ランス・バークマン
ウィリアム・ランス・バークマン(William Lance Berkman, 1976年2月10日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州マクレナン郡ウェーコ出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)、野球指導者。左投両打。 かつてニックネームは体格と風貌から「ファット・エルヴィス(太ったエルヴィス・プレスリー)」と呼ばれていたが、2006年にバークマンがラジオ番組で「自分を何かに例えるならプーマだ」と自らニックネームを提案し、「ビッグ・プーマ(Big Puma)」が浸透していった[1]。 現役時代はマーク・テシェイラやカルロス・ベルトランらと並んでMLBを代表するスイッチヒッターとして名を馳せた。シーズン40本塁打以上を2度記録しているが、他にこの記録を達成しているスイッチヒッターはMLB史上でもミッキー・マントルだけである[2]。 経歴プロ入り前4、5歳のころから父親に野球を教わる。投げる時は左、打つ時は右だったため、父親がファンだったミッキー・マントルのようなスイッチヒッターにすることを思いついた。家の裏に古タイヤを吊るし、毎日左右で50回ずつ打たせて練習させた。 ライス大学在籍時の1997年に打率.431、41本塁打、134打点の成績でウェスタン・アスレチック・カンファレンスの三冠を達成[3]。ライス大学史上初のメンズ・カレッジ・ワールドシリーズでバークマンは最優秀選手に選出された[3]。 プロ入りとアストロズ時代1997年6月のMLBドラフト1巡目(全体16位)でヒューストン・アストロズから指名を受け、プロ入り。直後から傘下のA+級キシミー・コブラズで試合に出場。53試合の出場で打率.293、12本塁打、35打点を記録した。 1998年にはAA級ジャクソン・ジェネラルズに昇格。ここでも122試合で打率.306、24本塁打、89打点と打ちまくり、シーズン途中でAAA級ニューオーリンズ・ゼファーズに昇格。打率こそ.271と平凡な数字に終わったが、17試合の出場で6本塁打、13打点を記録した。 1999年も前年に引き続きニューオーリンズでプレー。64試合の出場で打率.323、8本塁打、49打点という成績を記録し、シドニーオリンピックの野球アメリカ合衆国代表に選ばれた。しかし、7月16日にメジャーデビューを果たしたため、代表入りは辞退している。メジャーでは打率.237と振るわなかった。 2000年にメジャーに定着。114試合で打率.297、21本塁打、67打点を記録した。また2000年は一時マイナーに落とされていた時期があったが、そこでは31試合で打率.330、6本塁打、27打点を記録している。 この活躍に伴い、シーズン終了後にロジャー・セデーニョをトレードでデトロイト・タイガースへ放出している[4]。2001年は完全に左翼のレギュラーポジションを奪取。55二塁打を放ち、スイッチヒッターとしてはMLB初となる50二塁打と30本塁打の同時達成を成し遂げた。また、オールスターまでに21試合連続安打を記録し、自身初のオールスター選出を果たした。球団はバークマンと3年総額1050万ドルで契約延長[3]。 2002年は開幕から好調。スイッチヒッターとしてオールスター前までに29本塁打を記録したが、これは1961年にミッキー・マントルが記録した29本塁打に並ぶ記録である。2年連続となるオールスター選出を果たし、最終的にはナショナルリーグの打点王に輝いた。その活躍を評価され、MVPの投票では3位につけた。 2003年は数字が軒並み低下した。 2004年には復調し打率3割、30本塁打、100打点を超える成績を残し、地元ヒューストンのミニッツメイド・パークで開催となったオールスターに2年ぶりに選出され、試合前日に行われたホームランダービーではミゲル・テハダに次ぐ2位となった[5]。しかし、シーズン終了後にタッチ・フットボールに興じていた際に右膝の前十字靭帯を断裂してしまい、手術を受けることになった[3]。 2005年シーズン終了後にFAとなるバークマンと開幕前の3月に6年総額8500万ドルで契約延長した[6]。前年の怪我のため初出場は5月6日と出遅れ、5月こそ1本塁打止まりだったものの、徐々に調子を上げ始め、9月だけで11本塁打を記録。チームをポストシーズン出場へと導き、そこでも14打点を挙げた。翌2006年に記録した45本塁打・136打点は自己最多で、本塁打・打点の球団記録保持者ジェフ・バグウェルの記録に本塁打は2本足りなかったが、打点を9年ぶりに1つ更新した[7]。