長門勇
長門 勇(ながと いさむ、1932年(昭和7年)1月1日 - 2013年(平成25年)6月4日)は、日本の俳優、声優。本名:平賀 湧(ひらが いさむ)。三木プロダクション所属。岡山県倉敷市出身。 来歴・人物岡山県立倉敷商業高等学校を中退後、自動車修理工場などを転々とし、芝居をやりたくて終戦から間もない1948年、旅回り一座の高尾光子劇団に入団する[1]。 翌年上京。浅草の浅草小劇場(浅草ショー劇場、後の浅草美人座)を振り出しに、ロック座やフランス座などでコメディアンとして活動し、黎明期のテレビ界に進出。浅草フランス座3代目座長を務める[2]。1958年にフランス座を退座した後は[3]、伊藤事務所を経て[1]、1962年には西岡プロの発足を受けそれに参加[3]。 のほほんとした親しみやすいキャラクターが印象的で、軽演劇の舞台で腕を磨いた器用さで時代劇から現代劇までカバーした。特に、ひょうきんで人懐こい、うだつの上がらない人物を装い、いざという時に凄腕を発揮する、といった役どころを得意としていた。 『三匹の侍』(フジテレビ系)での桜京十郎役が当たって以降、時代劇では槍の使い手を数多く演じた。『スチャラカ社員』(TBS系)では、流行語にもなった「おえりゃあせんのう」[4]などの岡山弁のフレーズを用いたキャラクターで人気を得たほか、『横溝正史シリーズ』(TBS系)では、古谷一行演じる金田一耕助とコンビを組む日和警部[5]役でコメディーリリーフぶりを発揮した。 2011年に軽い脳梗塞を患った後も、芸能活動を続けていた。しかし、2013年5月頃体調を崩し、神奈川県内の病院に入院し加療を続けていたが[6]、6月4日、老衰のため死去した[7]。81歳没。かつては妻と一緒に生活していたが、最期は親戚に看取られながら息を引き取ったと報じられた[8]。2012年3月16日にゲスト出演したTBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』が公への最後の出演となった。 五社英雄に見いだされる長門は浅草のロック座でストリップの合間にコントを演じるコメディアンをしながら、役者として下積み生活を送っていた[9]。だが、10年が経ち、30歳になろうとしているのに全く浅草から抜け出せない状況に、心が折れかかっていた[9]。共に下積み暮らしをしていた喜劇人たちは、渥美清のようにスターになっていくか、あるいは挫折して廃業していくかで、気がつけば自分だけが取り残されていた[9]。だからといって、少年時代に家出同然で岡山の実家を飛び出した身には、帰る場所は無かった[9]。テレビ局に自分を売り込もうとするも門前払い。このままでは先がないと考え、結婚を機会に一度は浅草を離れようと考えたが、他に仕事は無かった。妻の目をごまかすため、仕事に行くふりをしてパチンコ屋に行くこともあった[9]。あまりの惨めさに、隅田公園にたたずんで途方に暮れる毎日だった[10]。 1963年、長門は芸術座公演『見せられい手帖』に客演することになった。ほとんど客の入らない惨憺たる動員に終わったが、その客席にフジテレビディレクターの五社英雄がいた[10]。当時、五社は足しげく劇場に通い、新たな才能を探していた[10]。五社は長門の芝居に魅入られる。だが当初は芝居の中身に惹かれたわけではなかった[10]。 不入りが過ぎると気抜けする役者は少なくない。ところが、長門は全く手を抜かずに熱演を続けた[10]。その熱意に惹かれたのだった。五社は劇場に通いつめ、結局同じ芝居を3度観ることになる。そして、気づく。長門が日に日にうまくなっていることに。「こりぁ、たいした役者だ」と感心した五社は、自分が手掛ける『三匹の侍』の三匹目の大役に長門を起用する決心を固めた[11]。 親族妻は元舞台女優の麻耶あけみ[1]。俳優の須藤健は妻の伯父[1][3]。妻との出会いはロック座の仲間であったことだが、麻耶が花嫁修業のために退団したことで交友は途絶えたものの、フランス座に移籍して1年ほどたった頃に、麻耶が芝居の世界に戻り、フランス座に入ったことで交際にいたり、1957年に結婚した[1][3]。 主な出演テレビドラマ
映画
舞台
テレビアニメ
バラエティー番組
ラジオ
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脚注
参考文献
外部リンク
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