平田勝男
平田 勝男(ひらた かつお、1959年7月31日 - )は、長崎県松浦市出身[1]の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。現在は阪神タイガースで二軍監督を務めている。 2019年から2022年まで阪神タイガースの二軍監督を務めたほか[2]、野球解説者時代の2012年から芦屋大学の客員教授を務めた[3]。 経歴プロ入りまで松浦市今福町出身[1]。長崎市の海星高等学校に進学し[2]、2年生で遊撃手のレギュラーをつかむと、1年先輩の好投手酒井圭一を擁して第58回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、準決勝でPL学園高等学校に延長戦の末に敗れた。翌年の第49回選抜高等学校野球大会にも出場し、同大会では開会式の選手宣誓を行っている。2回戦(初戦)で、高知県立中村高等学校の山沖之彦投手に抑えられ敗退した。 卒業後は明治大学に進み[2]、当時の野球部監督・島岡吉郎の指導を受けた。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝し、全日本大学野球選手権大会で3回、明治神宮野球大会でも1979年に優勝した。リーグ通算83試合で307打数96安打、打率.313、2本塁打、39打点。ベストナイン4回。大学時代から犠牲バントの技術があり、1980年から2年連続出場した日米大学野球では、解説者に「平田のバントは百発百中」と紹介されていた。大学同期にはエースの森岡真一(日産自動車)らがいる。なお、4年時の大学選手権優勝以来同校はこの大会でのタイトルから遠ざかっていたが2019年に優勝すると当時1年生であった善波達也明大監督(広澤克実らと同期)が優勝インタビューで平田を含む当時のメンバー9人の名前を挙げた。 プロ入り後1981年のドラフト2位で横浜大洋ホエールズと阪神タイガースの重複指名の結果、クジを引き当てた阪神に入団した[4]。 当時の平田は非力な打撃から、明大の島岡監督は「プロに入っても成功しない」と考えていた。平田も島岡の考えに従い社会人野球へ進むことを決めており、入団交渉の際も別室で控え島岡に交渉を任せていた。島岡は阪神側に「平田はプロには行かせない」と断りを入れる。しかし阪神の安藤統男新監督(慶大OB)が「六大学時代は島岡さんによくやられました」などとしきりに持ち上げたことに機嫌を良くした島岡は、別室に控えさせていた平田を呼び、「お前、阪神に行け」とその場で命令したと平田本人が後に語っている(島岡は特に早慶へ強い対抗心を抱いていた)[5]。 当時、阪神の遊撃レギュラーは真弓明信だったが、1983年5月に故障したことで、後継として遊撃手に定着する。復帰後の真弓は岡田彰布の故障で空いた二塁手に回った。同年は83試合に先発出場。 1984年には規定打席(29位、打率.268)に達し、同年から1987年までダイヤモンドグラブ賞・ゴールデングラブ賞を獲得し、守備の名手として活躍した[6]。阪神が21年ぶりのセ・リーグ制覇、そして初の日本一に輝いた1985年には打撃も好調を維持し、7番打者ながら50打点以上を記録した[7]。また、同年10月10日の対ヤクルトスワローズ戦(阪神甲子園球場)でプロ初・野球人生初の満塁本塁打を放っている。同年の西武との日本シリーズでは、第1戦に3安打、通算22打数7安打1打点とチーム日本一に貢献した。 1988年に村山実監督が就任し、遊撃手のレギュラーは和田豊となり、主に控えとなった。以降は出場試合数が100試合を切ったが、守備力とバントの技術で貴重な控えとして貢献した。1990年は8試合の先発出場にとどまるが、打撃は好調で、主に代打として打率.347の好成績を残している。 1994年に現役引退。10月1日の対広島東洋カープ戦(甲子園)が引退試合となり、二番・遊撃で先発出場。現役最終打席は中村勝広監督から「振って来い」と送り出されるも、平田自身の判断による送りバントであった[8]。現役時代は、中西清起・平田・木戸克彦の3人で「NHKトリオ」と呼ばれていた。 現役引退後引退後は毎日放送解説者・スポーツニッポン評論家(1995年 - 1996年)を経て、1997年に一軍内野守備コーチとして阪神に復帰。1999年から2000年は一軍守備コーチ、2001年には一軍守備走塁コーチを務めた。コーチ時代も常に大声のムードメーカーで、指導は「厳しく楽しく」がモットーであった[9]。 2002年、大学の先輩である星野仙一監督就任を機に、監督専属広報及び専属運転手に就任した。その際、送迎車のナンバープレートの数字を「1001」(仙一)などいろいろ考えた末に「731」にして、星野監督に「何で731なんだ?」と聞かれ、「僕の誕生日です」と答えて星野監督に怒られかけた[10]。 星野が監督を勇退した2004年からは、岡田彰布の下で一軍ヘッドコーチとして現場復帰した。2005年9月7日の中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)では、9回裏本塁のクロスプレーでの微妙な判定に対し、球審の橘高淳を突き飛ばして退場処分を受けた。 