MVP投票でも3位に入った。 2007年はFAで新加入のカルロス・リーと並ぶ打線の軸として出場した。左打席での打撃不振のため、打率.278、34本塁打、102打点と前年より成績を落とした。 2008年は前半戦こそ三冠王を争うレベルの成績を残していたが、7月以降はわずか7本塁打しか放てず、29本塁打にとどまった。一方で、2年ぶりに打率.310以上を記録したほか、自己最多の18盗塁も記録した。 2009年、7月に左脹脛の肉離れで故障者リスト入りを経験するなど、136試合の出場に終わった。最終成績は、2年ぶりに.270台の打率となる。本塁打は25本放ち、10年連続で20本塁打以上、四球97も、9年連続での90四球以上となった。 2010年、アストロズで85試合に出場していたが、打率.245、13本塁打と成績が低迷した。 ヤンキース時代2010年7月末のトレード期限直前にマーク・マランソン、ジミー・パラデスとの交換で、ニューヨーク・ヤンキースへとトレードされる。ヤンキースでも37試合で打率.255に留まり、終盤戦ではツープラトン要員に格下げとなって起用された。結局2球団の通算打率、本塁打、出塁率、長打率、OPSが新人のシーズン以来最低の数字となった。オフにFAとなった。 カージナルス時代2010年オフにセントルイス・カージナルスと1年契約を結んだ。 2011年は4年ぶりの30本塁打となる31本を放つなど打撃が復活し、カムバック賞を受賞した。また自身初のワールドシリーズ制覇にも、第6戦で逆転の2点本塁打、10回裏に同点適時打を放つなどして貢献した。 2012年は膝を痛めてしまい2度の手術、32試合の出場に留まった。 レンジャーズ時代2013年1月5日、引退も囁かれたが、テキサス・レンジャーズと1年1000万ドルで契約した[8]。2011年に「レンジャーズは昨年(2010年)ワールドシリーズに出場したが、今年の戦力は平均レベル。エイドリアン・ベルトレと長期契約を結んだのは間違いだ」と発言していたため、入団が決まってから謝罪した。オフの10月31日に1200万ドルの契約オプションをレンジャーズが破棄したためFAとなった[9]。 現役引退後2014年1月29日に現役引退を表明した[10]。2月12日には4月5日に行われるアストロズ対ロサンゼルス・エンゼルス戦で、2月11日に引退したロイ・オズワルトと共に古巣アストロズと1日契約を結び、引退セレモニーを行うことが発表された[11]。 引退後はセカンド・バプテスト・スクールで野球指導を行う[12]。2021年5月にヒューストン・パブテスト大学野球部の監督に就任した[13]。 選手としての特徴
スイッチヒッターだが、右打席ではあまり数字を残していない。MLB全体では右投手の方が多いので、左打席の方が多くなるのは当然だが、打率・出塁率・長打率の3つを見てみると、その差は歴然である。これほど成績に開きがあり、2006年は左打席で9.5打席に1本の本塁打を放っている。これは、58本塁打を放った2006年のナ・リーグMVPライアン・ハワード(10.0打席)や、49本塁打のアルバート・プホルス(10.9打席)を凌ぐペースである。バークマン自身は右打席へのこだわりがあり、2004年のオールスターゲーム前日に開催されたホームランダービーでは、右打席で本塁打を連発していた[2]。 もともと一塁手だったが、絶大な人気と実績を誇る主砲ジェフ・バグウェルがいたため、メジャーでのプレー機会を考え、外野手へコンバートされた。バグウェルの引退後は一塁手に定着したものの、マイク・ラムらが好調な際は外野を守ることがあった。カージナルス移籍1年目となる2011年は一塁にプホルス、左翼にマット・ホリデイがいたため、主に右翼手を守った。長く外野を守っていたので、一塁守備は平均レベルだが、年々上達してきている。外野守備も守備範囲は広くないものの堅実で、3ポジションとも守ることができる。 性格は良く、2009年にセシル・クーパー監督が解任された時は自身の不振がチームの不振の一因となったこともあり「責任を痛感している」と語った。敬虔なクリスチャンで、若手と気さくに接するまとめ役となっている。 詳細情報年度別打撃成績
打席別打撃成績
年度別守備成績
タイトル
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク
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