桑原征平
桑原 征平(くわばら しょうへい、1944年〈昭和19年〉5月14日 - )は、日本のフリーアナウンサー、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。ニックネームは「征平さん」(もしくは「征平ちゃん」)で、2015年度からは種智院大学人文学部の客員教授を務める。 1969年8月から2004年5月までは、アナウンサーとして関西テレビに勤務。2004年度から2014年度までは、アナウンサーとして活動するかたわら、大阪芸術大学で客員教授や教授を歴任した。また、一時は「丹後ふるさと観光大使」(京都府)も務めていた。 来歴京都府京都市右京区西院の出身で、京都で「水泳一家」として知られた家庭の三男として出生した。 高校進学の際には、2人の兄の母校でもある京都市立西京高等学校商業科を受験するも不合格。結局、私立京都西高等学校(現在は京都外大西高等学校)を経て、2人の兄の母校でもある成城大学経済学部に進学した[1]。 学生時代には、競泳や水球の選手として活躍。男子200mバタフライでは京都府の中学生記録を5年間保持していたほか、中学校時代には同種目で東京オリンピック(1964年)の日本代表候補選手になったこともある。高校時代にも3年連続で、国民体育大会の競泳・バタフライ種目に京都府代表で出場している[2]。 中学校時代の同級生に、山本忠男(元・南海ホークス内野手・コーチ、三星ライオンズコーチ・監督)や桧山進次郎(元・阪神タイガース外野手)の伯母などがいる。桧山本人も、出身小学校の後輩である。京都西高校水泳部の同期生にお笑い芸人・宮川大輔(以下「大輔」と略記)の実父、成城大学水球部時代の同期生にピン芸人・TAIGAの実父がいた関係で、大輔やTAIGAとも幼少期から親しい[3]。 酒問屋の営業マン・水球の選手からアナウンサーへ成城大学を卒業後は、当時「黄桜クラブ」という水球部を擁していた黄桜酒造からの預かり社員として、髙島屋と縁の深い大阪市内の酒問屋・祭原(さいはら、2001年に菱食へ吸収合併、現在は三菱食品)に入社。かつて南海の選手だった上司に仕えながら、酒やクーポンサービスの営業マンとして勤務するとともに、社長の仲人によってTAIGAの実父(前述)のいとこ(現在の妻)と結婚した。また、「黄桜クラブ」の選手として、水球の全日本選手権で優勝している[4]。 しかし、結婚1ヶ月後の営業活動中に、休憩のつもりで立ち寄った大阪ガスビル内の喫茶店で「サンケイスポーツ」の関西テレビアナウンサー募集記事を偶然目にした。この一件をきっかけに、妻や祭原の関係者に内緒で、同局の中途採用試験へ挑戦[5]。1969年(昭和44年)8月に、約750人の応募者の中から、杉山一雄とともに同局に採用された。初の中途採用アナウンサーで、この年の新卒採用社員には、上沼真平(上沼恵美子の夫、元プロデューサー)、千草宗一郎(元社長)、荒田静彦(元カメラマン、のち系列局・鹿児島テレビ放送の社長)などがいる。 桑原が同局の中途採用試験を受けた1969年は、正社員の定期採用を実施しなかった。しかし、地元で大阪万博の開催を控えていたことや、同じフジネットワークへの加盟を前提にしたUHF局の開局が九州で相次いだことから方針を転換。大阪万博に関する自社制作番組への出演や、九州のUHF新局への派遣[6] を視野に、アナウンサーを大量に確保する必要に迫られていた。 「テレビ局見学のつもりで受験した」という桑原は、受験資格に「標準語を話せる者」との条件がありながら、最終面談(6次試験)で社長から「自分自身の欠点は?」と聞かれて「欠点は標準語が話せないこと」と回答。しかし、試験官を務めた角倉節朗(当時の制作担当常務)から、「(桑原の話す)京都弁こそ100年前までは標準語だった」「おもろいやっちゃ(面白い奴だ)」という言葉を掛けられた。結局、人事部長から「研修の3ヶ月間で標準語のアクセントを身に付けられなければ(祭原への在籍中と同じ)営業職へ異動」という趣旨の同意書に一筆記すことを条件に、アナウンサーとして採用された。 ちなみに、同局のアナウンサー試験を受けたことを妻や祭原の関係者に打ち明けたのは、採用の通知後であった。