原田雅彦
原田 雅彦(はらだ まさひこ、1968年5月9日 - )は、北海道上川郡上川町出身[1]の雪印乳業所属の元スキージャンプ選手、指導者、解説者。血液型A型。1998年長野オリンピックスキージャンプ団体金メダリスト。1993年及び1997年ノルディックスキー世界選手権スキージャンプ個人金メダリスト。 経歴小学校3年生時からスキージャンプを始め、上川中学校時代に全国中学選手権で2度優勝。東海大学付属第四高等学校(現東海大学付属札幌高等学校)でインターハイ優勝。卒業後、1987年に雪印乳業入社。 日本代表入りし、1990年代以降、日本を代表するスキージャンプ選手となる。1991年に世界選手権に初出場。日本人の中でも早くからV字ジャンプに取り組み、そこから頭角を現した。1992年アルベールビルオリンピック、1994年リレハンメルオリンピック、1998年長野オリンピック、2002年ソルトレークシティオリンピック、2006年トリノオリンピックの計5回の冬季オリンピックに出場。オリンピック、世界選手権を通して9個のメダルを獲得しているが、これは日本人最多である。スキージャンプ・ワールドカップは日本勢歴代4位の個人通算9勝。 2006年3月20日に引退を表明し、3月25日の伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会を最後に現役を引退した。 現役引退後も引き続き会社に残り、雪印メグミルクスキー部コーチに就任。以降スキージャンプ中継の解説者も務めている。 2014年4月、同スキー部の斉藤浩哉前監督の退任を受けて監督に就任[2]。 2021年4月、雪印メグミルクスキー部総監督に就任[5]。10月、2022年北京オリンピックの日本選手団の総監督に就任することが明らかになった[6]。 2023年4月には雪印メグミルクスキー部アドバイザーに就任する[7]。 競技内容・評価アルベールビルオリンピック初出場した1992年アルベールビルオリンピックにおいて個人ラージヒルで4位となり日本勢3大会ぶりの入賞を達成。周囲から「あと少しで銅メダルだったのに」とも言われたが、この回を含めて計5回五輪に出場した本人は後年「この時が一番楽しい五輪だった」と述べている[注釈 1]。 1993年、ファールン世界選手権個人ノーマルヒルにおいて優勝を達成して自身初めて世界一に輝く。 リレハンメルオリンピック以降大舞台での失敗1994年のリレハンメルオリンピックでは一転して優勝候補として注目されたことが、本人にとってプレッシャーとなる[1]。当大会のジャンプ団体戦で日本は2位ドイツを55点差で大きくリードし、第4グループのジャンプ2本目を残すのみとなった。原田の直前に飛んだドイツのエース、イェンス・バイスフロクが135.5mの大ジャンプをマークするが、それでも105m以上飛べば日本の優勝が決まるはずであった(ジャンプ台のK点は120m)。 しかしこれが大きな重圧になったのか[8]、ラストジャンパーとしてジャンプ台に立った時から普段の自分とは違う感覚に襲われて[1]97.5mの失敗ジャンプに終わり、日本はドイツに抜かれ銀メダルに終わった。 着地直後、頭を抱えてうずくまる原田のもとにチームメイトの葛西紀明、西方仁也、岡部孝信が駆けつけ、「銀メダルなんだから胸を張りましょうよ」と励まされた[注釈 2]。なお、原田はこの大会、個人ノーマルヒル2回目に54.5m、個人ラージヒル2回目も101.0mという失敗ジャンプでそれぞれ順位を落としている。 スランプからの脱出原田は金メダルを逃す要因となってしまったことでマスメディアからの批判のほか、「へらへら笑うな」「お前のせいで負けた」などと一部の一般人からもバッシングを受け、1年以上自宅などへの嫌がらせもあった。上記の失敗ジャンプによるバッシングや、また船木和喜のフォームを意識するあまりスランプに陥った。 しばらく結果が出せない時期が続き焦りが出たが、妻の「自分らしく飛べばいいんじゃない?」などの言葉が大きな支えとなった[1]。1995-96シーズンに本来のフォームに戻したことで調子を取り戻し、度々ワールドカップで優勝するようになる。 長野オリンピックの前年である1996-97シーズンは一時不振に陥るも、トロンハイム世界選手権の個人ラージヒルで優勝。五輪、世界選手権を通じてラージヒルの優勝は日本人初の快挙で、世界選手権の個人で通算2度の優勝は日本人で唯一である。なお、同大会では個人ノーマルヒル及び団体ラージヒルで2位となっており、出場した全種目でメダルを獲得している。 長野オリンピック世界選手権王者として1998年長野オリンピックに臨むこととなったが、国内ニュースでは「本番に弱い」と原田を不安視する論調も見られていた。本人にとっては「開催国で悲願の金メダル獲得」という相当な重責を背負っての出場となった[1]。 個人ノーマルヒルでは1本目に91.5mの最長不倒を記録し1位につけたが、2本目は不可解な中断と風の不運が重なり距離を落とし、5位入賞に終わった[9]。 