蜃気楼![]() 蜃気楼(しんきろう、中:海市蜃樓、仏・英:mirage、伊:Fata Morgana[1][2]、独:Luftspiegelung)は、温度の異なる大気中において高密度の冷気層と低密度の暖気層の境界で光が屈折し、遠方の景色や物体が伸びたり逆さまに見えたりする現象[3]。光は通常直進するが、密度の異なる空気があるとより密度の高い冷たい空気の方へ進む性質がある。伝説の蜃(ミズチなど竜)が気を吐いて楼閣を現すと考えられたことから蜃気楼と呼ばれるようになった[4]。春の季語。貝櫓(かいやぐら)、蜃楼、貝楼、空中楼閣、乾闥婆(けんだつば)城、海市(かいし)[5]、蓬莱山、山市、蜃市、喜見城、善見城、なでの渡り、狐の森、狐楯とも呼ばれ、霊亀蓬莱山・竜宮城などを現わし吉祥とされる。 種類大気の密度は大気の温度によって疎密を生じるが、低空から上空へ温度が下がる場合、上がる場合、そして水平方向で温度が変わる場合の3パターンがある。これらに対応して下位蜃気楼、上位蜃気楼、側方蜃気楼(鏡映蜃気楼)に分類されるが、これらは上位と下位、上位と側方など複合的に発生する場合もある[6]。通常、単に「蜃気楼」というときは上位蜃気楼を意味する[3]。 下位蜃気楼![]() ![]() 上冷下暖の空気層で発生する蜃気楼を下位蜃気楼(inferior mirage)という[3]。地表熱によって生じる場合と上空への冷気移流によって生じる場合がある[6]。対岸の風景などが下方に伸びたり逆転した形で出現する[3]。 「モンジュの現象」とも呼ばれ、ナポレオンがエジプト遠征をしたときに従軍したフランスの数学者モンジュ(G. Monge)が初めてこの現象を記述した。最も一般的に目にする機会の多い蜃気楼。アスファルトや砂地などの熱い地面や海面に接した空気が熱せられ、下方の空気の密度が低くなった場合に、物体の下方に蜃気楼が出現する。 上位蜃気楼![]() ![]() 上暖下冷の空気層で発生する蜃気楼を上位蜃気楼(superior mirage)という[3]。冷気層の上方への暖気移流によって生じる場合、暖気層の下方への冷気移流によって生じる場合、放射冷却で冷気層の下に暖気層が生じた場合がある[6]。対岸の風景などが上方に伸びたり逆転した形(あるいは複雑に変形した形)で出現する[3]。 「ビンスの現象」とも呼ばれ、イギリスのビンス(S. Vince)が、この現象を初めて報告したことにより名をのこした。 オホーツク海で流氷が海面から浮いて見える「幻氷」は、春の風物詩で流氷が数十km沖に後退して見えなくなる4月から5月頃に現れる[7]。 ヨーロッパなどでは、伝統的にファタ・モルガーナとも呼ばれている。 極地域では他にも、この対応の蜃気楼の一種として、四角い太陽が観測される場所がある。16世紀末、ウィレム・バレンツらの北極海探検時にノヴァヤゼムリャで発見されたので、ノヴァヤゼムリャ現象という別名もある。なお、変形太陽は上位蜃気楼のほか上空の逆転層の発生により観察されることもある[6]。 北海道別海町の野付半島付近や紋別市などでは、四角い太陽は、気温が氷点下20度以下になった早朝、日の出直後の時間帯に、通常は丸く見える太陽が四角く見える現象である。 側方蜃気楼鏡映蜃気楼[6]、側方屈折蜃気楼とも呼ばれ、水平方向に光が異常屈折するもので、垂直な崖(がけ)や壁などが日差しを受けて熱せられた場合や、海岸の浅瀬と深みの水温の異なる場合などが、そのような条件をつくりだす。物体の側方に蜃気楼が出現する。 事例が少なくな実態もほとんど解明されていない[6]。スイスのジュネーブ湖で目撃されたという報告がある。 また、日本で不知火(夜の海に多くの光がゆらめいて見える現象。