1973年の野球(1973ねんのやきゅう)では、1973年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セ・リーグ
パ・リーグ
- 本年度より、パ・リーグは年間130試合(26回総当たりホーム・アンド・アウェー)を65試合ずつ(13回総当たり)の前後期2シーズン制を採用。異なるチームがステージ優勝した場合は、その2チームがプレーオフ(年度決勝戦)に進出して5戦3勝制を行う。同一チームが前後期完全制覇である場合はプレーオフなしでそのチームの年間優勝とした。
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
パシフィック・リーグプレーオフ
1973年 パシフィック・リーグプレーオフ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月19日(金) |
第1戦 |
阪急ブレーブス |
2 - 4 |
南海ホークス |
大阪球場
|
10月20日(土) |
第2戦 |
阪急ブレーブス |
9 - 7 |
南海ホークス
|
10月21日(日) |
第3戦 |
雨天中止 |
阪急西宮球場
|
10月22日(月) |
南海ホークス |
6 - 3 |
阪急ブレーブス
|
10月23日(火) |
第4戦 |
南海ホークス |
1 - 13 |
阪急ブレーブス
|
10月24日(水) |
第5戦 |
南海ホークス |
2 - 1 |
阪急ブレーブス
|
年間優勝:南海ホークス
|
日本シリーズ
1973年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月27日(土) |
第1戦 |
読売ジャイアンツ |
3 - 4 |
南海ホークス |
大阪球場
|
10月28日(日) |
第2戦 |
読売ジャイアンツ |
3 - 2 |
南海ホークス
|
10月29日(月) |
移動日
|
10月30日(火) |
第3戦 |
南海ホークス |
2 - 8 |
読売ジャイアンツ |
後楽園球場
|
10月31日(水) |
第4戦 |
南海ホークス |
2 - 6 |
読売ジャイアンツ
|
11月1日(木) |
第5戦 |
南海ホークス |
1 - 5 |
読売ジャイアンツ
|
優勝:読売ジャイアンツ(9年連続17回目)
|
個人タイトル
ベストナイン
ダイヤモンドグラブ賞
オールスターゲーム
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
できごと
1月
- 1月11日 - 大洋の近藤和彦と近鉄の宮原秀明の交換トレードが成立したと大洋、近鉄の両球団が正式に発表。近藤はこの時大洋の二軍コーチであったが、近鉄からの現役選手としてのトレードの申し入れを受諾した[1]。
- 1月11日 - 【MLB】メジャー・リーグの合同会議がシカゴにて開かれ、アメリカン・リーグは指名打者制を中心今年から3年間、試験的に実施することを決定した[2]。
- 1月16日 - 日拓ホーム株式会社が東映フライヤーズを買収し正式に調印したと、午後4時半より銀座の銀座東急ホテルでの共同記者会見にて発表、チーム名は「日拓ホームフライヤーズ」となる[3]。
- 1月23日 - 巨人と日拓は午後7時、巨人の渡辺秀武・小坂敏彦と日拓の高橋善正のトレードが成立したと発表[4]。
2月
- 2月2日 - ボルチモア・オリオールズは、ドン・ビュフォードが太平洋クラブ・ライオンズと2年契約を結んだと発表[5]。
- 2月7日 - 東京のパレス・ホテルで午前11時から開かれたプロ野球実行委員会、午後2時から開かれたオーナー会議で日拓ホーム・フライヤーズの加入を承認[6]。
- 2月24日 - ヤクルトは、ヤクルト・アトムズ後援会会長で東北弁護士連合会会長の佐藤邦雄が球団社長に就任したと発表。これまではオーナーの松園尚巳が球団社長も兼任していた[7]。
- 2月26日 - 近鉄は午後、日生球場内球団事務所にて記者会見し、大阪市藤井寺市の藤井寺球場を約六億円で改装工事を行い、今季の後期日シーズンより本拠地球場として使用を開始すると発表[8]。
3月
4月
- 4月6日 - 第45回選抜高校野球大会の決勝戦が午後1時から甲子園球場にて行われ、横浜高校が広島商業を延長11回3-1で破って優勝を決める[11]。
- 4月14日 - プロ野球のペナント・レースがセ・パ同時に開幕[12]。
- 4月17日 - 巨人の長嶋茂雄が広島球場での対広島1回戦にて、2回表に二塁打を放ちプロ通算4000塁打を達成[13][14]。
