帝都高速度交通営団
帝都高速度交通営団(ていとこうそくどこうつうえいだん、英: Teito Rapid Transit Authority)は、東京都特別区(23区)の地下鉄を経営するため、1941年(昭和16年)から2004年(平成16年)まで日本に存在していた日本国政府および東京都が出資する鉄道事業者。略名は営団地下鉄、交通営団、営団(英語圏ではT.R.T.A)。 概要経緯帝都高速度交通営団法に設立根拠を持ち、交通関係の省庁所管[1]であった「公法上の法人」[2]である。通称 日中戦争中に、国家による統制管理のために設置された経営財団、いわゆる「営団」の一つである。「帝都」とは大日本帝国の首都、すなわち東京のこと、「高速度」とは新幹線のような高速鉄道の意味ではなく、かつて市内交通の主役であった路面電車に対して「高速」である『都市高速鉄道』の意味である。英語表記は “Teito Rapid Transit Authority” で、 “TRTA” という略称もあった。 東京地下鉄道と東京高速鉄道によって行われていた東京市の地下鉄建設・運営事業を統合し、一元的に東京の地下鉄を建設・経営する公共企業体として発足した。元々は1930年代の不況の中、他の交通機関と競争を続け経営難に陥っていた交通事業者を統合して救済する「交通調整」を目的に設立が検討され(この理念を体現したのがのちの陸上交通事業調整法である[3]。当時このような交通事業の再編は、自動車の急増を背景としてロンドンやベルリンで既に行われており、世界的なトレンドであった)、地下鉄のみならず東京近郊のすべての鉄道とバス事業を担う巨大交通事業者となることが期待された。ところが1937年に日中戦争が開戦すると一転好景気となり、それに伴う輸送量の急増により「交通調整」の前提が崩れた。そこで計画が見直され、地下鉄の整備を新設の特殊法人(交通営団)が担い、路面電車やバスなどは東京市(のちに東京都)が管理するという体制となった[4]。 第二次世界大戦後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、帝都高速度交通営団を除く営団は解散もしくは公団へ移行した。当営団についてもGHQは当初、戦時体制下の非民主的組織であるとして廃止を検討し、地下鉄運営の主導権を戦前より狙っていた東京都がこれを強く支持した。しかし、当時の東京都に地下鉄運営の実績がなかったことと、「交通営団は戦争目的の統合ではなく、当時世界的なトレンドであった交通事業再編の議論の一環で設立された組織」であるとする国と当営団の主張がGHQに受け入れられたためにそのまま維持され、旧憲法下の「帝都」を名称に含む組織は新体制移行後60年近くという長期に亘って存続した[4]。 その間、東京都の直営による地下鉄事業開始(1960年)や国鉄分割民営化(1987年)など交通経営を取り巻く情勢の変化もあったが、当営団はあまりそれらの影響を受けなかった。 営団の廃止・株式会社化営団の民営化については、1995年(平成7年)の閣議で南北線もしくは半蔵門線が完成した頃を目途に、第一段階として特殊会社化する方針を閣議決定した。その後、2001年(平成13年)12月に当時の小泉内閣が約160あまりの特殊法人・認可法人を対象とした特殊法人改革基本法を閣議決定し[5]、その中で営団を半蔵門線延伸開業後の翌年である2004年(平成16年)春に特殊会社化することを決定した。 このような民営化は国鉄分割民営化と比較されることがあるが、日本国有鉄道の場合は、巨額の債務によって実質的に経営破綻を起こしていたのに対し、営団は日本国政府の行政改革の一環として、特殊法人改革を行っていたことに由来する。そのため経営には問題はなく、また東京の地下鉄建設というインフラストラクチャー整備の必要性が残っており、民営化には反対意見が多かったが、都市高速道路建設の必要性があった首都高速道路公団も民営化されるため、営団も例外とせず民営化の対象とした[6]。同法案作成時に新会社名を「東京地下鉄株式会社」と定めたことから、新会社名もこの段階で事実上決定した。 新会社では新株発行・代表取締役選定など、重要な事項に関しては行政機関との協議・認可が必要であるが、事業計画・決算は日本国政府(国土交通大臣)への報告のみとなる。