1976年の野球(1976ねんのやきゅう)では、1976年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セリーグ
パリーグ
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝
日本シリーズ
1976年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月23日(土) |
第1戦 |
阪急ブレーブス |
6 - 4 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
10月24日(日) |
第2戦 |
雨天中止
|
10月25日(月) |
阪急ブレーブス |
5 - 4 |
読売ジャイアンツ
|
10月26日(火) |
移動日
|
10月27日(水) |
第3戦 |
読売ジャイアンツ |
3 - 10 |
阪急ブレーブス |
阪急西宮球場
|
10月28日(木) |
第4戦 |
雨天中止
|
10月29日(金) |
読売ジャイアンツ |
4 - 2 |
阪急ブレーブス
|
10月30日(土) |
第5戦 |
読売ジャイアンツ |
5 - 3 |
阪急ブレーブス
|
10月31日(日) |
移動日
|
11月1日(月) |
第6戦 |
阪急ブレーブス |
7 - 8 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
11月2日(火) |
第7戦 |
阪急ブレーブス |
4 - 2 |
読売ジャイアンツ
|
優勝:阪急ブレーブス(2年連続2回目)
|
個人タイトル
ベストナイン
ダイヤモンドグラブ賞
オールスターゲーム
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
できごと
1月
3月
- 3月15日 - 太平洋は17時より福岡市のホテル・リッチにて監督のレオ・ドローチャーに対し契約解除を通告し、後任としてヘッドコーチの鬼頭政一を昇格したと発表。ドローチャーが肝炎を患い球団に対して「あと5週間待ってほしい」と申し入れたが、球団は5週間も待てないとして契約解除に踏み切る[5]
4月
5月
6月
- 6月1日 - 阪急の森本潔が日生球場での対近鉄9回戦の二回表に鈴木啓示から内野安打を放ち、プロ通算1000安打を達成[24]。
- 6月2日 - 大洋の松原誠が川崎球場での対阪神7回戦の五、八回裏に本塁打、この日の対阪神8回戦の二回裏に13号本塁打、四回裏に14号本塁打を放ちプロ野球タイ記録となる4打席連続本塁打を達成[25]。
- 6月3日 - 太平洋の土井正博が後楽園球場での対日本ハム9回戦の五回表に11号本塁打を放ち、プロ通算350本塁打を達成[26]。
- 6月7日 - ヤクルトは休養中の監督の荒川博の退団を正式に発表[27]。
- 6月8日
- 巨人の末次利光が後楽園球場での対阪神6回戦の九回裏二死満塁の場面で、山本和行から日本プロ野球史上10人目の逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ[28]。
- 阪急の山田久志が平和台球場での対太平洋9回戦に先発登板して10勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[29]。
- 6月10日 - 巨人の張本勲が後楽園球場での対阪神8回戦の五回裏に中前安打を放ち、プロ通算2500安打を達成[30]。
- 6月17日
- ヤクルトは球団社長の佐藤邦雄が甲子園球場でのプレスルームにて17時より記者会見し、広岡達朗が監督に正式に就任したと発表[31]。
- 日本ハム対阪急12回戦が後楽園球場にて行われ、五回裏一死の場面で阪急の投手の竹村一義が日本ハムの上垣内誠に死球を与え、日本ハムの監督の大沢啓二がこれに怒って竹村に暴力行為を働き、またウォルター・ウィリアムスも竹村に体当たりして押し倒し、大沢、ウィリアムスの両者が退場処分を受ける[32]。
- 6月18日
- 巨人の張本勲が甲子園球場での対阪神9回戦の一回表に8号2点本塁打を放ち、セ・リーグ新記録の28試合連続安打を達成[33]。
- パ・リーグ会長の岡野祐は、17日の試合で暴力行為で退場処分を受けた日本ハムの監督の大沢啓二と選手のウォルター・ウィリアムスに対しそれぞれ7日間の出場停止処分と制裁金5万円の裁定を下したと発表[34]。
