近田 春夫(ちかだ はるお、1951年〈昭和26年〉2月25日 - )は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー、音楽評論家、タレントである。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部ポピュラーカルチャー学科音楽コース教授[3]。別名は、近尾 春親(ちかお はるちか)、近田 ハルオ、塚田 みのる(つかだ みのる)[4][5]、デューク 柏淵(デューク かしわぶち)、President BPM(プレジデント ビーピーエム)、作詞センター(さくしセンター)、作曲研究所(さっきょくけんきゅうじょ)、東京アレンジサービス (とうきょうアレンジサービス)、SCSI-TR(スカジーティーアール)、NO CHILL OUT(ノーチルアウト)、Rice(ライス)等多数。またCMソング作曲ユニット小諸鉄矢とCM NETWORKのメンバーの一人[1]。 東京都出身、慶應義塾大学文学部中退。スタイリストの近田まりこ(1952年 - )は元妻。
経歴
名義歴
- 作詞センター / 作曲研究所 / 東京アレンジサービス / 小諸鉄矢とCM NETWORK(長戸大幸、吉江一男らとの作曲ユニット)
人物・来歴
慶應義塾大学在学中から、内田裕也のバックバンドでキーボード奏者として活躍。また、創刊されたばかりの「anan」編集部にアルバイトとして出入りしていた[15]。また、内田に付き従うなかで、渡辺プロダクションのマネージャーだった大里洋吉と親しくなり[16]、大里に「ザ・ワイルドワンズ、ロック・パイロット、アラン・メリル、この3組のキーボードを全部やってくれたら、1組分のギャラを払うよ」と誘われ、理不尽な契約ながらも、日劇ウエスタンカーニバルステージに出られるとなると嬉しく、二つ返事で快諾したという[17][18]。なお、この縁から、後に近田が設立した近田春夫事務所のデスクは、渡辺プロから独立して大里が設立したアミューズ内にあった[19]。
1972年に「近田春夫&ハルヲフォン」を結成。1974年には、脚本家の荒井晴彦からの依頼で日活ロマンポルノ『濡れた賽ノ目』(監督若松孝二、製作若松プロダクション)の音楽を「塚田みのる」名義で手がけ、同年には同じく荒井の依頼で日本専売公社のPR映画(監督渡辺護、主演竹井みどり・寺田農)の劇伴を手がけた[4][5]。
1970年代後期から1980年代初期にかけては、ラジオパーソナリティやテレビ番組のコメンテーター、テレビドラマ『ムー一族』、『家路〜ママ・ドント・クライ』出演、アニメ映画『フリテンくん』の主役声優担当など、メディアを跨いだ幅広い仕事をこなす。
また、「日本の歌謡曲が持つ音楽性」にもっとも早く気がつき、1978年から1984年にかけて、雑誌「POPEYE」に伝説的なコラム「THE 歌謡曲」を連載。また、「近田春夫&ハルヲフォン」のアルバム『電撃的東京』(1978年)でも、歌謡曲のカバーを行った。1979年にソロ・アルバム『天然の美』を発表。アレンジ・演奏に結成直後のイエロー・マジック・オーケストラを起用する。『エレクトリック・ラブ・ストーリー』、『ああ、レディハリケーン』等で漫画家の楳図かずおを作詞家として起用した。
結成したバックバンド「BEEF」は茂木由多加とNOGERAを除いたメンバーが、1980年にテクノ歌謡バンドジューシィ・フルーツとしてデビュー、自らプロデューサーを務めた。近田が作曲を担当したジューシィ・フルーツの曲『恋のベンチ・シート』をもじったタイトルの『恋のぼんちシート』を当時人気絶頂だった漫才コンビ「ザ・ぼんち」に提供。近田にとってはジューシィの『ジェニーはご機嫌ななめ』に続く大ヒット曲となったが、ラジオ番組「ビートたけしのオールナイト・ニッポン」でこの曲がダーツ『ダディクール』の盗作ではないかとする投稿があり、聞き比べによる検証が行われた。翌週のラジオ番組で、近田はあっさり「パクった」と認め、その言い訳をしない姿勢と元来猥雑であった近田のキャラクターから大きな問題にはならなかった。
1981年には人種熱のメンバーをそのままバックバンドとして取り込む形で、「近田春夫&ビブラトーンズ」を結成、アルバム1枚とミニアルバム1枚を発表する。同年、植田まさし原作4コマ漫画のアニメ映画「フリテンくん」で主役のフリテンくんに抜擢で出演。
1984年には、近田の原案・製作総指揮で、手塚眞監督によるミュージカル映画『星くず兄弟の伝説』を製作。音楽も自ら担当した。
