中野信治
中野 信治(なかの しんじ、1971年4月1日 - )は、日本のレーシングドライバー。大阪府高槻市出身。 経歴カート実父の常治も家業と兼業しながらFFスーパーシビックレースや全日本F2選手権などに参戦したレーシングドライバーであり、中野は父がレースに参戦する姿を鈴鹿サーキットで見て育つ[1]。1982年夏、11歳の中野を父がカート場に連れて行ったことがきっかけでレーシングカートを開始。それ以後は父が自身のレース活動を引退し、中野のカートチーム監督となりレースの参戦準備やマシン整備などを担当、まずは地方選手権から参戦をスタートする。なお、金石勝智や光貞秀俊は同じカート大会に参戦しており、光貞は地方選手権時代に参戦クラスも同じだったことがある[2]。 15歳の時に無限のカート活動のワークスドライバーに選抜されたのを機に、自身の将来を真剣に考え、将来レーサーとしてプロになりF1ドライバーになると決意する。その決意は普通の物ではなく、「絶対に実現させる」と意識を高める行動と志向を自分の中に作り、15歳ながら強固な決意だったと後年に自身で述懐している。周囲が楽しそうに遊んでいる多感な10代中盤にして、将来のF1を実現させるための継続した決め事として自宅内でストイックなフィジカルトレーニングも日々実行するようになっていたが、「やったからと言って行けるとは限らないけど、自分の意識を高める方法として私生活のなかに決めごとを作った。子供ながらに色々と真剣に考えてやっていた。」という[3]。1987年、香港で行われた国際カートGPで日本人初優勝(大会史上最年少優勝)を勝ち取った。 四輪デビュー/イギリス修行1989年、戸田レーシングより全日本F3選手権にデビュー。カート出身の中野はそれまで四輪に乗った事はなかったため、初めてミッション付きに乗った四輪デビューはこのF3マシン(ラルト・RT31 / 無限・MF204)であった[4]。コース幅が狭いため予選通過台数が少なくなる筑波大会では予選落ちを喫したが、それ以外は全て決勝レースを完走。第9戦西日本サーキットでは入賞直前の7位を記録した。 翌1990年、無限の本田博俊の勧めもあり、中嶋企画のマネージメントにより19歳で単身イギリスに渡り、野田英樹と共にロンドン郊外の中嶋悟の家に居候しながら、英語の習得を目指す武者修行に出る。レース参戦時の実務面は提携したイギリスのクリスタル・レーシングから出走し、フォーミュラ・ボクスホール・ロータス(FVL)に参戦。マシンは中嶋企画を支援するPIAAカラーとなった。シルバーストン・サーキットでヴィンセンツォ・ソスピリとルーベンス・バリチェロを破り1勝を挙げ、シーズンランキングでもソスピリ、ジル・ド・フェラン、デビッド・クルサードに続くランキング5位を獲得。なお、バリチェロのほかケルビン・バートなども同シリーズに参戦のライバルだった。 同年はヨーロッパのサーキットを数多く経験するためにフォーミュラ・オペル・ロータス・ユーロ選手権(媒体によりGMロータス・ユーロシリーズとも呼ばれる)にも参戦しダブルエントリーだった。こちらではFVLでもライバルであるソスピリ、ド・フェラン、バリチェロのほか、マルセル・アルバース、ケニー・ブラック、ペドロ・ラミー、アンドレ・リベイロ、ミハエル・クルムらと競い、腕を磨いた。同シリーズはF1のヨーロッパラウンドのサポートイベントとして同じ週末に同時開催されることも多く、F1パドックの様子を知ることもできた[5]。 1991年はオペル・ロータス・ユーロシリーズでの2シーズン目となり、ポール・スチュワート・レーシング(PSR)から参戦し、ポールポジションとファステストラップを1度ずつ獲得した。同年のPSRはクルサードが所属してイギリスF3選手権に参戦していたため、中野は1年間クルサードと同じ部屋で生活するルームメイトでもあった[6]。2年のイギリス生活を経て、英語力も中野の武器の一つとなった[3]。 F3/F30001992年より、中嶋企画から全日本F3と全日本F3000にダブルエントリーすることが発表された。しかし、特にF3においてはチームが採用した新車であるラルト・RT36がその前影投影面積の大きさから致命的なストレートの遅さを抱え、旧型RT35を使用の他チームよりラップタイムで1秒、直線の長い富士では2秒以上離されることが続くなど苦戦[7]。