大森 (大田区)大森(おおもり)は東京都大田区の地名。または、大森駅を中心とする街。 概要大森は第二次世界大戦前の東京市時代、旧大森町(現在の大森西、大森中、大森東、大森南、大森本町)という地名として存在していた。また戦前の東京35区の時代には、これら地域を含めた区として旧大森区が存在した。現在では旧入新井町(現在の大森北、山王、中央)の一部も大森北という地名になっている。また地名としての他に広義には大森駅周辺を漠然とさすこともあり、その場合には山王や中央、品川区南大井や大井の一部も含まれる[1]。 地理大森は大田区の北東部に位置する。この地域の商業の中心地は、広義の大森地区の北側に位置する京浜東北線(正式には東海道本線)の大森駅であり、駅周辺には商業地が多く形成されている。駅の東側は低地部で、現在の大森北および品川区南大井といった地名の地域であり、主に住宅地や商業地が広がっている。その東側は埋立地の平和島、品川区勝島などに接している。駅の東南側も低地部で、旧大森町の大森諸地域であり、住宅街が広がっている。その東側は埋立地の昭和島に接し、南側は蒲田や北糀谷・東糀谷に接している。大森駅の西側は台地部で、現在の地名では大田区山王にあたり、住宅地や商業地が広がっている。その北側は大井や西大井に接しており、西側は南馬込に接している。駅の西南側は低地部で、現在の中央にあたり、住宅地が多い。その北西側は南馬込に接しており、南西側は池上に接している。 この地区の中央部(大森駅の南側)には、環七通りが東西に通っている。大森駅の南北に京浜東北線が敷設されており、路線のすぐ西側を池上通り(大森周辺では柳本通りとも呼ばれ、江戸以前から平間街道として知られた)が南北に通っている。埋立地の西側には国道15号(第一京浜、江戸時代の東海道)が旧海岸線沿いに通っており、その道路沿いには京急本線が敷設されている。また池上通りと国道15号の間には、補助27号線(環七通りの南側は東邦医大通り、北側を沢田通り、品川区内では桜新道とも呼ばれる)が通っている。 歴史東京湾に臨み、古くから農業と漁業(特に海苔)の盛んな地域であった。 古くは「大杜」とも記され、鎌倉時代の1204年(元久元年)に 大井郷の地頭が大井四郎に大杜と永富の郷を譲与した とあるのが文献上の初出である。[2] 江戸時代には品川宿と川崎宿を結ぶ東海道の街道のため賑わった。名物である海苔の養殖は天和〜貞享年間(1681年〜1688年)ごろに浅草から移住してきた漁民によって始められ、「浅草海苔」として販売された。[3] 1876年(明治9年)に大森駅が開業し、さらに1923年(大正12年)の関東大震災によって住宅の密集した都心から多くの人が移り住むようになった。この時期に、多摩川の水害の心配が無く比較的自然が残っている山王地区は住宅街となった。また、旧馬込町と旧入新井町の一帯には大正後期から昭和初期にかけて多くの文士や芸術家が居住し、馬込文士村と呼ばれる地域でもあった。 1914年(大正3年)8月10日には、大森海岸で第1回水上選手権(後に日本選手権水泳競技大会へ発展)が開催された[4]。 大正時代以降は大森地区の東側に町工場が進出して漁業が衰退していった。 1945年(昭和20年)8月27日、特殊慰安施設協会による初の慰安施設「小町園」が大森地内に開業した[5]。 高度経済成長時には東京湾汚染および埋立地拡張によって海苔の生産が中止になり、京浜工業地帯として多くの工場が並んだ。1970年代後半以降、工場は地価の安い地方へと移転し、跡地には住宅・学校・公園等が建設された。現在でも大森地区の南側や東に隣接する埋立地には工場が残っているが、その他の地域は住宅地と商業地が中心となっている。 経済商工業商人は大塚邦房(区議長、酒類商)[6][7]、大塚啓太郎(電球業)[6]、大塚五郎右衛門(金融業[6]、篊商[7])、大塚清吉(区議、海苔簀問屋)[6][7]、大塚要蔵(海産物商)[7]、大塚隆一(篊製造)[7]などがいた。 地主地主は「大塚泰之助[7]、大塚五郎右衛門[8]」などがいた。 主な施設大森駅の駅ビル内大森駅の東側
大森駅の西側
名所・旧跡
「大森」と冠する学校
地名の由来出身・ゆかりのある人物
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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