日[1] - 1956年(昭和31年)10月13日[2][3])は、大正から昭和期の実業家、政治家。参議院議員。 経歴大分県大分郡、のちの南庄内村[4](庄内村[3]、庄内町[3]を経て現由布市)で、小野同雲の二男として生まれる[1]。大分県立大分中学校(現大分県立大分上野丘高等学校)を経て[4]、1905年(明治38年)早稲田大学法科を卒業した[1][2][3][4]。 神奈川県の依頼で満州の利源調査委員に就任し、絹、綿の調査を実施し[4]、そのことがきっかけで1907年(明治40年)古河鉱業(現古河機械金属)に入社し[4]、本社課長を務めた[2]。ラサ島燐礦株式会社(現ラサ工業)の債務整理で実績を上げ、同社常務取締役、古河鉱業重役、関西硫酸監査役などを務めた[4]。第一次世界大戦中に古河鉱業から3年間、ロシア帝国、サンクトペテルブルクに派遣され、日本商社の活動の統一を主張して円滑な商取引の実現に貢献した[4]。 その他、ラサ工業取締役会長、田川炭礦取締役会長、東洋鉱山取締役社長、日本鑿泉採鉱取締役社長、昭和木材工業取締役社長、茶路炭礦取締役社長、肥料協会会長、東京商工会議所理事、日本鉱業協会理事、日本経営者連盟理事、日本関税協会理事、経済団体連合会(現日本経済団体連合会)評議員、燐酸肥料協会顧問、全国肥料商業組合連合会顧問なども務めた[1][2][3]。 1950年(昭和25年)6月の第2回参議院議員通常選挙で全国区から無所属で出馬して初当選し[3][5]、1956年(昭和31年)7月の第4回通常選挙で自由民主党公認で出馬して再選され[6]、参議院議員に連続2期在任した[2]。この間、自由党総務、 参議院法務委員長、裁判官弾劾裁判所裁判官、参議院自由党副会長などを務めた[2][3]。1956年10月、議員在任中に胃病のため死去した[7]。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される[8]。墓所は多磨霊園。 著作
脚注参考文献
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