またそれ以外の関連事業・社債募集などは、営団時代では国の認可が必要であったが、新会社ではこれが不要となる。その他、発足段階では日本国政府と東京都が新会社へ出資(出資率は国が53.4 %、都が46.6 %)しているが、将来的には全株式を上場させ、完全民営化させる計画になっている。 2004年(平成16年)4月1日、東京地下鉄株式会社法の施行により、当営団の一切の権利及び義務、設備、車両は東京地下鉄に継承された。 性格「営団」という組織形態は、官民による共同出資を大きな特徴としており、当営団もまた設立当初は、民間鉄道による出資が含まれていたが、こうした民間資本は1951年の法改正により排除され[7]、以降は日本国有鉄道(国鉄分割民営化後は、日本国有鉄道清算事業団を経て、大蔵省→財務省)と東京都の出資による純粋な公法人(外郭団体)に変容した[7]。従って、営団地下鉄は、名称として「営団」の名をなお残しながらも、その組織実態としては、国の外郭団体である公団や公社と似通ったものとなっていた。 地方公営企業(市営交通など)、株式会社である第三セクター鉄道とも異なり、日本国有鉄道と東京都の出資による公企業として、独特な位置づけであった。 日本民営鉄道協会(民鉄協)に加盟し、団内労働組合も日本私鉄労働組合総連合会 (PRU) に加盟するなど私企業のような行動をとる一方、テレビCMなど対外的な広告は規制されており、民営化直前の2003年6月までは一切行われなかった。日本国有鉄道と異なり、その地下鉄事業は地方鉄道法(のち鉄道事業法)に基づいていた。 なお、営団の地下鉄施設は部外者による撮影を容認していなかった時期があり、かつて『鉄道ダイヤ情報』で掲載された撮影ガイドは、その旨から営団の敷地外および相互直通先の路線からの撮影ポイントで構成されていたことがある[8]。また、「鉄道フォーラム」では、東京メトロ移行後の2012年まで施設内を撮影した画像の投稿が禁止されていた[9]。尤も、駅の掲示やウェブサイト等で対外的に撮影を「禁止」する告知がなされたことはなく、『鉄道ファン』など、読者投稿を受け付ける鉄道雑誌でも施設内で撮影した写真の掲載に規制がかけられたことも無い。これに加えて後期には、ラッピング車両の運行や有楽町線営団赤塚・営団成増両駅の改称を記念したイベントを開催したり、末期には南北線王子駅で南北線開通1周年イベントで撮影会を開催するなど、写真撮影を前提とした施策も行われるようになった。 「営団」前述のように、大半の営団が終戦直後に廃止となった結果、中後期は単に「営団」の意味は「帝都高速度交通営団」を表すことがほとんどとなり、「営団線」と言えば、その経営する地下鉄路線全体を指していた。そのため「営団」の語が固有名詞化し、当営団が経営する地下鉄路線を営団地下鉄と通称していたことも相まって、組織名が「営団地下鉄」であると誤解されることもあった。末期では、これを逆手にとる形で「営団地下鉄」と組織名に代わって表記する旅客向け資料もあった[10]。 駅のロゴ表記は単に「地下鉄 SUBWAY」であった。運賃・乗車券など特に「営団線」として区別しなければならない場合を除き、東京で単に「地下鉄○○線」という場合は、営団の路線である場合が多く、都営の駅を含む駅の案内などでは、路線名のみの表記(「銀座線」など)が多用された。対して後発の都営地下鉄は、都営線内でも「都営」を冠した路線呼称(「都営三田線」など)が多用された。この方式は、営団が廃止されて東京地下鉄に継承された現在でも引き継がれている。 一方、「地下鉄互助会」(現:メトロ文化財団)[11]など関連団体、職員で作る政党職場組織[12]には設立当初から当営団の意味で「地下鉄」を冠したものがある。 4S団章(シンボルマーク)はSを図案化したものとなっており、地下鉄を意味する英語SubwayのSのほかに以下の4つのSのつく英単語(4S)を意味し、営団の基本理念だった[13]。