- 6月24日 - 阪急対ロッテ11回戦が西宮球場にて行われ、阪急がロッテに8-0と勝利し、パ・リーグの前期優勝を達成[35]。
7月
- 7月2日 - 巨人の王貞治がナゴヤ球場での対中日14回戦の九回表に30号2点本塁打を放ち、15年連続30本塁打を達成[36]。
- 7月7日 - 広島の衣笠祥雄が札幌市円山球場での対巨人16回戦で1回表に本塁打、3回表に単打、5回表に二塁打、6回表に三塁打を放ち、サイクル安打を達成[37]。
- 7月9日 - ヤクルトの若松勉が神宮球場での対中日15回戦でサイクル安打を達成[38]。
- 7月11日 - 大洋の松原誠が広島市民球場での対広島12回戦で2安打し、プロ通算1500安打を達成[39]。
- 7月16日 - 12球団のオーナー、代表合同会議が東京・芝の東京グランドホテルで12時より開かれ、満場一致で金子鋭をコミッショナーに推挙し、金子のコミッショナー就任が正式に決まる[40]。
- 7月23日 - 巨人の王貞治が川崎球場での対大洋戦16回戦の八回表に鵜沢達雄から33号本塁打を放ち、プロ通算700本塁打を達成[41]。
- 7月25日 - 南海の池之上格が大阪球場での対近鉄後期6回戦の九回表に11失点を喫する[42]。
8月
- 8月1日 - 第47回都市対抗野球大会の決勝戦が18時半から後楽園球場で行われ、川崎市の日本鋼管が札幌市の北海道拓殖銀行を1-0で下し大会優勝[43]。
- 8月7日 - 阪神対中日の19回戦が岡山県野球場で行われ、阪神が中日に4-7と敗れ、球団新記録の9連敗となる[44]。
- 8月10日 - 中日の大島康徳がナゴヤ球場での対ヤクルト16回戦の六回裏に代打で出場して10号本塁打を放ち、日本プロ野球新記録のシーズン代打7本塁打を達成[45]。
- 8月11日 - 広島の三村敏之が川崎球場での対大洋18回戦で、四回表に18号本塁打、九回表に19号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[46]。
- 8月17日
- 巨人の堀内恒夫が広島市民球場での対広島20回戦の六回裏に水沼四郎から三振を奪い、プロ通算1500奪三振を達成[47]。
- 大洋の松原誠がナゴヤ球場での対中日19回戦の四回表に27号本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[48]。
- 8月21日 - 第58回全国高等学校野球選手権大会の決勝戦が阪神甲子園球場で行われ、西東京代表の桜美林高校が大阪府代表のPL学園を4-3で破り初優勝[49]。
- 8月22日 - 南海対太平洋の後期8回戦で南海が4-3と勝利し、パ・リーグ初の球団通算2500勝を達成[50]。
- 8月24日 - 南海の野村克也が西宮球場での対阪急後期6回戦の七回表に足立光宏から左前安打を放ち、プロ野球史上初めて通算5000塁打を達成[51]。
- 8月28日 - 広島の衣笠祥雄が川崎球場での対大洋20回戦の一回表に14号本塁打を放ち、プロ通算200本塁打を達成[52]。
9月
- 9月5日 - 日本ハムの坂井勝二が平和台球場での対太平洋後期9回戦の六回から登板し、プロ通算600試合登板を達成[53]。
- 9月14日 - 阪神の田淵幸一が後楽園球場での対巨人19回戦の一回表に30号3点本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[54]。
- 9月19日
- 中日が後楽園での対巨人23回戦に4対8で敗れ、この年の後楽園で0勝12敗1分けに終わる[55]。
- 甲子園球場での阪神対広島のダブルヘッダー第一試合の20回戦で、阪神が一試合9本塁打のセ・リーグタイ記録。
- 9月30日 - 阪急が南海を5-2で破り、後期優勝を決める。阪急は前期も優勝しており、プレーオフ制後で初めて前後期制覇したためパリーグ優勝を決める[56]。
10月
- 10月5日 - 広島の山本浩二が広島市民球場での対阪神25回戦に4番・中堅で出場し、プロ通算1000試合出場を達成[57]。
- 10月6日 - 太平洋の白仁天が大阪球場での対南海後期13回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[58]。
