ドミトリー・ヤング
ドミトリー・デル・ヤング(Dmitri Dell Young , 1973年10月11日 - )は元メジャーリーガー。ポジションは一塁手または指名打者であった。右投両打。ニックネームは"Da Meat Hook"。 デトロイト・タイガースに所属するデルモン・ヤングは彼の弟である。ドミトリーは1996年8月29日にメジャーデビュー。10年後の同日に弟のデルモンもメジャーデビューしている。 父のラリー・ヤングは、アフリカ系アメリカ人最初のF-14戦闘機操縦士の一人で、現在はデルタ航空でパイロットをしている。 尚、ドミトリー(1991年・セントルイス・カーディナルス1巡目・全体4位)とデルモン(2003年タンパベイ・デビルレイズ1巡目・全米1位)のヤング兄弟はB.J(2002年ドラフト・タンパベイ・デビルレイズ1巡目・全体2位)とジャスティン(2005年ドラフト・アリゾナ・ダイヤモンドバックス1巡目・全体1位)のアップトン兄弟に抜かれるまで2人の全米指名順位の合計が最も少ない兄弟だった。 経歴1991年、セントルイス・カージナルスからドラフト1巡目(全体4番目)で指名され契約。1996年8月29日にメジャーデビュー。1997年には110試合に出場し、打率.258を記録。シーズン終了後にシンシナティ・レッズに移籍。レッズでは外野手・一塁手としてプレーし、4年連続で打率3割以上を記録した。1998年はリーグ2位の48二塁打を記録した。 2001年シーズン終了後にフアン・エンカーナシオンら2人とのトレードでデトロイト・タイガースに移籍。2002年は4月に故障者リスト入りとなったが、5月14日に復帰を果たし、5月17日から6月5日にかけて自己最長タイとなる18試合連続安打を記録したが、6月は打率が.195と2割を下回った[1]。7月5日の試合を最後にシーズンを終え、54試合の出場に終わり、打率は.284と5年ぶりに3割を下回った。 2003年は4月までの打率が.173だったが、5月の打率は.355で、5月6日のオリオールズ戦では2三塁打・2本塁打を含む計5安打を記録。メジャー史上1試合で「2三塁打・2本塁打」を達成したのは他にウィリー・メイズ(1958年)、ルー・フォンセカ(1929年)、ルー・ゲーリッグ(1928年)の3人しかいない[2]。オールスターにも初選出された(出場はせず)。自己最高の29本塁打を記録し、打率.297、85打点を記録し、チーム3冠となった[3]。 2005年シーズン開幕戦のカンザスシティ・ロイヤルズ戦では3本塁打を記録(開幕戦3本塁打はジョージ・ベル、タフィー・ローズに次ぐ史上3人目)[4]。本塁打が出にくい球場として知られるコメリカ・パークでの達成だった。同年11月27日にはデトロイトで開催されたプロレス団体WWEのサバイバー・シリーズに、エッジ、リタと共にトークショーに出演した。しかし2006年はアルコール依存症の影響[5]でわずか48試合の出場に終わり、デトロイト・タイガースから解雇された。 2007年3月、一塁手ニック・ジョンソンを故障で欠いたワシントン・ナショナルズから春季キャンプに招待され結果を残し、開幕メジャー入りを果たした。オールスター前までにリーグ3位の打率.340を記録する活躍を見せ、4年ぶり2回目のオールスターに選出。9回裏2アウトの場面で代打で出場し、オールスター初打席でヒットを打った。7月28日に球団と2年総額1,000万ドルで契約延長[6]。シーズン通算で打率.320、13本塁打、74打点と活躍し、カムバック賞を受賞した。 これ以降は糖尿病に苦しみ、2009年シーズンはメジャーに昇格することなく同年末にナショナルズを退団した。 2010年からは独立リーグフロンティア・リーグのオークランドカウンティ・クルーザーズのコーチを務めるもチームがこの年をもって活動を停止した。 この頃から減量と健康の為にヴィーガンとなった。 2011年にクーパーズタウンで開催されたオールドタイマーズ・ゲームでMVPとなった。 詳細情報年度別打撃成績 (MLB)
獲得タイトル・記録・表彰
背番号
脚注
関連項目外部リンク |