当時の祭原の社長からは転職を強く反対されたため、入社の条件であった祭原の退社証明書を同社から発行してもらうために、先代社長の親戚筋へ周到な根回しを重ねたという。 関西テレビアナウンサー時代桑原は入社直後から、「どうにかしてアナウンス室にとどまりたい」との一心で、自分へ仕事を回すよう制作部の部長へ直談判。自身の顔が出ない番宣番組で和田アキ子・笑福亭仁鶴(いずれも当時関西テレビで制作していた連続ドラマ『世の中さかさま』のメインキャスト)へのインタビュアーを任されたことを皮切りに、(通常はアシスタントディレクターや若手芸人が担当する)公開放送の前説や、本社で撮影していた江原真二郎出演のドラマ(タイトル不詳)のエキストラなどを務めながら、顔出しで番組へ出演する機会を徐々に増やした。 その一方で、入社2年目(1970年)に開かれた大阪万博は、中途採用の本来の目的であったアナウンサーとしてではなく、会場内で 取材スタッフの移動用に稼働させていた電気自動車の運転手として迎えた。関西テレビや他のフジテレビ系列局の重役がこの自動車に乗る機会も多かったため、実際にはガイド役を兼ねていた。 桑原の名が全国に知られるようになったのは、関西テレビ制作の全国ネット番組『ハイ!土曜日です』にレギュラーで出演してからである。当初はスタジオアシスタントに過ぎなかったが、1975年(昭和50年)から毎週担当したVTR取材コーナー『征平の挑戦』において、日本各地や世界各国で体当たりレポートを敢行(後述)。危険を顧みないほどのバイタリティ、喜怒哀楽を露わにしたリアクション、濁声の絶叫などで全国に名を知られるようになった。本人が後年回顧したところによれば、大阪万博会場での電気自動車の運転を通じて系列局の関係者と数多く知り合えたことも、全国規模の活動につながったという。 1976年(昭和51年)4月から1977年(昭和52年)3月までは、関西テレビと関連会社・ラジオ大阪(OBC)による相互交流企画の一環として、当時の関西テレビアナウンサーから唯一ラジオ大阪の番組にレギュラーで出演。『みんなでみんなでリクエスト バンザイ!歌謡曲』(同局が当時阪神百貨店梅田本店内のサテライトスタジオから放送していた生ワイド番組)の木曜日に、浅川美智子とともにパーソナリティを務めた[7]。 『ハイ!土曜日です』の終了後も、後継番組の『DOサタデー』『モーニングスタジオ・土曜!100%』(以下『土曜100%』と略記)や、関西テレビ制作・全国ネットのクイズ番組『クイズDEデート』で司会を担当した。1985年(昭和60年)4月からは、その人気に注目したフジテレビ(関西テレビのキー局)からの強い要請で、アナウンサーのまま東京支社編成部へ異動(後述)。1987年(昭和62年)3月までの2年間、フジテレビ制作の全国ネット番組『おはよう!ナイスデイ』で司会を務めた。この時期には、近畿地方で大きな事件やブームが続発。単身で東京へ赴任していた桑原も、実際には取材リポーターとして頻繁に関西へ戻っていた。 1987年4月に本社へ復帰してからは、『ハイ!土曜日です』の放送枠で、『土曜大好き!830』『土曜ぴーぷる』の司会を担当。『めざましテレビ』の中継コーナーにリポーターとしてレギュラーで出演するなど、全国ネット・関西ローカルを問わず、関西テレビの看板アナウンサーとして情報・バラエティ番組を中心に活躍した。1990年3月末に毎日放送で放送された『あどりぶランド』(同局アナウンサー総出演のテレビ番組)300回記念スペシャルには、杉山や中島優子(いずれも当時の同僚アナウンサー)とともに、局の垣根を越えてゲストで出演している。 また、横山ノックが参議院議員選挙や大阪府知事選挙への出馬で『ノックは無用!』(関西ローカル向けの生放送による冠番組)への出演を見合わせた期間には、公職選挙法対策の一環でノックに代わって登場(詳細後述、番組名もこの期間のみ『ロックは無用!』に変更)。『ノックは無用!』でも、ノックが大阪府知事へ就任した1995年4月から、公務などで多忙なノックに代わって司会を一時務めていた。 