RT36を開幕戦のみであきらめマシンをスイッチするチームが多い中、PIAAナカジマは使用を継続したため成績が出ず、第3戦富士では予選不通過に終わるなど他車のスリップストリームに入ることが出来ない致命的な直線の遅さに悩み続けた[8]。F3000でも悪循環が続き、同年をもって中嶋企画を離れる。 1993年より、スーパーノヴァ・レーシングへ移籍。参戦カテゴリーを全日本F3のみに参戦を集中させた。チームメイトは井上隆智穂。同年は2位表彰台を3度獲得するなど安定した結果を残し、ランキング5位を獲得。1994年からスーパーノヴァが井上とヴィンセンツォ・ソスピリの2台体制で国際F3000選手権への挑戦を開始するにあたり、国内のF3はシャシーメンテナンスを担当した元F1チームメカニックの藤池省吉が監督となり「シオンフォーミュラ Ltd.」へと引き継がれ、中野は引き続き全日本F3に参戦。第2戦富士にてポール・トゥ・フィニッシュで待望のF3初勝利を挙げるなどランキング3位を獲得した。同年の夏には全日本F3での走りを有望と見なされた影山正美・高木虎之介と中野の3名に全日本F3000選手権(後にフォーミュラ・ニッポンと改称)の第7戦鈴鹿ラウンドに参戦する機会を与えられた。 1995年、1月17日に発生した阪神・淡路大震災に見舞われたこの年、大阪を拠点とする名門スピードスターレーシング (SSR)より全日本F3000に参戦することになったが、震災の影響もあり、京都を拠点とする童夢とのジョイント体制となった。しかしSSRはシーズン途中で撤退を余儀なくされ、チームは童夢の単独体制となった。童夢では監督の松本恵二の薫陶を受ける[9]。また、童夢のスポンサーにavexがついていたことで松浦正人との交流が生まれ、以後のavexによる中野への支援の発端の年となった[10]。1996年はフォーミュラ・ニッポン参戦と平行して、童夢のF1テストカーF105のテストドライブも行った。 F11997年にプロスト・グランプリよりF1にデビューし、日本人5人目のF1レギュラードライバーとなる。成績は6位入賞2回。1998年はミナルディより参戦。1999年はジョーダンのテストドライバーを務めた(F1参戦時代は後述)。 CART2000年よりホンダの誘いを受けてアメリカのCARTへ転向。オーバルトラックでのテスト中にクラッシュし、脳内出血により3戦を欠場した[11]。CARTには3シーズン参戦し、2002年には最高4位を記録したが、ホンダの撤退によりレギュラーシートを失う。2003年はIRLにスポット参戦した。 世界三大レース参戦2005年よりスポーツカーレースに参戦し、日本人として初めて世界三大レース(F1モナコGP、インディ500、ル・マン24時間レース)の全てに参戦した[12]。2009年にはアジアン・ル・マン・シリーズで初代シリーズチャンピオンを獲得。2017年にはスーパー耐久にシリーズ参戦するなど、40歳を超えても現役活動を続けている。2006年の取材では「パリダカにも出たら?という誘いが来たことがあるんです。40歳を越えたら参戦してみたいなと。それが実現したら世界4大イベントになりますね(笑)」とコメントしたことがある[1]。 現在レーシングドライバー以外にも活躍の場を広げており、2009年6月には中日本自動車短期大学の客員教授に就任。その他、環境保護やチャリティー活動に積極的に取り組んでいる。 2016年よりDAZNのF1生配信の日本語での解説をつとめている。 2019年から鈴鹿サーキットレーシングスクールの四輪部門(SRS-Formula・SRS-Kart)のVice Principal(副校長)を務める(Principal(校長)は佐藤琢磨)[13][14]。また、無限のスーパーGTとスーパーフォーミュラのチーム監督にも就任[15]。その後、2020年限りで無限の監督を退任した[16]。 F1時代1997年中野は1996年秋の日本GP直後に鈴鹿でのリジェのテストに参加し、セッティングや英語力の試験を受けた結果、チェーザレ・フィオリオ監督に認められて1997年のドライバー契約を結んだ。特に英語での意思疎通に関しては難なくクリアし、「19歳で渡英した経験があったおかげだけど、それが7年以上たってから役に立ったということです。