花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊(伊弉冊尊[1]、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る[1]。
概要
『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。当社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである[2]。
神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる[3]高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの[4]大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ[3]、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている[4]。一説には、伊弉冉尊を葬った地はおよそ西1.3キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)であり、当社はこの火の神である軻遇突智の御陵であるともいう。花窟神社では、伊弉冉尊の拝所の対面にある高さ18メートルの巨岩が、軻遇突智の墓所とされている[5]。
古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。
今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である[2]。この巨岩は「陰石」であり、和歌山県新宮市の神倉神社 の神体であるゴトビキ岩は「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ[3][4]、ともに熊野における自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている。
2004年、ユネスコ世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部(熊野参詣道伊勢路の一部)として登録された。
例大祭
- 御縄掛け神事 - 2月2日(春季大祭)、10月2日(秋季大祭)。県指定無形民俗文化財[4]。
- 特別な田で作られたもち米の藁縄7本を束ねた長さおよそ170メートルの大綱に[3]、季節の花(2月はツバキを入れ、10月はケイトウを入れる[3])を結びつけた3つの縄幡および扇を吊して、磐座の頂上(ウバメガシに結ばれる[3])から七里御浜の海岸へと大綱が引かれ、境内の南隅にある柱(かつてはマツの神木)の先端へと引き渡される。その大綱の先端は地面の支柱に結びつけられる。大綱として束ねられる7本の細い藁縄は、伊弉冉尊の子で自然神である級長戸辺命(しなとべのみこと、風の神)、少童命(わたつみのみこと、海の神)、句句迺馳(くくのち、木の神)、草野姫(かやのひめ、草の神)、軻遇突智尊(火の神)、埴安神(はにやすのかみ、土の神)、罔象女(みつなのめ、水の神)を意味する[6]。また3つの縄幡は、三流の幡(みながれのはた)と呼ばれ[6]、岩側より、伊弉冉尊の黄泉の穢れをはらった際に生まれた三神、天照大神(あまてらすおおみかみ、太陽神)、月読尊(つくよみのみこと、月神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと、暗黒神)を表している[3]。この3つの縄幡は、朝廷より毎年奉献されていた「錦の幡」が運ばれるとき、舟が熊野川の増水により転覆したため、変わり「縄の幡」が作られたものであるといわれる[3][4]。綱は掛け替えることなく自然に切れるまで残されるため、新たな綱と2本見られることもあり、縁起がよいものとされる[3]。
指定文化財
国指定文化財
- 記念物(史跡)
- 熊野参詣道 花の窟 - 2002年(平成14年)12月19日指定[7]。
県指定文化財
- 民俗文化財(無形民俗文化財)
- 花の窟のお綱かけ神事 - 1969年(昭和44年)3月28日指定[7]。
市指定文化財
- 民俗文化財(有形民俗文化財)
- 花の窟神社の版木 - 1999年(平成11年)1月28日指定[7]。
- 版木原画、菱川廣隆。版木の花の窟図には、お綱掛け神事による綱が御神体に掛けられた景観が示されている[8]。
- 花の窟の湯立釜 - 1999年(平成11年)1月28日指定[7]。
- 記念物(天然記念物)
- 花の窟神社社叢 - 1964年(昭和39年)4月28日指定[7]。
短歌
- 「紀の国や花の窟にひく縄の ながき世絶えぬ里の神わざ」 本居宣長[2]
- 「紀の国や有馬の村にます神に 手向る花は散らじとそ思ふ」 徳大寺公能[2](大炊御門右大臣[4])
- 「三熊野の御浜によする夕浪は 花のいはやのこれ白木綿(しらゆう)」 西行[2]
- 「神まつる花の時にやなりぬらん 有馬の村にかかるしらゆふ」 光俊朝臣[2][4]
- 「春風に木すゑさきゆく紀の国や ありまのむらにかみまつりせよ」 よみ人しらず[2]
交通
周辺情報
脚注
関連項目
外部リンク
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