2004年4月から大阪芸術大学の客員教授へ就任した後に、同年5月14日で関西テレビを定年退職。当時の定年は60歳であったが、杉本清(競馬実況で知られた先輩アナウンサー)に次ぐ歴代2人目の「局長待遇ゼネラルエキスパートアナウンサー」(管理職扱いの専門職)として、関西テレビでのアナウンサー生活を全うした。関西テレビのアナウンサーで専門職にまで登り詰めたのは、2024年の時点でも杉本と桑原のみで、2人には「新卒採用で入社せず、入社後も定時ニュースを担当する機会がほとんどなかった」という共通項が認められる[8]。 関西テレビでは、桑原の退職翌日(5月15日)に、前代未聞の定年退職記念特別番組『さらば征平・最後の挑戦!』を生放送。後輩のアナウンサーや、『土曜大好き!830』で共演した板東英二や香坂みゆきなどをスタジオに迎えて、『征平の挑戦!』のダイジェストや定年間際での挑戦(東尋坊からのダイビングやマチュ・ピチュでのグッバイボーイ経験など)の模様を放送した。同番組は、関西ローカルでの放送ながら、2004年度の日本民間放送連盟賞でテレビ番組部門のエンターテインメント番組最優秀賞を受賞した[9]。関西テレビ制作の番組としては初めての受賞で、視聴者からも大きな反響があったため、以降も4度にわたって放送している。その一方で、アナウンサー一筋で関西テレビの定年を迎えたことに対して、日本放送作家協会から第13回(2003年度)関西ディレクター大賞の特別賞を授与された[10]。 フリーアナウンサーへの転身後桑原は、関西テレビからの定年退職の前後に、ライバル局の朝日放送(現在の朝日放送テレビ)やテレビ大阪(TVO)からテレビ番組へのレギュラー出演を打診。テレビ大阪では、関西テレビからの退職を機に、『征平・宮根のヨソ様の事情』(朝日放送〈所属当時〉を退社したばかりの宮根誠司との共同司会によるレギュラー番組)を放送することが内定していた。しかし、TVOからのプレスリリースで事情を知った当時の関西テレビ社長・出馬迪男が、桑原に対して定年退職後から5年間の専属出演契約を提案。その結果として、TVO制作番組への出演を容認することを条件に「メディアプルポ(同局の関連会社)所属のゼネラル・エキスパート・アナウンサー」扱いで関西テレビの番組出演を優先する契約を結んだ。 上記の経緯から、関西テレビでは契約期間満了の2009年まで、アナウンス室に桑原専用のデスクを設置。テレビ大阪では2005年4月から、関西ローカルの冠番組(『征平・宮根のヨソ様の事情』→『征平・宮根のクチコミぃ!?』)で、宮根と共に司会兼リポーターを務めていた。さらに、当時テレビ・ラジオ兼営局であった朝日放送では、上記の契約がラジオ番組への出演にまで及ばないことに着目(後述)。退職直後の2004年6月から、ラジオ放送部門(現在の朝日放送ラジオ)が制作する番組のパーソナリティへ桑原を起用するとともに、ラジオでは自身初めての冠番組として『桑原征平粋も甘いも』(以下『粋甘』と略記)の放送を開始した。 その一方で、関西テレビからの定年退職直後には個人事務所を設立。妻が代表を務めていたが、桑原曰く「(仕事で受け取ったギャランティなどの)お金の流れを妻に見抜かれるのはかなわない」との理由で解散させたという。解散後はどの事務所にも所属していないが、関西テレビのアナウンサー時代から依頼の多い講演については、解散前に続いて複数の講師斡旋会社から請け負っている。 テレビ番組については、『征平・宮根のクチコミぃ!?』へ出演していた2006年に、テレビ東京系列で1月2日に放送された正月特別番組『第2回全日本パフォーマンス人文字大賞』でテレビ大阪チームのリポーターとして登場。フジテレビ以外の在京テレビ局が制作する全国ネット番組へ初めて出演した。しかし近年は、出演番組を関西ローカルに限定。2009年4月から半年間『アップ&UP!』(当時関西テレビで放送されていた情報番組)のリポーターを務めたことを最後に、レギュラー出演の機会が途絶えている。 ラジオ番組では2004年10月から、『粋甘』を「ラジオのゴールデンタイム」とされる平日昼間の生ワイド番組へ移行した。現在では、週2回放送の『粋甘』に加えて、『征平・吉弥の土曜も全開!!』