九州の八代海、有明海などで見られる)と呼ばれるものも、このタイプの蜃気楼に属すると言われている。 夜の蜃気楼まれに陽が射さない夜に蜃気楼が現れることがある。これは照明などによってライトアップされた対象物が蜃気楼として現れるものである。富山湾の魚津の海岸では、上位(春型)蜃気楼として、富山県射水市の富山新港の港口に架かる新湊大橋が反転などの変化をしながら浮かび上がることがある[8]。 歴史世界紀元前約10,000年頃以前より、蜃気楼は出現しており、少なくとも景色として目に映されたと考えられる。 紀元前約 7,000年頃より、氷河期が終わり縄文海進(完新世)が進んだ頃から現在同様の地域で、蜃気楼が出現し始めて目に映されたと考えらえる。 目に映る景色が蜃気楼であると視認しはじめた頃の様子は、詳細不明である。 目に映る景色が蜃気楼であると視認し、初めて文献に登場したのは次である。 1.中国最古、戦国時代から秦朝・漢代の地理書『山海経「海内北経」』(前4世紀 - 3世紀頃)である。「蓬萊山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されている。この「蓬莱山」・「市」とは蜃気楼のことで中国神話の霊亀蓬莱山の神仙境として登場する。また、前漢の武帝は、山東半島を巡幸(紀元前133年(元光2年))して、海上に蓬莱(蜃気楼)を見たとの逸話がある。 そもそもの語源は、「「蜃気楼」は、山や市場・都市が海上に映ることから「海市」・「山市」とされ、これ等は「蜃」による。」としたことに端を発する。なお、現代中国語は、「海市蜃楼」「蜃景」「幻景」であり、語源は『史記』がたんなる基いではない。 2.その後、前3世紀以前には、蜃気楼の「蜃」は、竜によるかハマグリによるか、一時混乱して「竜の類の蜃(みずち)」の方と結論を得た。 しかし、この混乱は現代日本まで尾を引き、一部に蜃気楼はハマグリによると誤解を残した。秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた 紀元前239年(秦の始皇8年)『呂氏春秋』(りょししゅんじゅう、『呂覧』(りょらん)とも)に論争があり、これを基にした『礼記』「月令」は、”蜃に竜とハマグリの2通りの説があるのは、ハマグリの蜃が竜族の蜃と同名であるために両者が混同されたため、と述べて「竜の類の蜃(みずち)」の方を示した。” 3.最後に、紀元前108~89年『史記「天官書」』司馬遷に、「蜃(瑞龍の類)の気(吐き出す息)によって楼(高い建物)が形づくられる 気の広がりは闕然(城の高い門楼)の宮を成す(「海旁蜃気象楼台、広野気成宮闕然」)」という記述が現れている。『前漢書「天文志」』にも同文がある。現代日本語の「蜃気楼」の語源を直接、明確に表した。また、同時に「竜(蜃)宮」も表している。因みに、蜃気楼が頻繁に現れる山東半島には、唐代に東海竜王を祭り竜王宮が現実に建てられている。 4.なお、蓬萊山は、地理的に日本列島の何処に一致するものの、同『史記』の徐福伝説では蓬莱を「市(蜃気楼)」とせずに書かれたことから、日本の蜃気楼は未だ幻の蓬萊山のままのこされている。 『史記』巻六「秦始皇本紀 第六」始皇帝、及び、巻百十八「淮南衡山列伝」に記す徐福伝説において、蓬萊は、東方三神山の一つ、渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海にあり、不老不死の仙人が住むと伝え、また、徐福は蓬萊に赴き移り住んだことなどを伝える。蜃気楼が見える山東半島の近くに住んでいた徐福は、仙薬は求めたが、蜃気楼の蓬萊山を求めたようには書かれず、史記の徐福は蜃気楼には全く関わらない。 5.また、蜃気楼の幻の蓬莱山の出現は、神仙境が現れて瑞獣の霊亀が蓬莱山を背負っていることから吉祥とされる。