庄内地方
庄内地方(しょうないちほう)は、庄内平野を中心とした山形県の日本海沿岸地域である。鶴岡市と酒田市が二大都市として並立している。 概要旧出羽国(明治維新により羽前国と羽後国)の沿岸南部に位置し、日本海と朝日山地に挟まれた沿岸平野地域である。江戸時代には庄内藩の領地となっていたが、この時代に灌漑技術が向上したことにより、日本有数の稲作地帯となっている。 庄内平野を取り囲む朝日山地、出羽三山が自然障壁となっている為、最上川の舟運による交流はあったが、山形県内陸部(1876年以前の山形県)とは異なる地域圏を形成していた。山形県内陸部の水産物流通量のほとんどが宮城県仙台市など太平洋側からの流通によって占められ、庄内産が約1割に留まっている[2]など、現在でも地域圏の違いが色濃く残る面がある。なお、1871年8月29日の廃藩置県当時は、鶴岡県(当初の名称は大泉県→酒田県)という独立した県であった。 古くから日本海沿岸の各地のほか、畿内との海運による交流があり、後者は当地域に繁栄をもたらしたほか、出羽三山への拠点の一つとなっていたことから参詣者が広域から集まっていた。陸路が発達した明治時代以後も、隣接する秋田県沿岸部や新潟県北部の下越地方との交流が深い地域であったが、現在では山形県外では宮城県や東京都との交流も深い(参照)。 表記「庄内」は「荘内」とも記される[3]。「庄」と「荘」は異体字の関係にあり、「庄」は「莊(荘)」に対する「俗字」とされる[4][注釈 1]。郷土史研究家の堀司朗によれば、近世の文書でこの地方を指す表記としては「庄内」が圧倒的に多く、「荘内」の使用は少ない[3]。小寺信正による『荘内物語』のように、書物の表題(外題)としては「荘内」の字体を採用しても、本文では「庄内」を使用する場合もある[3]。 近代以降、汎称地名としては「庄内」(庄内地方、庄内平野など)が一般的であり[3]、官公庁でも「庄内」が用いられているが(山形県庄内総合支庁など)[3]、企業・団体名では「荘内」を用いるもの(荘内銀行、荘内神社など)も少なからず見られる[3]。 地理最上川の最下流域や赤川の流域に当たり、庄内平野を抱える。冬には雪が多く、雪解け水を利用した稲作地帯として知られ、庄内米はブランド米ともなっている。 また、年を通して風が強いため、風力発電装置が設置されており、風力電源開発において有望視しているケースもある。
歴史
古代・中世古代には出羽柵や国府(城輪柵)が置かれ、畿内政権による出羽国支配の中心地域となった。 平安時代後期から鎌倉時代にかけて、遊佐荘(現在の遊佐町周辺)[6]や大泉荘(現在の鶴岡市周辺)[7]といった荘園が置かれた[注釈 2]。また、酒田は鎌倉末期にはすでに東北地方有数の湊町として知られる存在となっていた[10]。戦国期には、有力商人ら「三十六人衆」が酒田の町政を担った[10][11]。 「庄内(荘内)」という地域名称が生じるのは戦国時代後期である[8][3]。庄内という名称は「大泉荘の内」に由来すると説明される[3][12][注釈 3]。大泉荘を拠点としていた大宝寺義氏が、この地域一帯の所領化を進めた結果、もとの大泉荘の範囲を超えて地域一帯が「庄内」と呼ばれるようになったと見られる[8]。元亀・天正年間(1570年 - 1592年)には最上氏や越後上杉氏がこの地域への進出を図った[13]。天正11年(1583年)に大宝寺義氏が内紛により自害すると、最上・上杉両氏の抗争が激化した[8]。天正16年(1588年)、十五里ヶ原の戦いにおいて、上杉景勝方の本庄繁長(越後揚北衆)・大宝寺義勝(義氏の養子)が最上方を破り、庄内地方は上杉氏の勢力下に入った[8]。天正18年(1590年)には太閤検地に反発する地侍が藤島城に拠って蜂起したが、上杉氏に鎮圧された(藤島一揆)[8]。慶長3年(1598年)、上杉景勝は越後から会津に移封されるが、庄内地方は引き続き上杉領であった[8]。 近世関ヶ原の戦いの戦後処理により、庄内地方は最上義光(山形藩)の所領となった[8]。元和8年(1622年)、山形藩最上家はお家騒動(最上騒動)の末に改易となり、庄内地方には酒井忠勝が入封した[14]。