営団発足から1960年(昭和35年)までは、丸にトンネルの断面とレールを配したものが団章として使われていた。Sマークは営団初の新規開業路線である丸ノ内線開業前年の1953年(昭和28年)12月1日に、宣伝・広告・電車車体に使用する記章として制定され[13]、1960年(昭和35年)3月1日より正式に団章となった[13]。 東京地下鉄への移行の際に、この「Sマーク」の団章を継続して欲しいという意見が多数あったが、結局メトロ(Metro)のMを抽象・図案化した「ハートM」のシンボルマークを採用した。ただし、この団章の日本での商標権は現在も東京地下鉄が保有しており[注 1]、イベントなどで使用されることもある。また、「帝都高速度交通営団」「営団地下鉄」も民営化直前に日本において商標登録を出願し、民営化後に登録されている[注 2]。 また、Sマークとは別に「TRTA」や営団をそのままローマ字表記した「EIDAN」を図案化したロゴも作られ、06系の登場初期に貼られていたが、こちらは06系の営業開始前に使用が取りやめられた。 歴史→「東京地下鉄 § 歴史」も参照
1941年(昭和16年)3月6日に公布(同年5月1日施行)された帝都高速度交通営団法に基づき[7]、東京府東京市(1943年、東京都制施行に伴い東京都になる)及びその付近の“地下都市高速度交通事業”を目的として、1941年(昭和16年)7月4日設立された[7]。資本金6,000万円は、大日本帝国政府の4,000万円、東京市の1,000万円のほか、東京横浜電鉄(東横)、東武鉄道(東武)が各200万円、京成電気軌道(京成)・小田急電鉄(旧)(小田急)が各100万円、西武鉄道(西武)、武蔵野鉄道、国鉄共済組合が各50万円を出資した。 同年9月1日、日中戦争中の戦時体制のため、陸上交通事業調整法(1938年8月施行)により、現在の銀座線を運営していた東京地下鉄道及び東京高速鉄道の地下鉄路線を引継いだほか[14]、両社の未成線、東京市の地下鉄道未成線、京浜地下鉄道の未成線免許を譲受した[14]。譲受代価は総額1億232万3,500円であり、主に交通債券で支払われた[14]。
戦時中の新路線建設計画営団設立後の1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争が始まったが、営団地下鉄は設立の使命である地下鉄新路線の建設計画を進めた[15]。 緊急施工路線として新宿 - 東京間を建設することとし[15]、四谷見附 - 赤坂見附間を1942年度(昭和17年度)着工、1945年度(昭和20年度)完成、新宿 - 四谷見附間および赤坂見附 - 東京間を1943年度(昭和18年度)着工、1946年度(昭和21年度)完成予定とした[15]。車両120両および新宿車庫計画を含めた建設費用は1億4,050万円を計画した[15]。 続いて池袋 - 東京間(車両162両を含めた建設費用は1億5,506万8,000円)、築地 - 五反田間(車両118両を含めた建設費用は1億1,544万6,000円)を1942年度(昭和17年度)より順次着工[15]、1947年(昭和22年)以降の完成を目途に建設することとした[15]。 そして1942年(昭和17年)6月5日に四谷見附 - 赤坂見附間の起工式を行い、弁慶濠付近の建設工事が行われた[15]。しかし、以降は戦局の悪化により資金、資材、労働力が不足したことから、1944年(昭和19年)6月に建設工事は中止した[15]。 第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月、営団の公的性格の明確化、運輸政策審議会の答申で財政投融資による東京の地下鉄建設促進を計る観点から、各民間鉄道の出資金を引き上げ、日本国有鉄道と東京都への移管が行われた。 その他の主な特記事項
歴代総裁
サインシステム営団は日本の鉄道事業者として初めて、サインシステム(案内標識のシステム化)を導入した事業者とされているが(1973年5月に千代田線大手町駅に導入)[19]、実際に設置された時期では1972年12月開業の横浜市営地下鉄1号線の方が早い(開業時から全駅で導入)[20][21][22]。それまでは案内サインの様式が全く統一されておらず、大量の文字情報が無秩序に羅列されているような状態だったが、それを外部の専門家に委託し下記のようにシステム化した[19]。 案内サインの表示書体にはゴシック4550が使用された[23]。