- 4月20日 - ロッテの山崎裕之が後楽園球場での対阪急1回戦の4回裏に1号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[15]。
- 4月22日
- 日拓の張本勲は日生球場での対近鉄1回戦にて3安打を放ち3500塁打を達成。
- 近鉄の土井正博は日生球場での対日拓1回戦の2回裏に3号満塁本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成。
- 4月26日 - 阪神の田淵幸一は後楽園球場での対巨人3回戦で六回表に3号本塁打、8回表に4号2点本塁打、九回表に5号3点本塁打を打ち、プロ通算100本塁打を達成[16]。
- 4月27日 - 県営宮城球場は午前10時半、28日、29日に開催予定だった大洋対広島戦の3試合の中止を決定。この日の朝に広島から仙台へ飛行機にて移動予定だった広島が、搭乗を予定していた全日空の便がストライキのために移動が不可能になったため[17]。
- 4月29日 - ロッテが川崎球場での対南海ダブルヘッダー第一試合の2回戦に4-3、第二試合の3回戦に5-0と勝利し、10連勝を記録[18]。
5月
- 5月3日 - 川崎球場で行われたロッテ対太平洋3回戦で、四回裏にロッテが7点を取ると、以後太平洋のファンがグランドからビン、球場の椅子を壊して投げつけるなど試合進行を妨げる騒動が起きる[19]。この試合でロッテのジョージ・アルトマンは4回裏に5号3点本塁打を放ち、プロ野球通算150本塁打を達成[20]。
- 5月6日 - 巨人の高橋一三が後楽園球場での対中日6回戦の七回表に井上弘昭から三振を奪い、プロ通算1000奪三振を達成[21]。
- 5月10日 - 阪神の田淵幸一が甲子園球場での対巨人5回戦の1回裏に12号3点本塁打を打ち、前日9日の対巨人4回戦での死球を挟んでの3連続と併せ、4連続本塁打のプロ野球タイ記録となる[22]。
- 5月13日 - 阪神の権藤正利が新潟での対大洋3回戦の8回から救援登板し、プロ通算700試合登板を達成[23]。
- 5月18日 - パ・リーグは太平洋対近鉄7回戦、阪急対ロッテ7回戦の2試合が行われ、パ・リーグ通算1万試合を達成[24]。
- 5月20日 - 太平洋の基満男が平和台球場の対近鉄ダブルヘッダー第1試合に9号本塁打を打ち、日本プロ野球通算3万号本塁打を記録。ただし当時は、同試合で太平洋の梅田邦三の1号本塁打が3万号とされ、後に記録の見直しによって修正されている[25]。
- 5月22日 - 仙台市の宮城球場にてロッテ対近鉄8回戦が午後6時半から行われ、東北地方で初のナイター開催となる[26]。試合は13-0でロッテの勝利。
- 5月23日 - 近鉄の土井正博が宮城球場での対ロッテダブルヘッダー第1試合の9回戦の三回表に安打を打ち、プロ通算1500本安打を達成[27]。
- 5月23日 - 中日球場を運営する「株式会社中日スタヂアム」社長の平岩治郎が入水自殺。三重県志摩郡浜島町の波打ち際に水死体が浮いているのが発見され、三重県警鳥羽署の調べで遺体は平岩であると確認。平岩は同町の旅館に宿泊しており、関連会社の経営不振を理由に自殺するという内容の遺書が見つかる(→中日スタヂアム事件)[28]。
- 5月25日 - 中日スタヂアムが事実上の倒産を発表[29]。
- 5月26日 - 大洋の江藤慎一が川崎球場での対巨人7回戦にて4回裏に安打を放ち、3000塁打を達成[30]。
- 5月31日 - 中日ドラゴンズの球団社長の小山武夫が名古屋市内の球団事務所で記者会見し、中日球場での試合開催に関する業務一切を肩代わりし、自主運営すると発表[31]。
6月
- 6月1日
- 平和台球場での太平洋対ロッテ4回戦が行われロッテが太平洋に5-2で勝利し、敗戦に怒った太平洋のファンがグランドへ投石して大暴れするなど騒乱状態に陥り、ロッテナインが試合終了後約一時間半球場内に立ち往生し、機動隊の警備車で脱出するトラブルに見舞われる[32]。
- 大洋の坂井勝二が後楽園球場での対巨人9回戦に先発し、プロ通算500試合登板を達成[33]。
- 6月2日
- 西宮球場での阪急が対南海ダブルヘッダー第1試合の延長11回裏に佐藤道郎が長池徳二にサヨナラ本塁打を打たれ8対7でサヨナラ負け。佐藤は3試合連続でサヨナラ本塁打を打たれている[34]。
- 太平洋の三浦清弘が平和台球場での対ロッテダブルヘッダー第2試合の6回戦に先発し、プロ通算500試合登板を達成[35]。
- 阪急の山口富士雄と大洋の竹村一義の交換トレードが成立したと阪急、大洋の両球団が正式に発表[36]。
- 6月15日 - ヤクルトはアトランタ・ブレーブスよりジョー・ペピトーンを獲得したと発表[37]。