酒井忠勝は「徳川四天王」の一人である酒井忠次の孫で、徳川譜代の重鎮・酒井左衛門尉家が庄内に配置されたのは、奥羽の外様大名の監視が目的とされる[14]。酒井忠勝は鶴ヶ岡城を本拠地と定め、簡素であった城を拡張し、城下町鶴岡を整備した[14]。また庄内藩は、一国一城令の下でも酒田を城下町とする亀ヶ崎城の保有を認められた[14]。以後、庄内地方の大部分は庄内藩酒井家が幕末まで治める[14]。 庄内藩のほかに庄内地方に置かれた藩としては、寛永9年(1632年)に庄内藩に預けられた加藤忠広(元熊本藩主)の出羽丸岡藩[14]、庄内藩の支藩として正保4年(1647年)に成立した大山藩と出羽松山藩がある[14]。出羽丸岡藩は承応2年(1653年)、大山藩は寛文8年(1668年)にそれぞれ無嗣断絶となったが[14]、出羽松山藩は幕末まで存続した。 酒田は、戦国末期にはすでに日本海有数の湊町であったが[10]、寛文12年(1672年)に河村瑞賢が西廻り航路(出羽国の幕府領の年貢米を、西国・上方を経由して江戸に輸送する海上輸送路[11])を開設すると、西国の廻船が急速に北国へと進出し、物資の集散が増加した[11](北前船参照)。享保年間に台頭した豪商本間氏は、問屋・海運に従事するとともに地主としての土地集積を進め[11]、本間光丘は庄内藩領内随一の地主となるとともに藩財政の再建にも関与した[11]。寛政11年(1799年)に幕府が蝦夷地を直轄化すると、酒田は蝦夷地経営とも深い関係を持つようになった[11]。 近代慶応年間、庄内藩は藩内抗争を経て佐幕で藩論を統一した。慶応4年/明治元年(1868年)4月、庄内藩は幕府から与えられた寒河江・柴橋領の奪回を図り(清川口の戦い参照)、天童藩を攻撃するなど(天童の戦い参照)、薩長主導の明治政府(その出先機関である奥羽鎮撫総督府)に敵対する姿勢を明確にした[14]。5月6日、庄内藩と会津藩を擁護するために結成された軍事同盟が奥羽越列藩同盟である。庄内藩は秋田方面に進攻するが(秋田戦争参照)、新政府軍の攻勢により会津藩の若松城が落城、米沢藩が降伏するに至って、9月23日に謝罪状を提出、同26日に新政府軍参謀黒田清隆が鶴岡に入城して藩主酒井忠篤の降伏を認めた[14]。翌27日に鶴岡城が接収された[14]。また、主要な港湾都市である酒田は新政府の管理下となり、酒田民政局が置かれた[11][15]。 明治元年(1868年)12月、庄内藩酒井家の家名存続と酒井忠宝(忠篤の弟)による家督相続、12万石の領有が認められた[14]。会津藩に比して寛大な処理と評され、これは西郷隆盛が指示したためとされる[14]。ただし庄内藩には会津若松への転封命令(のちに磐城平に変更)が出されており、転封阻止運動が繰り広げられた結果、明治2年(1869年)7月に至り70万両の献金を条件として従来通りの庄内領有を認められた[14]。同年9月に庄内藩は「大泉藩」に改名している[14]。また、明治2年(1869年)には出羽松山藩が同名回避のため「松嶺藩」に改名している[16]。 明治2年(1869年)7月20日、酒田民政局は改組され、酒田県(第1次)となった[15][注釈 4]。明治2年(1869年)10月、酒田県では凶作や租税に対する不満などを背景として農民騒動「天狗騒動」が発生し、県の農民支配機構は機能不全に陥った[17]。明治3年(1870年)9月28日[15][18]、酒田県知事は免官となり[17]、酒田県と旧山形藩領・長瀞藩領などが統合されて、山形に県庁を置く山形県(地方史においては「旧山形県」とも記される)が編成された[15][18]。明治4年7月14日(グレゴリオ暦: 1871年8月29日)に廃藩置県が行われ、大泉藩(旧庄内藩)と松嶺藩(旧出羽松山藩)はそれぞれ大泉県・松嶺県となった。 明治4年(1871年)11月の府県統合により、庄内地方(羽前国田川郡および羽後国飽海郡)を管轄する県として酒田県(第2次)が設置され、酒田に県庁を置いた[15]。酒田県の首脳部は旧庄内藩士が占めた[19]。1873年(明治6年)末、酒田県(庄内地方)では、納税問題を契機としてほぼすべての村を巻き込んだ農民騒動「ワッパ騒動」が発生、改革派士族の金井質直や酒田商人森藤右衛門らの県政改革要求と結びつきながら、以後数年にわたって続いた[19][注釈 5]。