また、1986年ごろの高木完、藤原ヒロシの紹介により[20]1986年からはファンクやラップに注目、President BPM名義で活動。自身のレーベルBPMを率いて、タイニー・パンクスらと日本語ラップのパイオニアとも言える活動を行う。1987年には「バンド形式によるヒップホップ」というコンセプトでビブラストーンを結成。
2001年より自身のプロジェクト RICE等、サイケデリック・トランスの分野での活動を開始する。2006年には近田春夫&ハルヲフォン・リローデッドとしてイベントに出演。
CMソング仕事も大量に行っていたが、自伝によるとトランスやレイブの仕事を優先させるために、2007年ごろに終了させたとのこと[21]。また週刊文春での連載『考えるヒット』において歌謡曲の楽曲的分析を行うなど、活動は盛んである。
エピソード等
出演
ラジオ
バラエティー
テレビドラマ
- ムー一族(1978年5月 - 1979年2月 TBS) - 夢先案内人・ヘホ 役
ディスコグラフィ
シングル
1970年代
- FUNKYダッコNo.1 (1975年、ハルヲフォン名義)
- シンデレラ (1976年、近田春夫&ハルヲフォン名義)
- 恋のT.P.O. (1976年、近田春夫&ハルヲフォン名義)
- ロキシーの夜 (1977年、A面近田春夫名義、B面近田春夫&ハルヲフォン名義)
- きりきりまい (1978年、近田春夫&ハルヲフォン名義)
- 恋のグンギン・ナイト (1979年発売予告 - 実現しなかったシングル)
- エレクトリック・ラブ・ストーリー (1979年、ソロ)
- ああ、レディハリケーン (1979年、ソロ / 近田春夫&BEEF) - 資生堂「レディバスボン」CMソング
1980年代
- 星くず兄弟の伝説 (1980年、ソロ)
- Goin'にMy Way (1981年、青木美冴 / 人種熱+近田春夫名義)
- 金曜日の天使 (1981年、近田春夫&ビブラトーンズ名義)
- スマートなゲートボール (1983年、ゲートボール名義)
- 星くず兄弟の伝説 (1985年、スターダスト・ブラザーズ名義)
- MASS COMMUNICATION BREAKDOWN (1986年、President BPM名義)
- NASU-KYURI (1986年、President BPM名義)
- Hoo! Ei! Ho! (1987年、BPM PRESIDENTS featuring TINNIE PUNX名義)
- COME★BACK (1987年、F.O.E. featuring HARUOMI HOSONO with President BPM and SEIKOH ITOH名義)
- だからDESIRE (1987年、宮崎美子 / BPM名義)
1990年代
- ジェットコースター (1991年、ビブラストーン名義)
- MIKKY-D / 金っきゃねぇ (1991年、ビブラストーン名義)
- フーディスト村 (1992年、ビブラストーン名義)
- やだ (1992年、ビブラストーン名義)
- TVドラマはすべて現実? (1993年、ビブラストーン名義)
- ナイトメア (1994年、ビブラストーン名義)
- 444 (1997年、Afromix名義)
- WORM (1997年、Afromix名義)
- SCUTTLE SHAKE (1997年、SCSI-TR名義)
- HOT ROD 2001 (1997年、SCSI-TR名義)
- Black Light (1997年、NO CHILL OUT名義)
- FUNKY-ZERO (1997年、NO CHILL OUT名義)
アルバム
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
おもな楽曲提供
おもなCM音楽
近田は「作曲研究所」などの名義でCM楽曲(サウンドロゴ、コマーシャルソング、BGM)を1,000曲以上作曲しており、日本のCM界では歴代3位の数にあたる(1位は小林亜星で6,000曲以上、2位はキダ・タローで3,000曲以上)とされる[26]が、本人は「俗説」と否定した上で、「確かにそのぐらい書いてたかなという実感はある[26]」ともしている。
下記は特記なき限りいずれもテレビCM[27]。
- ロッテ「三角チップ」(1978年)[28]
- 白元(現白元アース)「ソックタッチ」(1978年)[28]
- 明治製菓(現明治)「明治マイレコード」DJ編(1980年)
- 服部セイコー「セイコーレディスファッション」(1980年)
- 白子のり となり編(1981年) - 第21回ACC CMフェスティバル 秀作賞
- TOTO「ウォシュレット」(1982年)[29]