- 6月16日 - 日拓の高橋直樹が後楽園球場での対近鉄ダブルヘッダー第二試合の9回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成[38]。
- 6月17日 - 巨人の土井正三が広島球場での対広島10回戦の6回表に代打として出場し、プロ通算1000試合出場を達成[39]。
- 6月23日 - 日拓の大杉勝男が西宮球場での対阪急11回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[40]。
- 6月28日 - ロッテの佐藤政夫・奥田直也と中日の土屋紘・水谷則博の交換トレードが成立したとロッテ、中日の両球団が発表[41]。
7月
8月
- 8月2日 - 日拓の大杉勝男が西宮球場での対阪急後期3回戦の1回表に米田哲也から2点本塁打を放ち、プロ通算1000安打を達成。史上83人目[56]。
- 8月3日 - 南海の野村克也が大阪球場での対太平洋後期1回戦の二回裏に三輪悟から左中間に二塁打を放ってプロ通算2352本目を記録、川上哲治の持つプロ通算最多安打2351本の記録を更新[57]。
- 8月9日 - 日拓の大杉勝男が大阪球場での対南海後期3回戦の八回表に19号3点本塁打を放ち、プロ通算250号本塁打を達成[58]。
- 8月10日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対中日18回戦で30号本塁打を放ち、12年連続30本塁打を達成[59]。
- 8月14日 - 後楽園球場での巨人対ヤクルト16回戦で、巨人の王貞治が5打席連続で四球[60]。ヤクルトの先発・松岡弘はこの試合で王への5四球を含め1試合10四球のセ・リーグタイ記録[61]。
- 8月22日 - 第55回全国高校野球選手権大会の決勝戦が午後1時より甲子園球場にて行われ、広島商業が静岡高校に3-2でサヨナラ勝ちし、1956年(第39回)以来16年ぶり5度目の全国制覇[62]。
- 8月26日
- 巨人の長嶋茂雄が神宮球場での対ヤクルト19回戦の6回表に安田猛から安打を放ち、自身と榎本喜八の持つ15年連続100安打を抜く16年連続年間100安打のプロ野球新記録を達成[63][64]。
- セ・リーグは首位・阪神から最下位・大洋までのゲーム差が3となる混戦となる[65]。
- 8月29日 - 中日の高木守道が甲子園球場での対阪神15回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[66]。
- 8月30日 - 阪神の江夏豊が甲子園での対中日20回戦に先発して延長11回を投げ、プロ野球史上初めて延長戦でのノーヒットノーランを達成。また11回裏に決勝打となる2号サヨナラ本塁打を打つ[67][68]。
9月
- 9月4日 - 中日スタジアムの第一回債権者会議が名古屋地裁にて開かれ、来季も中日ドラゴンズの同球場での使用が認められる[69]。
- 9月7日 - 大洋の坂井勝二が川崎球場での対巨人21回戦に先発して6勝目を挙げ、プロ通算150勝を達成[70]。
- 9月8日 - 巨人の長島茂雄が川崎球場での対大洋22回戦の四回表に二塁打を打ち、プロ通算400二塁打を達成[71]。
- 9月9日 - ヤクルトの安田猛が甲子園球場での対阪神25回戦の九回裏無死二塁の場面で田淵幸一を敬遠し、連続無四死球の記録が81で止まる[72][73]。
- 9月12日 - 南海の野村克也が大阪球場での対日拓後期8回戦の一回裏に安打を打ち、プロ野球史上初の4500塁打を達成[74]。
- 9月14日 - 阪急の長池徳士が平和台球場での対太平洋後期10回戦の一回表に36号本塁打を打ち、プロ通算250号本塁打を達成[75]。
- 9月16日 - 日拓の張本勲が日生球場での対近鉄ダブルヘッダー第2試合の後期10回戦の五回表に敬遠四球で、プロ通算1000四死球を達成[76]。
- 9月19日 - 巨人の王貞治が甲子園球場での対阪神22回戦の一回表に45号3点本塁打を打ち、プロ通算4000塁打を達成。この本塁打で4002塁打[77]。
- 9月27日 - 近鉄は監督の岩本尭が休養し、一軍コーチの島田光二が監督代理に就任した発表。近鉄はこの日まで12勝35敗とパ・リーグ後期最下位だった[78]。
- 9月27日 - 【MLB】カリフォルニア・エンゼルスのノーラン・ライアンがアナハイムでのミネソタ・ツインズ戦にて16奪三振を記録して今季383個目の奪三振となり、65年にロサンゼルス・ドジャースのサンディー・コーファックスが記録した年間最多奪三振のメジャー記録382を更新[79]。