(土曜日の生ワイド番組、以下『土曜も全開』と略記)や『征平・あさおのどす恋ラジオ』(事前収録による平日夕方のラジオショッピング番組、以下『どす恋ラジオ』)でもパーソナリティを担当。2015年9月までの『どす恋ラジオ』では、「征太郎(しょうたろう)」というキャラクターで、パートナー・高野あさおとの掛け合いによるショートコントを披露していた[11]。2011年と2014年には、同局の看板番組『おはようパーソナリティ道上洋三です』で、夏期休暇中の道上洋三の代役としてメインパーソナリティを担当。同局の制作番組では新年最初の生放送番組になる『新春スーパーワイド』では、2013年から第1部(5:00 - 11:00)のメインパーソナリティに起用されている。 2012年には、フリーアナウンサーに転身してから3019日を経過した9月12日に、転身後初の著書として『3019(さんれいいちきゅう)桑原征平』を発売。また、宮川大輔の一族を取り上げた『ファミリーヒストリー』(10月8日にNHK総合テレビで放送)の証言ゲストとして、NHKの番組に初めて登場した。 2014年の誕生日で70歳に達したため、同年度限りで大阪芸術大学を定年退職。2015年には、3月15日に万博記念公園で開催の「ABCラジオ スプリングフェスタ2015」で「公開断髪式」に臨んだ(詳細後述)。同年4月以降は、フリーアナウンサーとしての活動と並行しながら、地元・京都にある種智院大学の社会福祉学部で客員教授を務める。同年7月には、メインパーソナリティを務める『粋甘』が、2015年日本民間放送連盟賞の近畿地区・ラジオ生ワイド部門最優秀賞を受賞した[12]。 75歳の誕生日(5月)、ABCラジオでのパーソナリティ生活15年(6月)、アナウンサー生活50年(8月)を相次いで迎えた2019年には、『粋甘』と『土曜も全開!!』の合同プロジェクトによる2部構成の有料イベントとして、9月13日(金曜日)にあましんアルカイックホール・オクト(兵庫県尼崎市)で「桑原征平生前葬~甦生(よみがえり)の儀~」を開催した(詳細後述)。80歳の誕生日を迎えたことに加えて、ABCラジオでのパーソナリティ生活が20年目に入った2024年にも、「桑原征平生誕80年&ABCラジオ降臨20周年スペシャルパーティー『イッツ・征タイム!!』」を7月5日(金曜日)にリーガロイヤルホテルで開いている。 趣味・人物
家族・親族次兄は、水球の日本代表選手として1964年東京オリンピック・1968年メキシコシティーオリンピック・1972年ミュンヘンオリンピックに出場した桑原重治(元・水球日本代表監督。2007年永眠)[18]。長兄・次兄とも著名な水球選手であったことから、征平が成城大学の学生だった1964年(東京オリンピックの開幕前)には、当時朝日放送で毎週火曜日の20時台に放送されていた『圭三ファミリー・アワー クイズ・クイズ・クイズ』(NHKのアナウンサーだった高橋圭三がフリーアナウンサーへの転向後初めて司会を務めたTBS制作のクイズ番組)に三兄弟揃って解答者として出演した(結果は1回戦で敗退)。 長女は桑原菜穂子(元・フジテレビディレクター)。菜穂子の弟に当たる桑原達秋(福井テレビ局員、元・同局アナウンサー)が長男で、征平の関西テレビアナウンサー時代(フジテレビへの出向前)に『オールスター家族対抗歌合戦』(フジテレビ制作)へ揃って出演したこともある。達秋は近畿大学への在学中に生田教室(多数のアナウンサーを輩出したアナウンス専門学校)へ通っていたが、達秋によれば、教室を主宰していた生田博巳(元・NHKおよび読売テレビアナウンサー)は面識のない征平のアナウンスに一目置いていたという。 親族には、マフィ、TAIGA・近江知永夫妻、テレビカメラマンの柿内孝文(菜穂子の夫)などがいる。また、自身の孫(柿内・菜穂子夫妻の3人の息子)は、「かきうちパンティーブラザーズ」と称して小学生時代からYouTuberとしても活動[19]。「かきうちパンティーブラザーズ」の長兄である大学生の柿内六甲[20]は、「柿内ロッコウ」という名義で、学業と並行しながら「映像作家」や「『カニバル』(オルタナティブロックバンド)のリーダー兼ボーカリスト」としても活動している。