前田治脩
前田 治脩(まえだ はるなが)は、加賀藩の第10代藩主。加賀前田家11代。第5代藩主・前田吉徳の十男であり、吉徳の息子で藩主についた5人(宗辰、重煕、重靖、重教、治脩)のうち最後の藩主である。 生涯父・吉徳の死の5か月前に最後の男子として生まれる[1]。幼名は時次郎。藩主の十男と序列は極めて低く、本来藩主の座などとても望めない立場であった。誕生翌年の延享3年(1746年)4月、越中勝興寺の住職になることが定まり、6月に名を尊丸と改める。宝暦6年(1755年)11月に勝興寺に移り、宝暦11年(1761年)3月、17歳で得度して闡真と称した。しかし、兄たちは次々に早世し、七男の重教が藩主を継いだ頃には、重教と九男の利実を残すのみであった。明和3年(1766年)に利実も没し、重教にも他の兄たちにも男子がなかったため、明和5年(1768年)12月に闡真は重教の命により還俗した。翌年2月金沢に移り、俗名で名乗りを時次郎に戻した後、諱を利有(としあり)とした。なお、このとき金沢入りした際の道中記は、非常に優れた日記として評価されている。明和8年(1771年)3月、松平名字を与えられる[2]。翌4月、重教の隠居により家督を継ぎ、将軍徳川家治より偏諱を授かり治脩に改名した。 寛政4年(1792年)、藩校明倫堂(総合大学的性格を持つ文学校)と経武館(士官学校的性格を持つ武学校)を兼六園の隣に創設した。学頭は京から招かれた新井白蛾で、当代随一の漢学者として名高かった。 重教が隠居後に男子をもうけたので、長男の斉敬を寛政3年(1791年)に養嗣子とした。しかし斉敬は襲封前に夭逝したため、代わって次男の斉広を養嗣子とし、享和2年(1802年)に家督を譲って隠居した。寛政12年(1800年)に側室の伊遠に自身の男子・裕次郎(利命)が生まれており、斉広の養嗣子(順養子)としたが、裕次郎は文化2年(1805年)に6歳で夭折した。 文化7年(1810年)、66歳で没した。
系譜
脚注 |