ラージヒルでは1本目、強い向かい風に助けられるも120mと距離を伸ばし切れず6位と出遅れる。原田は当時「世界一低速(の助走速度)に強い選手」と言われていたが、早い順番で飛んだ選手さえK点を軽々超えるほどのオーバースピードによる飛び過ぎへの不安と、ノーマルヒルから引きずった固さが原因で踏み切りに失敗した結果だった。しかし2本目に最長不倒の大ジャンプを見せ、4位(アンドレアス・ビドヘルツル)を僅か0.1ポイント上回り逆転で3位銅メダルを獲得した。飛距離が自動計測可能な135mを超えたため、原田の記録が発表されたのは最終ジャンパー(ビドヘルツル)が飛んでから約10分後のことだった。 団体ジャンプ団体で、日本の3番手を担当した原田の1本目は運悪くほとんど前も見えないような大雪の中で行われた。助走路への積雪によりスキーが滑らず[10]助走速度も落ち、同グループの各国選手は軒並み飛距離を落としたが、その中でも原田は直前に飛んだドイツのハンスイェルク・イエックレより1.8 km/h、このグループで一番速かった選手より3km/h以上も遅い87.1 km/hの助走速度で飛び出し、79.5mにとどまる(速度計測地点からカンテの先まででさらに85km/h近くまで減速した可能性もあるとこの時ヘッドコーチだった小野学は自著の中で指摘している。1本目終了直後、小野学はこの速度差に関して競技委員会に抗議したが却下されてしまった)。飛型点での減点も、まだ斜度がきつい位置での着地でテレマークを入れられなかった分のみで、技術的には失敗ジャンプではなかったが[11]、国民の多くが4年前の悪夢を思い浮かべた。なお後日、岡部孝信は「第3グループのあの悪天候は…原田さんでなくて僕や斎藤、船木なら(もっと上で落ちてしまって、金には)届かなかった」と擁護するコメントを残している。岡部・船木は原田のように高く強く飛び出す(低速条件に強い)ジャンプではなく、低く鋭く飛び出すジャンプだからだという[12]。 2人目までトップだった日本の順位はこの時点で2位に下がり、さらに他国の4人目が大ジャンプ続出の中、船木和喜が1人だけ悪天候に泣かされ飛距離が伸びず、1本目終了時点で日本は4位まで後退した。しかし1位との差は13.6点で、当時の日本チームの総合力ならば逆転優勝の可能性を残す点差であった(実際に2本目の1人目、岡部孝信のジャンプで1位に浮上している)。 1本目終了時点で悪天候により打ち切りの可能性もあった。2本目が行われるかどうかは、テストジャンプの結果次第であった。西方仁也、高橋竜二、葛西賀子ら25名のテストジャンパー達は、悪天候の中で一人の転倒者も出すことなく試技を続け、競技再開が可能な事を証明した。この結果を見た競技委員は2本目の実施を決断する。 原田は2本目「両足を複雑骨折してもいい[13]」との覚悟で137mの最長不倒ジャンプを決め(決して飛型点の高い美しいジャンプではなかったが)、金メダルへの立役者となった(本人は後年「4人で表彰台に立った時のあの幸せな気持ちは、生涯忘れることはないでしょう」と述べている[1])。当時のテレビ実況を担当した和田源二は『別の世界へ飛んでいった原田!』と実況した。 ジャンプ後は、凄まじいプレッシャーから解放されて全身の力が抜けて立っていられなかった[1]。また、自失したように嗚咽しながらも、次のジャンパーである船木和喜への声援「ふなき〜、ふなきい…」を送った。また金メダル決定直後のインタビューで「(1994年リレハンメルオリンピック団体戦での事を聞かれ)でもね、今日は長野だから」「4人たすきをさ、渡しあったんだよ」「(1本目後の気持ちを聞かれ)辛かったよもぅ…。またね、みんな迷惑かけてんのかなと思ってた…辛かった…」「でもね…屋根ついてないからしょうがないよね」などと、嗚咽しながら答える姿もみせた(心理学的にこの時の原田の精神状況は「破壊」と呼ばれている)。なお「ふなき〜ふなきい…」に関しては、インタビュアーに「"ほら、金を取る瞬間だよ"、"(今からジャンプする)船木を見ようよ"」と言いたかったらしい[14]。 原田は結局この大会で、個人ノーマルヒル、個人ラージヒル、団体と合わせて3種目全てで最長不倒を記録している。ワールドカップではシーズン5勝を記録し、自己最高の総合4位となっている。 ソルトレイクシティオリンピック1998-99シーズンはW杯総合9位で2シーズン連続で世界トップ10入り。世界選手権ではノーマルヒルで3位となり、優勝した船木及び準優勝の宮平秀治とともに表彰台を日本勢で独占した。団体でも準優勝を達成している。 その後徐々に成績が低迷するようになり、33歳となっていた2002年ソルトレイクシティオリンピックで4大会連続のオリンピック日本代表入りを果たしたが、個人種目では入賞を逃した。 トリノオリンピック2003-2004シーズン以降はワールドカップ(WC)出場もなく、2005-06シーズンも低迷していたが、WCの下部大会にあたるコンチネンタルカップ(サンモリッツ大会・個人ノーマルヒル)で2位に入るなど[15]2006年トリノオリンピックの直前に調子を上げ、37歳で5大会連続の日本代表メンバーに選出された[16]。 