自由民権運動の先駆的な運動とも評される[20]。1874年(明治7年)12月、明治政府は県首脳部を更迭するとともに県令に三島通庸を送り込み、三島は強硬策[注釈 6]によって事態収拾を図った。1875年(明治8年)8月31日、酒田県(第2次)は鶴岡県に改称し[15][22]、県庁も鶴岡に移された[22]。 1876年(明治9年)8月21日、鶴岡県・置賜県・山形県の3県が統合され、現代に至る山形県の枠組が定まり[22][注釈 7]、庄内地方は山形県の一部となった。 地域自治体酒田市を初めとする飽海郡を飽海地区(もしくは酒田飽海地区)、旧鶴岡市を初めとする西田川郡と東田川郡を田川地区(もしくは鶴岡田川地区)と呼ぶ事がある。 14市町村あった庄内地方だが、2005年(平成17年)7月1日に余目町と立川町が合併して「庄内町」が誕生。その後同年10月1日には鶴岡市ほか周辺5町が合併して鶴岡市が、11月1日には酒田市ほか周辺3町が合併して酒田市が誕生し、庄内地方は2市3町になった。 都市圏庄内地方内には、酒田都市圏、および、鶴岡都市圏が認められる。
都市圏の変遷庄内地方2市3町は、県の機関である庄内総合支庁に管轄されている。以下に都市雇用圏(10% 通勤圏)の変遷を示す。10% 通勤圏に入っていない町村は、各統計年の欄で灰色かつ「-」で示す。
行政の取り組み
交通国道7号と羽越本線が、幹線として南北を貫いている。内陸側や太平洋側とは、国道47号や陸羽西線によって新庄や石巻と、国道112号や山形自動車道によって山形と結ばれている。 交通史庄内地方は、日本海と朝日山地に挟まれている為、古くから内陸部よりも、日本海沿岸の港町や畿内との海運による繋がりが深かった。鉄道が発達して海運が衰えた明治時代以後も、羽越本線や国道7号で日本海沿岸の地域と結ばれており、特に隣接する新潟県下越地方と秋田県南西部との交流が深い。朝日山地を越えた内陸部へのルートとしては、東の山形へは峠道の国道112号で、新庄へは陸羽西線・国道47号、列びに最上川の舟運で結ばれていた。 1982年(昭和57年)には上越新幹線が大宮駅 - 新潟駅間で開業(1991年以後は東京駅まで乗り入れ)し、陸路では4時間以内に東京と結ばれるようになった。1991年(平成3年)には庄内空港が開設され、東京(羽田)との直行便が就航したほか、かつては千歳や大阪(伊丹・関西)などにも就航していた。 高速道路については、日本海沿岸の路線(日本海東北自動車道)ではなく、朝日山地を挟んだ山形市などを経由する山形自動車道の建設が先行した。東北地方の内陸部からの交通利便性が高まったことにより、同地方内の山形市や仙台市からの高速バスが開設されている。なお、日本海東北自動車道は、2023年(令和5年)現在の時点では遊佐比子ICからあつみ温泉ICまでの一部の区間のみ供用されている。 中距離移動
新潟 - 鶴岡/酒田 - 秋田との間には直通の高速バスがない。現在、新潟県下越地方から秋田県沿岸部の間で、日本海東北自動車道が建設中である。 酒田市からの距離および、上記交通機関による所要時間
長距離移動東京都との間の交通
生活圏間流動国土交通省の「第5回全国幹線旅客純流動調査」(2010年度)の生活圏間流動において、庄内地方を出発地・居住地とする者の目的地・旅行先は以下のようになっている。ただし、同調査では同じ都道府県内の生活圏へのデータがないため、それらを除く。
地域メディア
文化食食文化では、同じ日本海沿岸で隣同士である庄内地方と下越地方(新潟県北部)で、共通する物が見られる。庄内と下越で共通する食文化としては、米(稲作)、枝豆、菊花、茄子、鮭、岩牡蠣、口細が代表的である。 舞台となった作品テレビドラマ
映画藤沢周平原作作品舞台である海坂藩は、鶴岡市にあった庄内藩がモチーフとされる。 その他小説漫画脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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