このほか、「蜃(みずち)」つまり蛟竜は、蓬莱の霊亀を加えて四瑞・五龍に至って現すので、この上のない吉兆とされる。 蛟竜は、竜の幼生のうちは漆黒の水底に住むものの、時勢を得て成竜へと嵐や竜巻を起こして登竜門を通る昇竜となって天に至り、天竜となる末に四瑞を現す。角竜となれば応竜に至り、飛竜になれば鳳凰を生み、末は麒麟を生むことから霊亀を加えて全ての四瑞が現れる。さらに、四竜(青竜・紅竜・白竜・黒竜)の長となる黄龍に成長する伝説の霊獣となる。 6.この他、インドでは紀元前100年頃「大智度論」第六に遡り、この書物の中に蜃気楼を示す「乾闥婆城」という記述がある。 日本日本でも、蜃気楼は縄文時代には目視されて、また、弥生時代からの神話とも習合して現在に至っている。 古来より、蜃楼の蜃は「みずちの竜」と楼は「やぐらの城」の「竜城」であり、また、蜃楼の蜃は「貝」と楼は「やぐら」の「貝やぐら」でもあり、いずれも読み替えた言葉、「海中の宮」を異口同音に表して親しまれてきた。神山の神仙境を指した蜃気楼は、初代天皇(神武)の祖父母、山幸彦が、竜女の豊玉姫を娶った日本神話と習合した浦島太郎伝説とともに竜宮伝説の基いの一つとされる。この基には、徐福伝承の影響があったと見られる。各地に残る徐福伝承から、徐福は稲作の急速な東方普及や大和政権の拡大東征と概ね同期して、徐福伝承は日本の東に進んだ構図で帰化しており神仙境や竜宮は日本の神話や伝説とも習合したと見られる。また、徐福が訪れたと伝わる広島県佐伯郡宮島町の聖崎には蓬莱岩があり、そこで見える厳島の蜃気楼は「蓬莱島」と呼ばれて、山東半島の呼び名と一致している。 飛鳥から平安時代にかけて、蜃気楼の現れは素戔男尊を祀る祇園の荘園と祇園信仰が広がった富山湾では、神話の八岐大蛇や仏教牛頭天王(須弥山豊饒国)の后である娑伽羅竜女(頗梨采女)の竜宮などと合せて蜃気楼は神仏習合している。また、蜃気楼は、祇園(八坂)神社の龍穴と繋がり現在に竜宮を伝えるとともに、春のホタルイカは竜宮(蜃)の使いと称されている。能登總持寺から別れた立山寺(りゅうせんじ)建徳元年(1370年,越中)は北海大龍女の伝承を加えており、炎の剱の竜(倶利伽羅)と水の宮の竜(娑伽羅の姫)の灯火が並んでいる。北の越国等(北信越)の竜が、蓬莱山の霊亀と蛟龍に加えて、玄武、八岐大蛇とも習合した黒竜の伝承(九頭竜、倶利伽羅竜、黒姫など)となって広まった一つである。 中世末期には、徳川家光は、神へ、東叡山寛永寺東照大権現宮に蜃(みずち)を用いており、また、多くの寺社が蜃(みずち)を用いた。 ![]() ![]() 古来の生物学上、博士の『呂氏春秋』から初まり『本草綱目』『大和本草』を経て近現代の『動物妖怪譚』まで一級の学識は一貫しており、その後に変化なく現在まで蜃気楼は蜃(みずち)によると理解されている。また、宗教上も同様である。 日本での文献として最も古くは、次の通りである。最初に、蜃気楼を視認したのは先の宮島、及び、小野妹子等遣隋使や高僧などと見られるものの、直に記録に残されたのは年代がかなり下がってからである。
なお、江戸時代後期に、伊勢湾の蜃気楼は、桑名・四日市を代表する有名な事象として、そして、巨大ハマグリの蜃気楼も庶民に愛された。妖怪画からの巨大ハマグリは、学よりも楽しさがあり工芸的な風俗画題として注目されたことから庶民に愛されたと言えて、浮世絵、掛図、焼き物へなどと広がって印された。しかし、蜃気楼を妖怪風俗画として庶民が工芸を楽しんだこと以外に意味はなく、ハマグリが蜃気楼の「蜃」と表す意味はない。