坂田信弘
坂田 信弘(さかた のぶひろ、1947年10月11日 - 2024年7月22日)は、熊本県熊本市出身のプロゴルファー、漫画原作者。 ジュニア・ゴルファー育成組織である「坂田ジュニアゴルフ塾」[1]主宰。長男がいる[2]。 人物尼崎北高校卒業後は京都大学文学部東洋史学科に進学するが、在学中に親が亡くなり、残った家族に仕送りをするために中退。 中退後はいくつかの職業を経た後にプロゴルファーを目指し[3]、1969年に自衛隊体育学校に特別体育課程学生として入隊して基礎体力作りに転じると[3]、坂田曰く「国防意識に欠けた2等兵であったが、匍匐前進だけは部隊一の速さを持つ」[3]陸上自衛隊員となる。 1971年に陸上自衛隊を満期除隊により退官すると、栃木県の鹿沼カントリー倶楽部に押しかけ入社し、キャディをしながらゴルフに打ちこむ[4]。 1972年には愛知県の貞宝カントリー倶楽部へ移籍し、1975年に28歳でプロテスト合格。 中嶋常幸・尾崎健夫と同期となり、1976年からはツアー参戦するも、生来の臆病心と勇気の欠落でパッティングに欠点が生じ、予選を通るか落ちるかのレベルに低迷[4]。 アメリカ留学からの帰国後、後に自身原作の漫画『風の大地』に実名で登場させる那須ゴルフ倶楽部の小針春芳に弟子入り[5]したほか、宮本留吉・橘田規を師と仰いで来たが、坂田曰く「師の心を学ぶだけの器量が我が身になかった」「不肖の弟子」であった[6]。 1978年からは福岡県の周防灘カントリークラブに所属し、同年9月中旬から12月24日までの4ヶ月弱にわたるオーストラリア、ニュージーランドに遠征[7]。遠征時は2試合続けて1ストローク差で予選落ちした後、アデレード郊外の安ホテルに宿泊し、夕刻に閑散としたバーの片隅にあるジュークボックスでエルビス・プレスリーの「マイ・ボーイ」を幾度となく聞いた[7]。予選落ちした日に生後9ヶ月の長男の写真と共に、妻の成長を詳しく記した手紙が届いており、軽いホームシックから無性に淋しくなった坂田は訳もなく、ただ漠然とした気分でボタンを押し、聞きながら涙が止まらなかった[7]。手紙を書くだけの気持ちの余裕もなく、国際電話をかける金の余裕もなく、コレクトコールでは歯止めが利かなくなると考えていたため、日本へは4ヶ月弱音信不通となり、友人の一人が「坂田は生きているのか、それだけでいいから調べてほしい」と大使館へ聞いていたことを帰国後に知った[7]。 1984年秋にはツアー出場で生じた借金400万円の返済手段としてペンを持ち、原稿料で借金を返し、再びのツアー挑戦と考える[4]。 1983年は賞金ランク166位で、1984年には海外2戦、国内5戦で予選通過のない中で、ペプシ宇部トーナメントに参戦[5]。初日を70でスタートし、2日目は73のトータル143、33位で決勝ラウンドに進出[5]。3日目には同組のデビッド・イシイ(アメリカ)のプレーの遅さに辟易しながらも、自身のスイングに「イシイさんよりも美しいです」と言ったキャディにチップを渡すなど気分も良かったが、スコアは76であった[5]。ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)と同組でプレーした最終日は弁当持参の親子連れにペプシコーラをプレゼントした後のホールでバーディを奪い、気分良くして次のホールではボールをプレゼントしたところOBを叩き、パープレーならず、通算294、60位タイに終わった[5]。 1988年には1月下旬よりアフリカサファリツアー[8]に参戦し、ナイジェリアでイバダンオープンとナイジェリアオープンに出場[9]。第1戦[8]のイバダンオープンでは乾季で、撒水設備がなく、フェアウェイもラフも真っ白、小川の周辺の草のみが青々としたコース[10]でプレー。在イバダンの日本人15人の懸命な応援を受け[11]、初めて試合中に「負けられん」という気持ちになった[12]坂田はプレーオフでストレートボールを2球続けて打ち、優勝を飾った[11]。ナイジェリアオープンは撒水設備が入ったコースであったが、緑一色のコースは成長が早過ぎて、水を撒いた後の6時間ぐらいでフェアウェイの芝生は5cmぐらいになり、当然、ドロップが心配となるため、150ヤードを8番か、9番かで悩むことも度々あった[10]。 4日間、フェアウェイともラフとも区別できぬ芝生の上でプレーしコース[10]、予選ラウンド8位と好位置に着けたが、最終的には決勝で25位タイに終わった[9]。この2試合で1万ナイラ、日本円で50万円弱を獲得[9]。 その後は作家・レッスンプロゴルファーに転向して才能が開花し、1993年に坂田ジュニアゴルフ塾を開校。自衛隊員時代に培ったスパルタ教育[注 1]を生かして厳しい指導をすることでも大変有名だが、古閑美保、上田桃子、笠りつ子、原江里菜など多くのプロゴルファーを輩出しており、名指導者としても知られていることから、度々テレビ番組で取り上げられている。 一方、作家として原作を書いている漫画では、漫画とはいえあまりにも現実離れした能力を持つ登場人物が出てくる[注 2]ことと、主に『風の大地』や『奈緒子』などに出てくる独特の人生訓のような長ゼリフが特徴的である。 1994年には『風の大地』で小学館漫画賞、1996年にはゴルフ界特別功労賞を受賞。 2008年に創部された大手前大学ゴルフ部監督に就任し、2年目で女子チームを全国大会優勝に導いた[13]。 2024年7月22日に死去[14]。76歳没。 書籍著書
監修
漫画原作
テレビ番組
ビデオ
DVD
脚注注釈出典
外部リンク
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