15歳から真剣に考えて続けてきたことすべては未来に繋がっていたなと思えた。」と当時の心境を語っている[3]。中野はカート時代より無限の支援を受けており、リジェは無限ホンダエンジンを搭載するチームだった。日本人ドライバーとしては中嶋悟(ロータス・ホンダ)に次ぐ良い条件でのF1デビューになると思われた。 しかし、1997年シーズン開幕前にチームが売却されF1チャンピオンのフランス人ドライバー、アラン・プロスト率いる「プロスト・グランプリ」へと体制が大きく変更された。加えて、1998年からプジョーエンジンを搭載することが決まったため、中野の立場は微妙なものになった。 チームのリソースはエースドライバーのオリビエ・パニスに集中され、中野はテストドライブの機会やセッティングの権限を与えられなかった。チームミーティングはフランス語で行われ、パニスは「シンジにも彼が走りやすい環境を作ってやってほしい」と同情したほどだった。負傷欠場したパニスの代役として出場したヤルノ・トゥルーリの活躍の陰にも隠れてしまったが、後半戦はテストも行えるようになり、ハンガリーGPではフェラーリのエディ・アーバインとの激しいバトルを制して6位入賞した(他にカナダGPでも6位)。なお中野はプロストチームでの待遇について、「たしかにアラン・プロストが来て僕はかなりやりづらくなった。リジェのままだったら違っていたと思う。プロストはドライバーの成長を待つタイプの人ではなく、待てない人。だから最初から速かったトゥルーリを当然乗せたがる訳です。F1のチームオーナーとしては正しいんだと思う。人を育てるとか作っていくという部分ではどうかなと思うけど…。結局は彼(プロスト)が望んでるような走りを、僕が出来なかったからなんですよ。人種差別とかの問題では全くないんです。僕がプロストでのトゥルーリのように、来て1戦目からトップ争いなんかしてたら違ったでしょうねそれは。僕がシューマッハのような天才だったらよかったんでしょうけど、そうじゃなかった。」と2000年の取材で述べている。また、プロストでのこの経験を経て「日本のレース界ってすごく時間があるんですよ。ある程度誰でも順応できる環境になっていて、それはそれで素晴らしい事なんだけど、最終的には誰でもある程度速く走れるようになる。日本で上手になるって言うのは練習とか経験に裏打ちされて出来た上手さであって、本当の意味での天性の速さっていうのは、短い時間の限られた中でもすぐ速さを見せるって言うのは別ものです。僕はイギリスから戻ったあと、長く日本のレースの中にいて日本の癖がついてしまった。それは(最初から結果を要求される)F1ではマイナスになったなと思った。」と述べている[17]。 1998年翌1998年はプロストから離脱し、開幕前まで所属チームが決まらなかったが、引退した片山右京の後任としてミナルディへ加入した。この時はイタリアでの契約交渉が不調に終わり、帰国前日にミラノでショッピングをしていたところ、当時ミナルディのオーナーだったガブリエーレ・ルミとモンテナポレオーネ通りで偶然対面し契約に至らなかった理由を尋ねた所、中野の代理人が提示した条件が事実と異なっていた事が判った。そこで改めてその場で話し合いを持ち契約にこぎつけたというエピソードがある[18]。 チームの財政難と競争力の低いマシンの為に苦しいシーズンとなったが、シングルフィニッシュ4回[19] と見せ場を作った。また、日本人初の6戦連続完走を果たしている[20]。チームオーナーからも高評価を受けたが、チームには残れずF1シートを失った。 1999年1999年にはジョーダン・無限ホンダのテストドライバーに就任。デイモン・ヒルがシーズン途中に引退を示唆した際にはレギュラー昇格の可能性があったが、結局ヒルが最終戦まで現役続行したため中野にチャンスは巡ってこなかった。 年表
レース戦績全日本F3選手権
全日本F3000/フォーミュラ・ニッポン
フォーミュラ1
アメリカン・オープン=ホイール・レーシングCART
IRL・インディカー・シリーズ
全日本GT選手権/SUPER GT
ル・マン24時間レース
FIA 世界耐久選手権
出演ネット配信
脚注
関連項目外部リンク
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