例えば、浮世絵師が観念的に結びつけた構図で「伊勢太神宮が尾張の熱田宮へ神幸」、「第14代将軍徳川家茂の上洛の旅程」、「貝から立ち上る煙の中に蜃気楼」を浮世絵などに描かれたものの視点を変えると、描かれた当の”ただ貝を焼いて売る者”は、蜃気楼はハマグリとするだろうが、徳川家茂、伊勢神宮や熱田宮等は学識者に従って、仮に実際に蜃気楼を見ても巨大ハマグリとも考えることは決してない。 富山湾の蜃気楼![]() 日本では、専ら富山湾に集中的に頻繁に現れる蜃気楼が有名で、富山湾では上位蜃気楼と下位蜃気楼の両方が現れる類い稀な特徴がある。 2020年(令和2年)3月10日に、「魚津浦の蜃気楼(御旅屋跡)」として国の登録記念物(景勝地)に登録されている[9][10]。北陸道が海岸沿いを通る場所(現在の魚津市大町海岸公園)に、加賀藩ならびに、富山藩、大聖寺藩専用の御旅屋あったことから、前田綱紀や前田治脩が観賞した由緒と古来からの歴史がある景勝地の蜃気楼である。 魚津市街やその付近の滑川市街や黒部市街などの海岸部などから、ある条件がそろった麗らかな日和に蜃気楼を望むことができる。富山湾越に富山市(岩瀬)方向や黒部市(生地)方向に現れ、初春から初夏はしばしば現れる。北西の能登島方向には、出現が確認されることは少ない。また、対岸の能登や氷見からは、海底地形などの影響から上位蜃気楼をみることが出来ない。 富山湾とその付近の地形と気象による特有現象であり、対馬暖流が回り込む富山湾においては、春や初夏は、北アルプス立山連峰に水源をもつ大きな急流河川、常願寺川、早月川、片貝川、黒部川その他から同時に冷たい雪解け水が大量に注ぎ込まれ、この水は塩分濃度の違いから海面を漂う。上空に流れる暖かい空気層に相対して海面は冷たく保たれることで上位蜃気楼となり、逆に、秋や冬は、上空の冷たい空気層に相対して海面が暖かく保たれていることから下位蜃気楼になることが知られている。 なお、この岩瀬~生地沿岸の海面は、他にも「ホタルイカ群遊海面」の名称で特別天然記念物に指定してホタルイカとともに保存されている。富山湾に出現する蜃気楼は、立山連峰による気象と言えて、神が住まう立山と竜が住まう海の神秘なる自然と理解される富山湾の神秘である。立山寺の伝承の基の一つであると供に神仙境の立山のみならず『山海経』「海内北経」が示す東方三神山の幻の蓬萊山と一致し、古くから神話の竜宮城があると考えられてきた。 1992年より魚津埋没林博物館の学芸員が毎年の出現回数を、1996年4月より回数に加えて、3台のカメラと屋外の肉眼での観測を行ない、A〜Eの5段階評価で発表している。Aランクは肉眼でもはっきり明瞭に見え、誰もが満足するもの、Cランクは蜃気楼の知識がない人や、双眼鏡を使用せず肉眼で見ている人の半数がわかるものとしている。ただ刻々と変化するのであくまでも目安としている。Aランクの蜃気楼は滅多に現れることはなく、ここ最近では2005年と2018年6月30日に現れただけで、観測を始めてからも8回のみである[14][15]。 ![]() 2020年(令和2年)3月より、魚津埋没林博物館と富山大学は共同で、魚津市の海岸線、早月川沿いにある遊園地「ミラージュランド」の観覧車の支柱3ヵ所(それぞれ地上8m、18m、33m)に海上に向け温度計を設置、それぞれの高度の気温を10分ごとに観測し、蜃気楼が発生する気象条件を探るとともに、発生予報に役立てばとし[16]、3月から9月まで「海の駅蜃気楼」にてデータをもとに「見えるかも、見えないかも」の2択で表示していたが、的中率は48%であったため精度向上を目指し、高さ11mから25mの間に新たに温度計を設置し、2021年(令和3年)以降も引き続き観測を行う[17]。 蜃気楼を描いた芸術作品
脚注
関連項目外部リンク
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