- 10月11日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対阪神23回戦の八回裏に山本和行から48号2点本塁打を打ち、ベーブ・ルースの記録を更新する通算715本塁打[59]。
- 10月12日
- 10月16日 - 広島対巨人26回戦が広島市民球場で行われ、今季最終戦の巨人が5-3で勝利し、1973年以来3年ぶりのセ・リーグ優勝[62]。
- 10月21日 - 沢村賞の選考が沢村賞選考委員会によって東京・水道橋の後楽園飯店にて12時より開かれ、広島の池谷公二郎が選出される[63]。
- 10月22日 - 広島の渡辺弘基が川崎球場での対大洋戦ダブルヘッダー25,26回戦二試合に登板し、これでシーズン73試合目となり、セ・リーグ最多登板記録を更新[64]。
- 10月25日 - ロッテの江藤慎一が東京・新宿の球団事務所を訪れ、球団代表の西垣徳男に対し体力の限界を理由に退団を申し入れ、球団もこれを了承[65]。
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
脚注
- ^ 朝日新聞1976年1月11日14面「ドローチャー氏に高齢・言葉の強敵 10万ドル以上で太平洋入り決定」縮刷版p264
- ^ 読売新聞1976年1月23日15面「『南海・江夏』は26日に」読売新聞縮刷版1976年1月p673
- ^ 読売新聞1976年1月23日15面「中上氏殿堂入り 完全試合投手の第1号」読売新聞縮刷版1976年1月p673
- ^ 読売新聞1976年1月29日17面「"南海の江夏"です おまたせ”大型トレード”」読売新聞縮刷版1976年1月p827
- ^ 朝日新聞1976年3月16日17面「病気のド監督解約 太平洋球団 代わりに鬼頭氏昇格」縮刷版p519
- ^ 毎日新聞1976年4月3日夕刊6面「プロ野球どんより開幕」毎日新聞縮刷版1976年4月p88
- ^ 読売新聞1976年4月4日15面「阪急1イニング連続9安打のパ・リーグ新記録」読売新聞縮刷版1976年4月p121
- ^ 毎日新聞1976年4月7日1面「崇徳、初出場で優勝 センバツ 健闘の小山破る」毎日新聞縮刷版1976年4月p167
- ^ 読売新聞1976年4月15日17面「ゲーリー決勝2号 大洋逆転、雨でコールド 松岡、奪三振1,000実らず」読売新聞縮刷版1976年4月p471
- ^ 読売新聞1976年4月15日17面「五回までノーヒットノーラン 三井、近鉄抑える これもコールド」読売新聞縮刷版1976年4月p471
- ^ 読売新聞1976年4月16日17面「巨人・末次が通算100本塁打」読売新聞縮刷版1976年4月p511
- ^ 読売新聞1976年4月18日17面「巨人がセ・リーグ通算2000勝」読売新聞縮刷版1976年4月p511
- ^ 毎日新聞1976年4月18日15面「得津、サイクル安打」毎日新聞縮刷版1976年4月p495
- ^ 読売新聞1976年4月19日15面「やったぞ加藤!ノーヒットノーラン 王"祝砲"3号 巨人連勝」読売新聞縮刷版1976年4月p609
- ^ 毎日新聞1976年4月19日15面「加藤がノーヒットノーラン」毎日新聞縮刷版1976年4月p515
- ^ 読売新聞1976年4月23日17面「太平洋・藤井が1500試合出場」読売新聞縮刷版1976年4月p735
- ^ 毎日新聞1976年4月30日15面「行沢、幻の満塁ホーマー 前走者追い越す」毎日新聞縮刷版1976年4月p833
- ^ 読売新聞1976年5月4日15面「中日・木俣達彦捕手が200号本塁打」読売新聞縮刷版1976年5月p91
- ^ 「スコアボード 山本、150号本塁打」『北海道新聞』(縮刷版) 1976年(昭和51年)5月8日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ^ 読売新聞1976年5月12日16面「戸田(阪急)ノーヒットノーラン」読売新聞縮刷版1976年5月p322
- ^ 読売新聞1976年5月14日17面「荒川監督(ヤクルト)休養 広岡コーチが代理」読売新聞縮刷版1976年5月p391
- ^ 読売新聞1976年5月23日15面「ロッテ・成田が通算1500三振奪取」読売新聞縮刷版1976年5月p695
