永井久一郎
永井 久一郎(ながい きゅういちろう、1852年9月15日(嘉永5年8月2日)- 1913年(大正2年)1月2日)は、日本の漢詩人、官僚。文部省、内務省、帝国大学などに勤め、のち日本郵船に転じた。正四位。諱は匡温(まさはる)また温、字は伯良・耐甫、号は禾原(かげん)・来青。久一郎は通称。 永井荷風の父である。 生涯帯刀を許された豪農永井家に生まれた[2]。尾張藩に仕え、儒学・俳諧・茶道に通じる子孫が多かったという。父は鳴尾永井家の11代目・匡威(まさたけ)。桓武平氏良兼流長田氏の庶家である永井氏の傍系で、親致を祖とする「鳴尾永井氏」の後裔である。久一郎の詩集『来青閣集』によれば、鳴尾の永井氏は、永井直勝の庶子・正直に始まっている[3]。 初め知多郡大高村(現、名古屋市緑区)長寿寺の鷲巣上人に学び、12歳の頃から漢詩を作った。次いで尾張藩藩儒鷲津毅堂の塾生となって儒学を修め、また漢詩を森春濤に学んだ。1868年、新政府に招かれて京都へ赴く毅堂に従い、翌年の東京奠都ののちは、師とともに駿河台さいかち坂の官舎に住んだ。この東京遊学の前、家督を次弟冬季三郎に譲っている。名古屋藩の貢進生となって大学南校、箕作麟祥の塾、慶應義塾に学び、翌年藩命によりアメリカに留学し、英語とラテン語を修めた。 1873年(21歳)、帰国し、翌年から、工部省二等少師、文部省九等出仕、同医務局勤務、そして1875年、書籍館兼博物館勤務、八等出仕博物館書籍館長補としてそれらの創設に努めたのち、1877年、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事。この年、師毅堂の二女・恒を妻とし、東京市小石川区金富町(現、文京区春日2丁目)の家に住んだ。襟川楼または来青閣を称した。 1879年内務省衛生局御用掛、翌年衛生局統計課長、1884年、日本代表としてロンドンの万国衛生博覧会に臨んでのちヨーロッパを視察し、翌年帰国後、衛生局第3部長。1886年、帝国大学書記官。並行して共立女子職業学校(現、共立女子大学)の創立に関わり、校長代理や監事役を務めた。1889年、文部大臣の首席秘書官、翌年文部省会計局長兼参事官。1893年、文部書記官高等官三等。この年、金富町の邸を売り、麹町区内の借家へ移った。 1897年(45歳)、文部省を辞し、西園寺公望・伊藤博文・加藤高明らの斡旋で日本郵船上海支店長となり、単身赴任した。夏に家族が訪れた。上海在勤中は、在官中疎遠にした漢詩に再び打ち込み、彼の地の詩人等と親交した。1900年横浜支店長に転じるときの別離の宴は盛大で、餞けの詩は、40余人の182首に及んだという。 この1900年の秋、牛込区大久保余丁町(現、新宿区余丁町)に家を構え、再び来青閣と称して屋内を中国風に設えた。 1911年(59歳)、退職し、漢詩に徹したかたわら、翌年『維新史料編纂会委員』を引き受けた。 1912年12月30日、盆栽を雪から守ろうと庭に降りて脳溢血で卒倒し、年を越した1913年1月2日に没した。故人は宗教を持たなかったが、葬儀は牧師によって行われ、雑司ヶ谷墓地に葬られた。1878年に夭折した長女のために、久一郎が構えた墓所である。 家族・親族永井家→詳細は「永井荷風 § 家族・親族」を参照
略系図
栄典
著作
脚注
参考文献
関連文献
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