2007年からは二軍監督を務め、2010年には4年ぶりのウエスタン・リーグ優勝を果たしたが、シーズン終了後退団した。 2011年シーズンより毎日放送解説者[注 1]、スポーツニッポン評論家に復帰した。復帰後の初仕事は、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した星野へのインタビューだった[11]。 2012年には、野球解説・評論活動と並行しながら、「芦屋学園スポーツモダニズムプロジェクト」のメンバーに招聘され、同年4月からは、同学園が運営する芦屋大学の客員教授に就任した。 2013年からは二軍監督として、2年ぶりに現場に復帰[12]。2014年も同職を務め、2015年は一軍ヘッドコーチ[13]、2016年からは一軍チーフ兼守備走塁コーチ[14]、2019年からは二軍監督を務めた[15]。 2019年6月14日、13日のオリックス・バファローズ戦で、選手交代の通告を怠ったとして、斉藤惇コミッショナーから厳重注意が下された[16]。 2021年、自身の指揮する二軍が7月30日の対オリックス戦(阪神鳴尾浜球場)から9月15日の対ソフトバンク戦(甲子園)にかけて引き分けを挟んだ18連勝を達成し、1999年に読売ジャイアンツが達成した15連勝を上回るファーム日本新記録を樹立した[17][18]。その後福岡ソフトバンクホークスと激しい首位争いを繰り広げたが、9月24日の対オリックス戦(甲子園)に勝利したことでチームを3年ぶりのリーグ優勝へと導いた[19]。チーム最終成績は106試合で65勝34敗7分け、勝率は.657であった[20]。その後、10月9日に行われたファーム日本選手権(ひなたサンマリンスタジアム宮崎)でイースタン・リーグ優勝チームの千葉ロッテマリーンズを下し、ファーム日本一を達成した[21]。 一軍監督に岡田が復帰した2023年から、一軍のヘッドコーチに復帰[22]。その年の現役ドラフトでは阪神はソフトバンクの大竹耕太郎を指名したが、これは二軍監督だった平田がファームで対戦した大竹の力量を高く評価していたからであった[23]。この年には、現役時代の1985年以来38年ぶりに日本シリーズ制覇を経験している。 2025年からは再び二軍監督を務める。 選手としての特徴非力ではあるものの、犠打などの小技と勝負強さを兼ね備えた打撃と堅実な守備が武器。1987年まで遊撃のレギュラーとして4年連続でゴールデングラブ賞を受賞し、その後は貴重な控え選手としてチームを支えた。山本和行は、「自分の捕れる打球は絶対にエラーしなかった。それだけでも投手としては計算ができるし、安心して投げられる」と平田の守備を評価している[24]。深い守備位置から矢のような送球で打者走者を刺す強肩の持ち主で、1985年の日本シリーズでも随所で好守備を連発した[8]。 人物学生時代は、試験勉強やレポートの提出はおろそかにしていたが、当時、明大教授であった栗本慎一郎が後に「レポートの文章に、一字一句参考書を楷書で書き写してきたのは平田だけだ。本来はこういう参考書をそのまま書き写したり模写しただけの学生には単位はやらないが、平田の几帳面さに免じて単位を出した」と語るほど繊細な一面もある。この話は試験期間が近づくと毎年のように栗本が講義で話していた。 阪神の指導者としては若手選手に厳しい言葉をたびたび投げ掛けているが、二軍監督時代の2019年に阪神鳴尾浜球場で立ち会った横田慎太郎外野手の引退試合(ウエスタン・リーグのシーズン最終戦だった9月26日の対福岡ソフトバンクホークス戦)では、9回表から中堅の守備に就く予定だった横田を8回表の途中から出場させた。横田は2016年のレギュラーシーズン開幕当初に一軍の正中堅手へ抜擢されながら、翌2017年に脳腫瘍を発症した影響で「打球が二重に見える」といった視覚面の問題を抱えていたが、平田によれば「外野の守備へ必ずダッシュで向かう姿に好感を持っていたので、その姿を最後にファンへ見せたかった(ので、3年近く経験していなかった中堅の守備に予定より早く就かせた)」という[25]。当の本人は、二死二塁の局面から塚田正義が打ったゴロ(記録は中前安打)を捕球すると、「本塁へのノーバウンド送球で二塁走者の水谷瞬を補殺する」というファインプレー(いわゆる「奇跡のバックホーム」)で現役生活を締めくくった[26][27]。 ミッキーマウスに似ていることと、明るく外交的な性格から、阪神の現役選手時代にはミッキーという愛称で親しまれていた。MBSラジオの野球解説者に復帰していた時期にも、同局のプロ野球中継で阪神戦の解説を務める場合には、「帰って来たお祭り男」(2012年以降は「トラのお祭り男」)というキャッチフレーズが付けられていた。一軍コーチの在任中にチームがセ・リーグ優勝や日本シリーズ制覇を果たした際には、祝勝会の「ビールかけ」で以下の逸話を残している。
詳細情報年度別打撃成績
表彰記録
背番号
関連情報出演番組テレビ
ラジオ
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脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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