原田芳雄
原田 芳雄(はらだ よしお、1940年(昭和15年)2月29日※公称[注 1] - 2011年(平成23年)7月19日)は、日本の俳優、歌手。 東京府東京市下谷区金杉二丁目(現:東京都台東区下谷三丁目)生まれ[1]。ギルドB所属。紫綬褒章はじめ、俳優として各種表彰受賞。息子はギタリスト・原田喧太。娘は女優・原田麻由。孫は女優の御子柴彩里。 来歴俳優デビュー本所工業高校を経て1962年に俳優座養成所に14期生として入団。ただし養成所の授業料を払えなくなって1年留年したため[3]、15期生として卒業(後年「花の15期生」と呼ばれた[注 2])。この頃月謝滞納により大手ホテルで花屋のバイトもしていたこともあり、長嶋茂雄の結婚披露宴の飾りつけを行っている。劇団俳優座準座員を経て座員となる。 1967年に『天下の青年』(フジテレビ)でデビューし、翌1968年には『復讐の歌が聞える』で映画デビューを果たす。デビュー当時こそ純朴な青年風なキャラクターだったが、その後浅黒いワイルドなアウトロー風キャラへと大々的なイメージチェンジを図り、その風貌を印象づけていった。1971年、俳優座の体質を批判して市原悦子、菅貫太郎、中村敦夫らとともに退座。テレビドラマ『冬物語』で脳腫瘍に冒されたテストドライバーを演じて人気を博し、女性視聴者から助命嘆願が殺到した[4]。1974年には映画『竜馬暗殺』で主役の竜馬を演じ、ワイルドで大胆不敵な演技により「竜馬役の新境地を開いた」と評された[3]。 その後の活躍その後も圧倒的な存在感と的確な演技力を武器に、日本を代表する映画監督はもとより若手の監督からも絶大な信頼を受け、生涯で100本を超える映画に出演。原田の仕種や台詞廻しに影響を受けた俳優も多く、松田優作は一時期その一挙手一投足を研究し、模倣したとも言われる[5]。その一方で年齢とともに演技力は円熟味を増し、宮沢りえとダブル主演した『父と暮せば』の演技をめぐっては「動的な笠智衆」(的田也寸志)とも評された[6]。 キャリアと共に数多くの映画賞を受賞する一方、2003年には、功績が讃えられ紫綬褒章を受章[7]。他にも独特の渋い声を生かして映画などのナレーションを担当したり、ミュージシャン・ブルース歌手としても数多くの作品を発表し、精力的にライブ活動を行うなどの活躍をみせた。また趣味である鉄道の知識を生かして『タモリ倶楽部』などのバラエティ番組にも出演した(後述参照)。 晩年元々病院嫌いだったため定期検診を受けていなかった所、2008年10月に急に胃の調子が悪くなった。翌11月に診察を受けて早期の大腸癌が発見され入院し[8]、がんの摘出手術を受けて1か月間静養ののち同年末から仕事に復帰し、その後は抗がん剤治療を受けながら俳優活動を続けた[3]。しかし、がんが発見された時点で既に末期の状態にあり、余命宣告がなされていたことが没後明かされた。 2011年7月19日午前9時35分、腸閉塞と肺炎の併発のため東京都内の病院で死去[9][10]。71歳没。遺作は自らが企画し、映画化を進めた『大鹿村騒動記』(同年7月16日に封切)。死去8日前の7月11日に都内で行われた同作のプレミア試写会で、長女が押す車椅子で登壇したのが公の場で見せた最後の姿となった。このときの原田は既に別人のように痩せ細っており、病の影響から満足に声も出せない状態であったため、映画公開に向けた原田のメッセージを共に登壇した石橋蓮司が代読した[11]。また16日の初日舞台挨拶については劇場の構造上の理由で車椅子での移動が困難であることから欠席していた[12]。 葬儀・告別式は同年7月22日に東京都港区の青山葬儀所で営まれ、2,000人の弔問客がその死を悼んだ[3]。喪主は長男・喧太が務め、弔辞は石橋蓮司と石橋冠が読んだ[13]。告別式では原田が生前愛飲していた日本酒が蔵元の協力により参列者に振舞われ、出棺の際は佐藤浩市、江口洋介ら原田の「門下生」によって棺が担ぎ出された後、品川区の桐ヶ谷斎場で 日本政府は原田の映画界への貢献などを多とし、8月9日の閣議で旭日小綬章を授与することを決定した[2]。その際に没年齢が所属事務所の発表では71歳だったのに対して戸籍上は70歳になることも併せて判明した[2]。また、映画雑誌『キネマ旬報』が創刊95周年を記念して実施したアンケート企画「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」では男優部門で第6位に選ばれた[14]。 人物生い立ち父は、日本人形作りの職人だった。戦時中だったため原田が生後まもない頃に栃木県に疎開し、小学4年生までそこで過ごす[3]。この頃は浪曲や落語が好きで、東京に戻ってからは美空ひばりを真似て歌った。ほどなくしてジャズに目覚め、当時戦争による焼け跡のバラックに住んでいたため、将来はプロのジャズシンガーになって新しい家を建てるのが夢だった。