- ^ 読売新聞1976年5月31日19面「王、日本初2000四死球 先制16号3ランも 巨人連勝」読売新聞縮刷版1976年5月p963
- ^ 読売新聞1976年6月2日17面「阪急・森本潔内野手が通算1000本安打」読売新聞縮刷版1976年6月p49
- ^ 読売新聞1976年6月3日17面「大洋・松原が4打席連続本塁打のプロ野球タイ記録」読売新聞縮刷版1976年6月p83
- ^ 読売新聞1976年6月4日17面「太平洋・土井が350本塁打」読売新聞縮刷版1976年6月p117
- ^ 読売新聞1976年6月8日17面「荒川前監督、正式退団 ヤクルト、当面現体制」読売新聞縮刷版1976年6月p249
- ^ 読売新聞1976年6月9日17面「巨人、土壇場に爆発 末次、逆転満塁サヨナラ5号 2アウト 2-2 山本和たたく」読売新聞縮刷版1976年6月p281
- ^ 読売新聞1976年6月9日17面「阪急・山田久志投手が100勝目」読売新聞縮刷版1976年6月p281
- ^ 読売新聞1976年6月11日17面「張本ついに2500安打 巨人、阪神を3連破 5・5差に」読売新聞縮刷版1976年6月p351
- ^ 読売新聞1976年6月18日17面「広岡、監督昇格 ヤクルト」読売新聞縮刷版1976年6月p585
- ^ 読売新聞1976年6月18日17面「阪急に日本ハム"一矢" おまけ乱闘劇 大沢監督退場」読売新聞縮刷版1976年6月p585
- ^ 読売新聞1976年6月19日17面「巨人・張本が連続試合安打セ新記録」読売新聞縮刷版1976年6月p621
- ^ 読売新聞1976年6月19日17面「大沢監督、ウィリアムス7日間出場停止 阪急戦暴行事件で」読売新聞縮刷版1976年6月p621
- ^ 読売新聞1976年6月25日17面「阪急が3年連続前期優勝 8年ぶり本拠胴上げ」読売新聞縮刷版1976年6月p819
- ^ 読売新聞1976年7月3日17面「王が15年連続の30号 ペース最高『700』に3」読売新聞縮刷版1976年7月p89
- ^ 「「ツイていた」 強気も幸い衣笠」『北海道新聞』(縮刷版) 1976年(昭和51年)7月8日付朝刊、13面(スポーツ面)。
- ^ 読売新聞1976年7月10日17面「ヤクルト若松がサイクルヒット」読売新聞縮刷版1976年7月p329
- ^ 読売新聞1976年7月12日夕刊7面「大洋・松原誠(三二)が1500本安打」読売新聞縮刷版1976年7月p387
- ^ 読売新聞1976年7月17日17面「金子新コミッショナーが正式決定」読売新聞縮刷版1976年7月p549
- ^ 読売新聞1976年7月24日17面「王、ついにやったぞ700号」読売新聞縮刷版1976年7月p789
- ^ 読売新聞1976年7月26日19面「南海・池之上が"野ざらし"1イニング11失点の両リーグ最多」読売新聞縮刷版1976年7月p857
- ^ 毎日新聞1976年8月2日1面「川崎(日本鋼管)に黒獅子旗 都市対抗野球」毎日新聞縮刷版1976年8月p25
- ^ 読売新聞1976年8月8日15面「阪神、球団初の9連敗 中日・青山に初白星献上」読売新聞縮刷版1976年8月p213
- ^ 読売新聞1976年8月11日15面「中日・大島が一シーズン代打本塁打『7』の新記録」読売新聞縮刷版1976年8月p271
- ^ 読売新聞1976年8月12日15面「三村2発、決勝100号 アーチ合戦、今度は広島が雪辱」読売新聞縮刷版1976年8月p299
- ^ 読売新聞1976年8月18日15面「巨人・堀内がプロ入り通算1500奪三振」読売新聞縮刷版1976年8月p463
- ^ 読売新聞1976年8月18日15面「大洋・松原がプロ入り通算250号本塁打」読売新聞縮刷版1976年8月p463
- ^ 朝日新聞1976年8月22日1面「桜美林が初陣優勝 全国高校野球 延長でPL振り切る」朝日新聞縮刷版1976年8月p589
- ^ 読売新聞1976年8月23日15面「南海、パ初の2500勝」読売新聞縮刷版1976年8月p617
- ^ 読売新聞1976年8月25日16面「野村、日本初の5000塁打」読売新聞縮刷版1976年8月p686
- ^ 読売新聞1976年8月29日17面「衣笠が200本塁打」読売新聞縮刷版1976年8月p827