ジャンプ競技開催地の強風を理由に出場枠を減らすというトリノオリンピック運営側の通告があったが、原田は最後の出場枠に入ることができた。出場した個人ノーマルヒル予選で95mの記録を残すが、ジャンプ終了後の抜き打ち検査によりスキー板が国際スキー連盟(FIS)の定めた規定に違反していた事が判明し、失格となった。 2005年に「身長に対し体重が軽すぎる選手のスキー板を短くする」というBMIルールが導入されており、規定によると原田の登録身長174cmで使用できる板の長さは「身長の146%(254cm)まで」で、かつこの場合は「スーツとブーツを着用した体重が61.0kg以上」なくてはならない(この体重に足りない場合、使用できる板の長さは最長でも251cmとなる)。実際にジャンプで使用したスキー板の長さは253cmだったが、検査による原田の体重は60.8kgと、僅か200g不足していた。 しかし、雪印スキー部や全日本スキー連盟に公式登録されている同年シーズンの原田の身長は173cmで、もしもその通りなら体重が60.0kg以上であれば丁度253cmまでのスキー板を使用する事が出来る規定となっていた。過去4度出場したオリンピックでの登録身長も全て173cmであり、また本大会の公式練習日には予選と同じスキー板を使用して検査に合格していた[16]。 この失格について原田は「自分の初歩的ミス。選んで頂いたのに申し訳ありません」という旨をコメントしたが[16]、本大会の予選でなぜ原田の身長が1cm高く登録されたのかは不明である。失格のような事態を起こさないための確認やフォローが日本チームとして不十分で、選手個人任せにしていたことが問題であるとの指摘もあったが、原田が言い訳や不平不満を一切言わない性格ということもあり、真相は未だに不明である。 ジャンプスタイル原田のジャンプスタイルは他の選手と比べ独特で、踏切りの際に上に高くジャンプし、飛行曲線が他の選手に比べ高い軌道から落下するスタイルであった。これは、原田の並外れた高い跳躍力があるからこそのスタイルで、助走速度が遅い条件でも飛距離が落ちにくいという長所がある一方[12]、踏切りのタイミングが合わない場合、大失敗ジャンプにつながりやすいという欠点があった。それが後のリレハンメルオリンピックなどでの失敗ジャンプの要因の1つになった。その後のスランプ時は船木和喜のような低いジャンプスタイルに挑戦するも泥沼にはまってしまう。 しかしサンダーベイ世界選手権で惨敗した後の1995年夏頃から原点に立ち返り高いジャンプを心がけるようになると、それまで船木型を目指して得た良い部分と合わさり、インパクトをつける高いジャンプでありながらタイミングが多少合わなくても飛距離を落とさない「原田型」というスタイルを会得(踏切のタイミングの許容範囲は一流選手でも80cm程度というが、この頃の原田は1m近くあったと言われていた)、1996-97年シーズンに軽い不調に陥るも同年のトロンハイム世界選手権までに復活を遂げると、その夏からは他の選手より2m近く短い助走でK点を大きく超えるジャンプを見せるほど圧倒的な強さを見せるようになった。しかし他の選手に比べて飛びすぎてしまうため、他の選手が軽々大ジャンプを見せるようなアプローチ速度の速い試合運営が続いた時に実力を抑えざるを得なくなって順位に結びつかないケースが増えたが、この技術が長野五輪の団体戦1本目の大雪の中で飛距離には現れなかったが最大限のジャンプが出来る要因となった。 後に原田は、当時活躍していた日本人選手の主流だった、出来るだけ踏み切りの動作を抑えたスタイルに移行する。その後、長い間スランプに陥った原田は2006年トリノオリンピックの直前に、助走姿勢でのひざの角度をこれまでより鋭角にするようにした。このスタイルは、従来の立ち幅跳びで中腰で飛ぶ場合に比べ、より多くひざを曲げることができパワーを得られるが、方向性、タイミングの取り方が難しくなる。つまり、このスタイルは方向性よりもインパクトを重視した姿勢である。 皮肉にもこの頃より世界のジャンプスタイルの主流はかつて原田が実践していた「低速でも距離を伸ばす高いジャンプ」に移行、世界の技術が当時の原田にやっと追いついたと言える。この頃にジャンプ界を席巻したシモン・アマンも典型的な原田型のジャンパーである。 また、飛距離が出すぎて着地でテレマークを入れられないことが多いため飛型点では不利というイメージを持たれがちだが、飛距離を抑えた試合運営で原田でもテレマークを入れられる飛距離で飛んだ場合の飛型点は決して低くなく、1998年9月12日のサマーグランプリ白馬大会では、「飛型審判5人全員20点満点」を記録している。 人物
主な競技記録冬季オリンピック
ノルディックスキー世界選手権
スキージャンプ・ワールドカップ
優勝大会
日本国内大会
受賞演じた俳優
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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