しかし中学時代にラジオ局主催のジャズののど自慢大会に出場し、本選に進出したがティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)に鐘一つの評価で落とされたとのこと[3]。 その後父に厳命されて本所工業高校に進学したが、元々機械が苦手だったため成績はオール1だった。これがもとで対人恐怖症になり好きな登山で気を紛らわしていたが、ある日演劇部の同級生から入部を勧められ対人恐怖症を克服するつもりで演劇を始めた。高校卒業後は、「銀座で働きたい」との考えがあったことからその一心で農業機械の会社に就職するも、約一年半で退社[3]。 俳優座時代その後俳優座に入団したが 本人によると「入団試験の前日に胃痙攣を起こしたが、試験当日の課題でたまたま「失意落胆の演技」をするよう言われ、体調が万全でない中演じると、その様子がうまい具合に評価されて合格できた」と語っている[3]。 1968年に芝居の中で狂人の役を演じることになったが、役作りにのめり込むあまり苦悩した。その頃出会った俳優座制作部の1人の女性職員から「狂ったっていいじゃないの」とアドバイスをされたことで、とにかく思い切って演じることの大切さに気付かされた[注 3]。この出会いがきっかけで彼女と親しくなり、1970年に長男・喧太ができて結婚(今で言う“できちゃった婚”)した[3]。 遺作映画『大鹿村騒動記』NHKドラマ『おシャシャのシャン!』(2008年1月放送)のロケで長野県の寒村・大鹿村に訪れると、そこで観た大鹿歌舞伎に大変感激した。「あれこそ日本芸能の原点だ」と思った原田は、何としてもこの村歌舞伎を自分の手で映画化し主役を演じることを強く望むようになる[3]。 古希を迎えた2010年、阪本順治監督との次回作の映画について、原田は持参した大鹿歌舞伎に関する大量の資料を見せて打ち合わせに臨んだ。その結果『大鹿村騒動記』の製作が決まり、翌11月に約2週間の大鹿村ロケを敢行し作品を完成させた[3]。 2011年7月11日に開かれたプレミア試写会の会見では車椅子で登場し、「この少し前に腸閉塞と誤嚥性肺炎を発症。さらに腰部脊柱管狭窄症を悪化させ、喉にも炎症を起こす満身 映画の味方原田が亡くなった際、荒戸源次郎は彼を評して「一言で言うと、映画の味方だった数少ない人。映画にとりつかれ、いい映画を作りたい一心でした。普段はおだやかだけど、仕事場ではとても怖い人でしたから、かけらでも手を抜けなかった」と語った[16]。 中上健次『日輪の翼』を、原田芳雄監督で映画化する計画があった。中上自身による脚本の第一稿もでき上がっており、その後、手直しを経て映画化に取り掛かる計画だった。1992年の中上健次の死で頓挫を余儀なくされたものの、その後も原田芳雄は映画化を諦めず、2008年当時のインタビューでは「今は迂回しながら怠け心に鞭打っているところです。今、あと何年位ということは言えませんが、必ずやる」と語っていた[17]。 対人関係石橋蓮司は、1974年の映画『竜馬暗殺』で原田と初共演し[注 4]、同世代でとても馬が合ったことから飲み友達となった。それ以降、原田の遺作となった『大鹿村騒動記』まで何度も共演することとなった。後年石橋は、「芳雄は役者仲間の中でも抜群の感性を持っていた。だからどんな役でも自由に演じることができた。そこには計算などは微塵もなく天性の才能だった」と評している。ちなみに原田も生前、長女から「お父さんにとって一番すごい役者は誰?」と聞かれた時に「石橋蓮司」と答えておりお互いにその才能を評価していた。原田の死後、石橋は「芳雄は肉体を通して“思想”を表現していた。あんな役者はもう出ないだろう」と評している。[3]。 松田優作は、同じく『竜馬暗殺』で竜馬の元恋人の弟役を演じた。デビュー前から松田は、原田の大ファンで、9歳年上の彼を「兄貴」と呼び慕っていた。原田もまた松田の演技に心を捕まれ、「優作とは前世からの縁だ」と言ってかわいがっていたという。生前松田は、原田家の裏の家を借りて住んでいた時期があるとのこと[3]。 阪本順治監督は、原田の才能に惚れ込み、『どついたるねん』から遺作の『大鹿村騒動記』までの計7作品で起用した。後年阪本は、「最初の作品では芳雄さんの演技を信じて彼にお任せしたら、『オレには演技指導しないのか』と毒づかれました。しかし、その後公私に渡って多くのことを教えてもらいました」と語っている。2010年に映画の次回作について原田と打ち合わせをした阪本は当初ハードボイルド物を構想していたが、原田の「大鹿歌舞伎を題材にした映画を作りたい」という並々ならぬ熱意に押されて『大鹿村騒動記』を制作することとなった[3]。原田の死後、阪本は「芳雄さんと撮影すると絶対に雨が降らなかった。今でも芳雄さんの遺影を自宅に飾り、もう一枚の写真を普段は手帳に挟み、撮影時にはその写真を脚本に挟んでいます。『芳雄さんに認めてほしい』という気持ちで映画を撮っているのです」と語った[3]。 