また、今まで目立つ場所にあった広告や広告とタイアップした案内サインを撤去し、そこにサインシステムに基づいた新たな案内サインを設置しようとしたため、広告収入の減少が見込まれたが、旅客案内を最優先とした[23]。その代わりに列車車両内に新たな広告媒体を設けることで、広告代理店などの了解を取り付けている[23]。 このようにシステマチックに構築された営団地下鉄のサインデザインは、1989年の「'89デザインイヤー記念日本デザイン賞」を受賞し、出口のカラーとして用いた黄色は、1995年に出口明示色としてJIS規格化された[19](ただし、サインシステム導入前の営団大手町駅・銀座駅[19]や1964年の東海道新幹線開業時の日本国鉄などのように、既にいくつかの鉄道事業者において出口に関する案内サインに黄色が用いられていたことに倣ったものであり、1973年の営団のサインシステムが出口を示すために黄色を用いた最初の例というわけではない[23])。 1991年に開業した南北線では、7号ビジョンの一環として、同線の単独駅を皮切りに、サインシステムの規定を一部改定し、これまでの線区では地下駅への出入口上部には丸で囲んだSマークが掲げられていたが、この年以降に開業した駅および大規模改修を実施した駅では、駅入口にある駅名看板と統合する形で廃止された(Sマークは駅入口の駅名看板に記載するように改定し、同時に駅名看板のベースカラーを濃い青地のものに変更[注 6])。また南北線と有楽町新線では駅名標のデザインも一部変更され、ゴシック4550は踏襲されたものの、ラインカラーの位置を最上部に持ってくるように修正し、そのラインカラーの中央に逆三角形の図柄を描いたものに変更された。 営団では、サインシステムを「一種の公共財」と考え、大手町駅でのサインシステム導入後に完成したマニュアルを全国各地の地下鉄事業者に無償で配布し、京都、名古屋、札幌、福岡などの各都市の地下鉄がそれを参考にサインシステムを構築したといわれる[19]。 しかしながら、個性が強く表れた営団地下鉄のサインシステムは、民間企業となった東京メトロには○印を除いて引き継がれず、紺地に白文字をベースとする新しいサインシステムが導入され、既存の案内を順次置き換えた(ただし、民営化直後以降でも現在に至るまで一部で営団時代のサインシステムが残っている場所もある)。 新サインシステムでは、路線シンボルを表示する際には紺地を白抜きにした上で、○印とアルファベットの路線記号を表示しているため、デザイン的に煩雑で、○印のサイズも小さくなり、視認性が低下しているとの意見もある[19]。 路線(2004年3月31日時点・初区間の開業順)
車両発足以降両開き扉、WN駆動方式、アルミ合金車体、電機子チョッパ制御、着席区分つき座席など時代毎の先端技術を積極的に採用しており、その後国鉄・JR・私鉄各社に影響を与えた車両も多い。しかし、車両への冷房装置や可変電圧可変周波数 (VVVF) 制御の搭載については消極的であった。これは営団地下鉄が車両技術面や廃熱処理の問題から、車両よりも駅構内とトンネルの冷房化を推進していたためである[注 7][24][25]。本格的に車両冷房が導入されたのは他社から大きく遅れた1988年からであり[注 8]、1996年までに全車の冷房化が完了している[26]。 既に営業運行を終了した車両および未成車両も含む。
事故
→詳細は「営団日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故」を参照
重大事件1963年(昭和38年)9月5日、一連の「草加次郎事件」中、最も重大な事件となった「地下鉄銀座線爆破事件」が発生した。銀座線京橋駅に到着直後の列車最前部座席下(車両最前部まで座席を持つ、半室運転台構造の戦前型車であった)に仕掛けられた手製の時限爆弾が爆発。乗客10名が重軽傷を負った。翌日女優の吉永小百合宛に、草加次郎名で100万円を要求する脅迫状が送付されるが、未遂に終わり、以後行方をくらました。犯人は検挙されないまま1978年(昭和53年)9月5日に時効が成立した。 1995年(平成7年)3月20日、「地下鉄サリン事件」が発生した。日比谷線・丸ノ内線・千代田線の計5つの列車に、宗教法人オウム真理教の信者により神経ガスのサリンが散布され、多数の乗客が死傷、営団の職員2名が殉職した。銀座線・東西線・半蔵門線も当日午前中は運休した。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目人物
営団関連 地下鉄を経営する他国の類似形態企業 その他
外部リンク
|