逆に、孫がYouTubeへ投稿する動画には、桑原、宮川大輔、宮川の父親、マフィも随時登場。長男の達秋も、1人の子ども(男児)を授かっている。 「柿内ロッコウ」が作詞と作曲も手掛ける「カニバル」は、アマチュアバンドでありながらYouTubeを中心に高い人気と知名度を得ているほか、「十代白書」(将来有望なシンガーソングライターやバンドを関西地方の10代から発掘する目的で2011年から大阪を中心に京阪神地区のライブハウスで年に1回開催されているトーナメント方式の音楽イベント)の2024年大会で決勝に進出[21]。桑原は、「ロッコウ」を小学校6年生の時に『粋甘』の生放送へ出演させたほか、「カニバル」での活躍を2023年頃から折に触れて同番組で紹介している。「ロッコウ」自身も、「カニバル」での活動の一環でメディアに随時露出。2024年4月13日・20日放送分の『ミュータマ』(音楽ライターの鈴木淳史がパーソナリティを務める朝日放送ラジオのトーク番組)へゲストで出演した際には、桑原が「おじいちゃん(祖父)」に当たることを告白した[22]。さらに同局では、『じいじ桑原征平80歳孫六甲20歳 ふたり足して100歳スペシャル』という特別番組を、鈴木の進行で2024年5月29日(水曜日)の『粋甘』本番後に収録。収録後に編集した音源を、6月2日(日曜日)の21:30 - 22:15に放送した[20]。 ちなみに桑原は、いわゆる「後期高齢者」の年齢に差し掛かっても朝日放送ラジオの番組パーソナリティをレギュラーで続ける理由の1つに、3人の孫を大学へ進学させるための学費を(番組出演のギャランティーなどで)賄うことを挙げている。もっとも、孫たちは「かきうちパンティーブラザーズ」としての動画配信を通じて、多額の広告収入を確保。長兄の六甲も「プロの映像作家」としてミュージックビデオなどを制作しているため、孫たちが通っている学校の授業料も、このような収入と報酬だけで賄えるという。 エピソード朝日放送ラジオが月に1回公開・配布しているタイムテーブルの2020年1月号で 「桑原征平の人生は挑戦ゲーム」 という人生ゲーム風の特集が組まれるほど、桑原の半生は、珍奇にして人情味あふれる体験とハプニングに満ちている。桑原自身も、その一端がうかがえるエピソードを、『粋甘』や『土曜も全開』でたびたび披露。『粋甘』の放送開始から18年半後の2023年2月には、前年(2022年)末までの放送で本人が発した発言を基に製作された「『桑原征平 粋も甘いも』日めくり金言カレンダー」(2023年4月1日から閏年に当たる2024年3月31日までの366日に対応)が、1,000部限定で発売されている。 以下では、自著『生きてるだけで丸もうけ』(2005年、ぴあ)や『3019桑原征平』での記載内容を中心に紹介する。 幼少期
学生時代
関西テレビへの中途採用
関西テレビのアナウンサー時代
『ハイ!土曜日です』のサブ司会として
『おはよう!ナイスデイ』の司会として
ニュース・報道系番組での逸話
体当たり取材での逸話→「土曜大好き!830 § エピソード」も参照
フリーアナウンサーとして
大学教授として
生前葬の開催(2019年)
「桑原征平生誕80年&ABCラジオ降臨20周年スペシャルパーティー『イッツ・征タイム!!』」の開催(2024年)桑原は、2024年の誕生日(5月14日)で80代に入ってからも、ラジオパーソナリティとして朝日放送(ABC)ラジオで複数の冠番組を担当。さらに、『粋甘』では2024年6月に放送20周年を迎えた。 ABCラジオでは、桑原と『粋甘』が2024年に相次いで「節目」を迎えることを背景に、リスナーが参加できる記念イベントを計画。その結果、「桑原征平生誕80年&ABCラジオ降臨20周年スペシャルパーティー『イッツ・征(ショウ)タイム!!』」と銘打った昼夜2部構成の有料定員制イベントを、同局の本社屋に近いリーガロイヤルホテルで7月5日(金曜日)に開催した。 桑原の80回目の誕生日の翌日(5月15日)が水曜日で、桂紗綾がパートナーを務める『粋甘』の放送日にも当たることから、この日の『粋甘』の本番開始(12:00)と同時にチケットの発売を開始。