- ^ 毎日新聞1976年9月6日15面「坂井六百試合登板」毎日新聞縮刷版1976年9月p159
- ^ 毎日新聞1976年9月15日19面「250本塁打」毎日新聞縮刷版1976年9月p431
- ^ 毎日新聞1976年9月20日19面「中日ついに後楽園12敗1分」毎日新聞縮刷版1976年9月p569
- ^ 毎日新聞1976年10月1日19面「阪急 初の前後期連覇 パの大将 次は日本一だ」毎日新聞縮刷版1976年10月p19
- ^ 読売新聞1976年10月6日17面「広島・山本浩二外野手(二九)が1000試合出場」読売新聞縮刷版1976年10月p197
- ^ 読売新聞1976年10月7日17面「太平洋・白が1500試合出場」読売新聞縮刷版1976年10月p233
- ^ 読売新聞1976年10月12日17面「王715号 ルースを抜いた 4四球後 最後の"出番" 右翼ポールを直撃」読売新聞縮刷版1976年10月p397
- ^ 読売新聞1976年10月13日17面「クラウンライター・ライオンズ スポンサー交代し太平洋が名称変更」読売新聞縮刷版1976年10月p435
- ^ 読売新聞1976年10月13日17面「巨人・淡口憲治外野手がプロ野球通算700号満塁本塁打」読売新聞縮刷版1976年10月p435
- ^ 読売新聞1976年10月17日1面「長島巨人 V1を達成 通算29回目の栄冠」読売新聞縮刷版1976年p559
- ^ 読売新聞1976年10月22日17面「池谷、初の『沢村賞』 20勝ただひとり 広島から2年連続」読売新聞縮刷版1976年10月p723
- ^ 読売新聞1976年10月23日17面「広島・渡辺弘基投手(二八)が一シーズン最多登板のセ・リーグ新」読売新聞縮刷版1976年10月p763
- ^ 読売新聞1976年10月26日17面「ロッテ江藤現役引退へ」読売新聞縮刷版1976年10月p867
- ^ 読売新聞1976年11月3日15面「阪急 2年連続の『日本一』 “老巧”足立が好投 森本、逆転2ラン 福本とどめ」読売新聞縮刷版1976年11月p81
- ^ 読売新聞1976年11月4日17面「最優秀選手 王(8回目)と山田(初) 新人王に田尾(中日)藤田(南海)」読売新聞縮刷版1976年11月p103
- ^ 読売新聞1976年11月9日17面「ストーブリーグ開幕 阪急、森本・戸田放出 中日・島谷らとトレード」読売新聞縮刷版1976年11月p265
- ^ 読売新聞1976年11月13日17面「大洋監督 別当氏、返り咲き決定」読売新聞縮刷版1976年11月p403
- ^ 読売新聞1976年11月19日夕刊10面「巨人は藤城(新日鉄広畑)を指名 社会人の速球一番 酒井・ヤクルト 中日は都」読売新聞縮刷版1976年11月p628
- ^ 毎日新聞1976年11月20日15面「新美(日ハム)⇆佐伯(広島)4-3トレード決まる」毎日新聞縮刷版1976年11月p571
- ^ 読売新聞1976年11月24日17面「基(クラウン)とのトレード 藤波(中日)が拒否 竹田は了承」読売新聞縮刷版1976年11月p759
- ^ 読売新聞1976年12月1日17面「江藤(弟)も引退」読売新聞縮刷版1976年12月p17
- ^ 読売新聞1976年12月3日17面「米田(阪神)自由契約に」読売新聞縮刷版1976年12月p125
- ^ 読売新聞1976年12月7日19面「芝池(近鉄)白滝(中日)を交換」読売新聞縮刷版1976年12月p231
- ^ 毎日新聞1976年12月9日15面「近鉄・ヤクルト」毎日新聞縮刷版1976年12月p275
- ^ 読売新聞1976年12月12日19面「正垣(阪急)広島へ移籍」読売新聞縮刷版1976年12月p411
- ^ 毎日新聞1976年12月15日15面「木樽投手が引退」毎日新聞縮刷版1976年12月p455
- ^ 読売新聞1976年12月16日15面「白(クラウン)ロッテ入り 長谷川などと複数交換」読売新聞縮刷版1976年12月p535
- ^ 毎日新聞1976年12月16日15面「藤波のトレード白紙に」毎日新聞縮刷版1976年12月p515
- ^ 毎日新聞1976年12月16日15面「公式戦第三節まで出場停止 中日、トレード拒否の藤波処分」毎日新聞縮刷版1976年12月p645
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