- 9月29日 - 巨人の高橋一三が後楽園球場での対大洋24回戦に先発し6回3失点で21勝目を挙げ、プロ通算100勝を達成[80]。
10月
- 10月3日 - 藤井寺球場におけるナイター設備建設中止訴訟において、大阪地方裁判所は工事続行を禁止。
- 10月5日 - 平和台球場で太平洋対ロッテの後期11回試合が行われ、ロッテが太平洋に1-4で敗戦し、阪急の後期優勝が決定[81]。
- 10月6日 - 日拓の大杉勝男が後楽園球場での対南海後期10回戦の六回裏に32号本塁打を打ち、パ・リーグタイ記録の5試合連続本塁打[82]。
- 10月7日 - 太平洋の三浦清弘が平和台球場での対近鉄13回戦の八回表に岩木康郎から三振を奪い、プロ通算1000奪三振を達成[83]。
- 10月9日 - 日拓の大杉勝男が日生球場での対近鉄11回戦の十回表に33号本塁打を打ち、パ・リーグ新記録となる6試合連続本塁打を達成[84]。
- 10月10日
- 10月11日 - 後楽園球場での巨人対阪神の25回戦の試合で、巨人の長嶋茂雄が2回表に阪神の後藤和昭の打球を右手薬指に当てて負傷し退場。港区・慈恵医大病院で診断の結果、右第四指末節開放性骨折で全治4週間と判明。今シーズンの残り試合の出場が絶望に[88]。
- 10月17日 - パ・リーグのオーナー懇談会が大阪市内の新阪急ホテルにて午後4時30分から開かれ、日拓のオーナーの西村昭孝が「16日にロッテの重光社長と会い、ロッテと日拓が合併することで合意した」と発言。また、ロッテのオーナーの重光武雄(オーナー懇談会には欠席)も夜、「一リーグ制になることを前提に、合併に踏み切った」と認める[89]。
- 10月18日 - ロッテのオーナーの重光武雄は午後、ロッテ製菓本社にて記者会見し、前日17日の「一リーグ制を前提に日拓と合併する」と表明した件について「調印するところまでは、とてもいっていない」、「手続きには制約があるようだし」「西村オーナーも私も、この件を簡単に考えすぎたようだ」と語り、合併に消極的な姿勢を見せた[90]。
- 10月20日 - 阪神が中日球場での対中日26回戦で2対4と敗戦。これにより、10月21日の甲子園球場での阪神対巨人26回戦は、阪神、巨人ともにシーズン最終戦で、勝ったチームがリーグ優勝という決戦となる[91]。
- 10月22日
- 10月23日 - 沢村賞の選考が東京・有楽町の交通大飯店にて正午から行われ、巨人の高橋一三を選出[95]。
- 10月24日
- パ・リーグのプレーオフの5回戦が行われ、前期優勝の南海が後期優勝の阪急を2-1で下し、7年ぶりのリーグ優勝[96][97]。
- ロッテ、日拓以外のパ・リーグ4球団のオーナーが大阪・堂島のクラブ関西にてパ・リーグの今後の運営方針について協議し、来シーズンも現行の六球団制でセ・リーグとともに二リーグ制を維持することを確認[98]。
- 大洋ホエールズの小山正明が球団に対し引退届を提出し、受理される[99]。
- 10月26日 - 阪急の監督の西本幸雄が大阪市北区の阪急電鉄本社にオーナーの森薫を訪ね、「潮時なので監督を辞任したい」と申し出て、了承される[100]。
- 10月29日 - 阪急は大阪市北区の新阪急ホテルにて、監督を辞任した西本幸雄の後任にヘッドコーチの上田利治が就任したと正式に発表[101]。
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
出典
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野球の歴史 |
1870年代 | |
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1880年代 | |
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1890年代 | |
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1900年代 | |
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1910年代 | |
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1920年代 | |
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1930年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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