チケットには1枚ごとに整理番号を入れていて、12:00開始の「昼の部」・18:00開始の「夜の部」とも上限を100席に定めていたが、チケットは発売の開始から数時間で完売[75]。ABCラジオでは客席の間隔を狭めることで総席数を増やしたものの、追加した客席のチケットもすぐに完売している。 実際には「昼の部」「夜の部」とも、ビュッフェ・サービスと記念品を参加者全員に提供したほか、「征平の挑戦」と銘打ったプレゼント抽選会を開催。桑原も、参加者からのリクエスト(写真撮影やハグなど)へ可能な限り応じながら、全ての客席を回っていた。 また、桑原と縁の深いABCテレビアナウンサーの中邨・小寺右子(開催の時点では毎月前半における『粋甘』のパートナー)・桂紗綾が、パーティーの司会を分担。当初は、中邨と小寺が「昼の部」、伊藤史隆と桂紗綾が「夜の部」で務めることが告知されていた。しかし、伊藤がCOVID-19への感染に起因する体調不良で出演を見合わせたため、中邨が「夜の部」の司会(伊藤のポジション)を代行している。また、「昼の部」には桂吉弥、「夜の部」には小川と永田が「ゲスト」で登場。「スペシャルゲスト」と銘打って、高野とサッカー解説者(元プロサッカー選手)の播戸竜二(2020年度の上半期に『土曜も全開!!』で「えらいこっちゃサッカー」と称するJリーグ・サッカー日本代表関連コーナーに出演)を「昼の部」[75]、ABCテレビアナウンサー時代の2021年9月から2023年11月まで『粋甘』のパートナーを小寺と交互に務めていた橋詰優子(2024年4月に退社)を「夜の部」に迎えていた。 なお、ABCラジオでは2024年7月分のタイムテーブルで、「桑原征平 これまでの20年 これからの20年」という特集を組んでいる。さらに、『桑原征平 生誕80年&ABCラジオ20周年「イッツ・征タイム!!」』と称する特別番組を、同月20日(土曜日)の14:00 - 15:45(『土曜も全開!!』の本番後)に生放送。「昼の部」と「夜の部」を、桑原・小寺・桂紗綾によるクロストークとダイジェスト音源で振り返っている。 著名人との主な交流・関係
現在の出演番組いずれも朝日放送ラジオの番組。
過去の出演番組レギュラーを務めた番組、キャスター・パーソナリティ代理やナレーターとして出演した番組、冠番組として放送された特別番組のみ記述。 関西テレビ時代定期的に出演していた報道・情報番組
(フジテレビへの出向期間を含む)その他の主な出演番組
この他にも、関ジャニ∞がデビュー直後にレギュラーを務めていた深夜番組に出演していたことがあった(放送時期・番組名不詳)。
ラジオ番組
以下はニッポン放送が関東ローカル向けに制作した特別番組で、フジテレビ出向期間中の1986年に単独でパーソナリティを担当。
フリーアナウンサーへの転身後テレビ番組
ラジオ番組
以下はいずれも、朝日放送ラジオの番組。
出演作品映画テレビドラマ
ラジオドラマ
広告テレビ・ラジオCM テレビ
ラジオCM
以下の医療機関については、院長が桑原の「かかりつけ医」に当たることから、朝日放送ラジオへのCM出稿開始を機に出演。
2008年から2015年までは、『粋甘』でサークルKサンクスとのコラボレーション商品(前述)を地域・期間限定で発売するたびに、桑原の声・歌によるラジオCMを放送していた。 看板・ポスター
新聞連載
以上のコラムはいずれも、関西テレビ東京支社からフジテレビへ出向していた時期に執筆。
著書
いずれの書籍も、2023年6月の時点で絶版。鶴書房は『ハイ!土曜日です 征平の挑戦』刊行の翌年(1979年)に倒産、朝日放送ラジオ関連の出版事業(2011年における『いつもラジオと一緒 ABCラジオ創立60周年記念CDブック』の製作など)を一時手掛けていたプラネットバルンは『3019桑原征平』刊行の翌年(2013年)に破産していて、本人もこの事実を『桑原征平粋も甘いも』などで公言している。 脚注
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