橋本淳 (作詞家)
橋本 淳(はしもと じゅん、1939年〈昭和14年〉7月8日 - )は、日本の作詞家である[1][2]。本名は与田凖介(よだ じゅんすけ)で、詩人・児童文学者の与田凖一(1905年 - 1997年[3])は実父である[1][2]。すぎやまこういちに師事し、弟子に中村容子がいる。作曲家の筒美京平とのコンビでヒット曲を多数手がける。 すでに2,000曲を超える楽曲を発表し、代表作として知られるいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』のほか、ジャッキー吉川とブルーコメッツ『ブルー・シャトウ』、ヴィレッジ・シンガーズ『亜麻色の髪の乙女』などグループ・サウンズ(GS)の作詞を多く手がけ、オリコンチャート解析で「GS関連で最も売れた作詞家」とされた[1]。1960年代にグループ・サウンズの楽曲での作詞で脚光を浴び、1970年代から1980年代にかけては歌謡曲でも数多くのヒット曲を生んだ。 日本音楽著作権協会 (JASRAC) 全信託作家[4]。日本作詩家協会には加盟していない[5]。 来歴・人物生い立ち1939年(昭和14年)7月8日、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。第二次世界大戦中の幼少期は、父の出身地である福岡県に疎開したが、戦後、父が帰京し東京都北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)に居を構えるとともに同地で育つ。10代の頃から小説家になるべく、父によって一流作家のもとに預けられていたという[2]。 すぎやまこういちとの出会い青山学院大学在学中から作詞を独学で学び、当時フジテレビ社員だった作曲家のすぎやまこういちに見出される[2]。すぎやまとの出会いは、1961年(昭和36年)の大学4年生のとき、同級生に勧められてその兄の友人であるというすぎやまと青島幸男に会ってみた、というのが最初であった[2]。すぎやまは初対面の橋本に対し、自作の楽曲に歌詞をつけるようにと言い、それに応えたのが最初であったという[2]。 橋本は同学在籍中にそのまますぎやまに弟子入りし、テレビ番組『ザ・ヒットパレード』(1959年 - 1970年)や『おとなの漫画』(1959年 - 1964年)の手伝いを開始した[2]。半年後には、ジャッキー吉川とブルーコメッツと橋本に対し、すぎやまが「オリジナルの日本のポップスを」と発注し、番組で放送するための新曲を作らせた[2]。1962年(昭和37年)3月の同学卒業後も、そのまますぎやまの元で番組に関わったが、その流れの中で生まれたのが、1966年(昭和41年)3月10日に発売されたジャッキー吉川とブルーコメッツ『青い瞳』(作曲井上忠夫)であったという[2]。 シングルレコードとして発売された最初の作品は、その4か月前である1965年(昭和40年)11月にキングレコードからリリースされたボニージャックス『ボンド小唄』(作・編曲すぎやまこういち)であるとされ[1]、公式なデビュー作は同年12月10日発売の紀本ヨシオ『だから泣かないで』のB面曲「涙のギター」(作・編曲すぎやまこういち)であるとされる[1]。1967年(昭和42年)3月15日に発売されたジャッキー吉川とブルーコメッツ『ブルー・シャトウ』(作曲井上忠夫)は150万枚を売り上げ、同年末には第9回日本レコード大賞を受賞した[6]。 筒美京平とのコンビ作曲家の筒美京平は青山学院高等部時代の後輩で、青山学院大学時代には、同じジャズバンドで筒美はピアノ、橋本はウッドベースを弾いていた。 筒美とは、藤浩一(のちの子門真人)と望月浩の競作「黄色いレモン」で初めて作家としてコンビを組んだ[7]。同作の作曲者のクレジットは「すぎやまこういち」名義となっているが、これは筒美が当時日本グラモフォン(現:ユニバーサルミュージック)社員であったためである[8]。「黄色いレモン」は当初、望月浩の楽曲として制作されたが、すぎやまの弟子である藤のレコードのほうが先に発売された[7]。藤版が1966年8月15日、望月版が同年9月5日の発売である。「黄色いレモン」は同年中に、泉健二、リトル・パティらのシングルB面でもカバーされた。 1968年(昭和43年)12月25日に発売されたいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、150万枚を売り上げて筒美とのコンビで最大のヒット曲となり、翌1969年末の第11回日本レコード大賞で筒美が作曲賞を受賞した。同曲は横浜のご当地ソングとして広く親しまれ、多数のアーティストによってカバーされている(カバー曲についてはブルー・ライト・ヨコハマ#カバーを参照)。1972年にはコンビでアイドルの小林麻美の楽曲を手掛ける。 筒美とのコンビで制作した楽曲は、1997年(平成9年)時点で550曲を数える[9]。 橋本は「あまり売れなかったが、私の好きなこの歌」として、筒美と組んだ西田佐知子『くれないホテル』(1969年4月5日発売)を挙げている[1]。 受賞歴ヴィレッジ・シンガーズ『亜麻色の髪の乙女』は、2003年(平成15年)5月21日に発表された第21回JASRAC賞[10]翌2004年(平成16年)5月19日に発表された第22回JASRAC賞[11]で、2年連続で銅賞を受賞した。 2011年(平成23年)12月30日の第53回日本レコード大賞で、功労賞を青山和子(1946年 - )、永六輔(1933年 - 2016年 )、寺内タケシ(1939年 - 2021年)、畠山みどり(1939年 - )とともに受賞した[12]。 人物MISIAを発掘したことで知られる音楽プロデューサー、ユニバーソウルスタジオ代表の与田春生は橋本の子息である[13][14]。橋本は歌ネットのインタビューで「作品を提供したいアーティスト」としてMISIAの名を挙げている[1]。 なお、日本のジャズ・サクソフォーン奏者である橋本淳(1902年 - 1987年)[15]。とは同姓同名だが無関係である。 →同姓同名の人物については「橋本淳」を参照
不祥事競馬好きで知られ、競馬界にもコネを持っていた。1990年(平成2年)に日本中央競馬会 (JRA) 系列の競馬場内ミニFM放送業者選定についての贈収賄事件が発覚し、JRA課長らが収賄罪容疑で逮捕される事態となったが、贈賄を行った放送業者に橋本が関与していたことが報道された[16][17][18]。この事件以降は表舞台に出る機会が少なくなったが、その後も作詞家として創作活動を続けている。 親族主な作品あ行
か行
さ行
た行
な行
は行
ま行
ら・わ行
脚注
参考文献
関連項目 |