永井松右衛門永井 松右衛門(ながい まつうえもん、1854年1月20日(嘉永6年12月22日[1])- 1913年(大正2年)3月15日[2])は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。新聞経営者。衆議院議員(2期)。幼名は冬季三郎[3]。 経歴永井匡威の二男として尾張藩領愛知郡牛毛荒井村(愛知県愛知郡鳴尾村、笠寺村を経て現名古屋市南区)に生まれる[3]。幼くして知多郡大高村長寿寺の住職陽春和尚に従い[3]、ついで藩校明倫堂に入り和漢学を修めた[2]。1872年(明治5年)家督を相続する[3][注 1]。同年、愛知病院創立委員を務め、同院の幹事に就任する[4]。翌年、郷里にて有志を募り星崎義黌を開き子弟教育に尽くした[5]。 1875年(明治8年)私財を投じて名古屋に交銀私局を設け、翌年の1876年(明治9年)国立銀行条例発布を受けて中尾寛二、関根録三郎らと共に豊橋に第八国立銀行を興し、同取締役兼支配人に就任した[5]。1878年(明治11年)明治天皇の巡幸に際して名古屋で開催された博覧会では伊藤治郎左衛門[注 2]、伊藤忠左衛門と共に幹事を務めた[5]。1880年(明治13年)には活版事業にも進出し、名古屋下長者町に成文社を興し同社社長となり、愛知絵入新聞を創刊した[5]。さらに同年、愛知県会議員に当選し、政界入りを果たした[5]。 翌年の1881年(明治14年)[注 3]。横浜正金銀行が設立すると大阪出張所支配人となる[6]。間もなく第八国立銀行が破綻の危機を迎え、1884年(明治17年)横浜正金銀行を辞し第八国立銀行頭取に就任[6]。同銀行は第百三十四国立銀行に合併された[6]。1886年(明治19年)東京米商会所に入り肝煎を務め、東京に移り住んだ[6]。1888年(明治21年)日本生命保険副社長となり、1890年(明治23年)東京米穀倉庫社長および東京莫大小社長に就任した[6]。ほか、愛知県農工銀行、尾三銀行各取締役、日本共立汽船、丸善各監査役、真田貿易社長などを歴任した[2]。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では愛知県第2区から出馬し当選[2]。つづく第2回総選挙でも当選し、衆議院議員を通算2期務めた[2]。 親族系譜
脚注注釈出典参考文献
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