私生活鉄道ワイルドでアウトロー的な風貌に似合わず、実は乗る・見る・作ること全てにおける大の鉄道ファンとしても知られる。子供の頃から都電育ちなこともあり、“電車好き芸能人の先駆け”とも言われている[3]。同じく鉄道ファンであるタモリが司会を務める『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演するたびに鉄道ネタで盛り上がるほど思い入れは深かった(総出演回数は15回)。 鉄道を介したタモリとの親交は、2003年に初出演した『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)内の鉄道企画を通してより深まる。これが「タモリ電車クラブ」という企画が始まり不定期でバラエティ番組唯一のレギュラーゲストとして出演。番組内でもお互いを「タモさん」「ヨシオちゃん」と呼び合うほどの間柄となった。同番組での実績が評価され、タモリ電車クラブゴールド会員(会員No.002。会員No.001はタモリ)に認定され、生前はこの会員証を常に携帯していたとのこと[3]。なお、番組内での企画として行われた入部審査では、写真のみ登場している。2011年に他界後は「タモリ鉄道クラブ 名誉会員」の称号を手にした。 鉄道模型趣味については、かつて高価だったHOゲージ(16番ゲージ)の車両(国鉄80系電車)を自分の身の回りにあるものを駆使して作り上げたことから始まる。自宅ではNゲージのレイアウトを製作、『タモリ倶楽部』では所有するコレクションの車両(機関車)を紹介し、息子の喧太とともに雑誌(RM MODELS)の企画でホビーセンターカトーを訪れ、展示車両やレイアウトを見ながら親子で熱く語った。ちなみに喧太は、芳雄から蒸気機関車のレコードを聴かされるなど、幼いうちから「英才教育」を施されたという。 飛行機嫌いなことも相まって、仕事で遠出する時は北海道から九州に至るまで基本的に電車で移動していた[3]。また晩年は「寝台特急のチケット」を出演の条件にするようになり、『ウルトラミラクルラブストーリー』(横浜聡子監督、2009年)はカシオペア[18]、『奇跡』(是枝裕和監督、2011年)は北斗星の乗車を条件に出演した。 餅つき会原田の生前には毎年12月28日に自宅で餅つき会を行うことが年末の恒例行事になっていた。この餅つき会は桃井かおり・江藤潤・勝村政信を代表とし、松尾貴史・柄本明などが参加している。彼らは息子・原田喧太が幼い頃からの常連である。 原田の長女・麻由によるとこの餅つき大会は、兄・喧太が小さい頃に一度も餅をついたことがないことを原田が知り、「子どもたちに餅つきを体験させよう」との軽い思いつきがきっかけで始まったとのこと。1973年12月28日に第1回目となる餅つきをやると近所の人や親戚が参加し、翌年もやることになった。その後徐々に家族の友人、原田の役者仲間、映画関係者なども参加するようになった。朝から夕方まで入れ替わり立ち替わり原田家に人が訪れては餅をつき、そのあとは宴会が延々と続き、多い時には200人も集まる大イベントとなったとのこと[3]。 晩年は金山一彦、芳本美代子、柄本佑・柄本時生や、高岡蒼甫・宇梶剛士・須賀健太・神木隆之介・ベッキー・江口洋介・妻夫木聡など原田を慕っていた多くの俳優・女優・子役・タレント・歌手などが参加するようになっていた。開始から48年目だった2020年はコロナ禍により初めて中止となった。 その他酒好きだったが外に飲みに出ることは少なく、家に人が集まるのが好きだったため、夕食時に家族や自宅に来た知人と飲むことが多かった。酒ではI.W.ハーパーやビールなどを好んで飲んでいたが、原田がバーボンを飲むようになったのは、元々愛飲していた松田優作の影響によるもの[3]。 撮影のない日は午後に2時間ほど、庭に吊るしたサンドバッグ相手に黙々とボクシングの練習に汗を流していた。これは「年を重ねてもどんな役が来るか分からないため、日頃の鍛錬が欠かせない」との考えによるもの。また、歌手としてライブの予定が決まると毎日家で歌の練習をしていたという[3]。 俳優座時代からヘアセットとメイクは自分自身で行っていた[3]。 高校時代からカメラが趣味になり、俳優になってからは出演作の撮影前にロケ地に下見に行き、現地を写真撮影して回っては自身の役のイメージを高めていたという[3]。 トレードマークはサングラスで、お洒落目的だけではなく役のキャラクターによってその都度使い分けていた[3]。 黒澤明監督の映画『影武者』は、主演予定だった勝新太郎の降板後に原田にオファーされたが、自ら黒澤のもとに出向いて丁重に断わりを入れたとのこと[3]。 家族から「お父さん」「パパ」ではなく「芳雄」と呼ばれていた。 出演作品映画
テレビドラマ
舞台
ゲーム
バラエティ
ラジオドラマ
ナレーション
PV
CM
受賞歴
ディスコグラフィーシングル
アルバム
エッセイ・写真集・回想
脚注注釈
出典
外部リンク
|