- オリンパス「ピカソAF-1」ぬれてもピカソ編(1986年) - 第26回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- 日清食品「シーフードヌードル」無念のスルメ編(1987年) - 第27回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- セブン-イレブン・ジャパン 企業CM よいことのある帰り道編(1988年) - 第28回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC賞
- 公共広告機構 キャンペーン ペット公害編(1988年) - 第28回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC賞
- 森永製菓「チョコボール」(1987年 - )[29] - 「クエックエックエッ チョコボール」のフレーズで知られるCMソング
- 入場行進編(1990年) - 第30回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC賞
- My First Sony「アニメーションコンピューター」(1989年)
- ダイハツ「ミラ・パルコ」いつも仕事はつらいけど編(1989年)
- 「ミラ・パルコ90」サイパンじゃ美人編(1990年)
- 「ミラ・3ドアセダン」ミラ・ニッポン編(1990年)
- 山之内製薬「ギネスゴールド」座り寝編(1990年) - 第30回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- ライオン「ナテラ」ヤシからナテラ編(1991年)
- 出光興産「MOTION Mカード」とんねるず人形編(1991年) - 第31回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- NEC「新98MATE」(1994年) - 第34回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- NTT「キャッチホン」初恋編(1994年) - 第34回ACC CMフェスティバル テレビCM部門優秀賞
- 日清食品「日清Spa王」(1995年 - )[29]
- 「日清Spa王・たらこ」あおい輝彦編(1995年) - 第35回ACC CMフェスティバル テレビCM部門秀作賞
- NTT「タウンページ」めくりかた編(1995年) - 第35回ACC CMフェスティバル テレビCM部門秀作賞
- 日本コカ・コーラ「爽健美茶」(1995年 - )[29]
- '98自然の精開花編(1998年) - 第38回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC賞
- ローソン 年賀状大作戦編(1996年) - 第36回ACC CMフェスティバル テレビCM部門秀作賞
- NTTドコモ「携帯電話」携帯があれば編/荷物編/タクシー編(1996年) - 第36回ACC CMフェスティバル テレビCM部門秀作賞
- サントリー「なっちゃん」(1998年 - 2001年) - コンピレーションCD『ベストCM100』(EMI TOCT-26122~3)に収録[30]
- NTTドコモ「ポケットボードPLUS」宴会編(1999年) - 第39回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC賞
- サッポロビール「サッポロ生ビール黒ラベル」(1999年 - 2003年)[31]
- カラオケ編/合戦編/金魚編(2000年) - 第41回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC銀賞
- コンビニ帰りの男編/自転車置き場の男編/特急列車の男編(2002年) - 第42回ACC CMフェスティバル テレビCM部門ACC銅賞
- サントリー「DAKARA」(2000年) - コンピレーションCD『ベストCM100』に収録[30]
- ライオン「エメロンアクアピュア」(2000年)
- モンデリーズ・ジャパン「リカルデント」(2000年) - コンピレーションCD『ベストCM100』に収録[30]
- タイアップ楽曲
おもな提供先アーティスト
おもな楽曲
プロデュースしたアーティスト
フィルモグラフィ
特筆以外のクレジットはすべて「音楽」である[4][5]。
著書
脚注
参考文献
外部リンク