鬪雞神社
鬪雞神社(とうけいじんじゃ)[1][2]は、和歌山県田辺市にある神社。史跡(和歌山県指定文化財)の名称としては「鬪雞神社」となっているが、宗教法人の名称としては漢字に「鳥」の入った「鬪鷄神社」である[3]。「闘鶏神社」などとも表記される。旧称は田辺宮、新熊野、新熊野雞合大権現。通称:権現さん。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。 歴史創建允恭天皇8年(419年)9月に勧請したとされるが、創建時の神社の歴史はよくわかっていない[4][5]。一方、天武天皇の時代の684年に建立されたとする記録も残る[5]。また、田辺湾の神島に神光が上がり、まず仮庵山(社殿南側にある山)に降り立ち、しばらくして龍仙山へ移りさらに天に上っていったという龍神信仰も残っている[5]。以上から龍神信仰を元にした自然崇拝の祭祀の場所が次第に整えられたものとみられる[5]。 中近世『紀伊続風土記』や江戸時代の古文書によると、12世紀前半に熊野別当・湛快のときに熊野三所権現を勧請した[4]。そして熊野別当家によって聖地として整備され「新熊野権現社」と称されるようになった[5]。 社名は『平家物語』の故事(鶏合わせ神事)に由来している[4][5]。『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、熊野別当・湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め[6]、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。この『平家物語』の故事から中世には「鶏合大権現」「鶏合宮」「鬪雞宮」とも称された[5]。 鬪雞神社のある地は西国三十三カ所巡礼の第一番札所の那智山寺(青岸渡寺)から第二番札所の紀三井寺までの中継地で、中世以降は参詣道や巡礼路の要衝となった[5]。 しかし、15世紀末以降に二度の戦乱による焼失(明応年間及び天正年間)で荒廃し、完全な再建まで約150年を要した[4][5]。慶長5年(1600年)に田辺領主となった浅野左衛門佐は新熊野権現の再興を図った[4]。紀州徳川家の統治後は紀州藩付家老の安藤家の所領となり、元和5年(1619年)に安藤直次が田辺領主となった後は町衆からの深い信仰も集めて神社は再興を果たした[4][5]。 近現代1871年(明治4年)に郷社(田辺県)、1873年(明治6年)に村社(和歌山県)、1881年(明治14年)2月には県社となっている。 1971年(昭和46年)7月に神社本庁の別表神社に加列されている。 2016年(平成28年)10月23日、第40回世界遺産委員会継続会議において、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された[7]。 なおプロ野球の独立リーグ、BASEBALL FIRST LEAGUE(現・関西独立リーグ (2代目))に2017年(平成29年)より加盟した和歌山ファイティングバーズ(現・和歌山ウェイブス)はこの神社が名の由来だった[8]。 熊野神社としての重要性現存する社殿は近世の再建に係る6棟が揃って遺存するもので、仮庵山を背に北面して建ち、東より西へ西殿、本殿、上殿、中殿、下殿、八百萬殿の6棟が横一列に並ぶ。 建立年代は上殿が最も古く明暦4年(万治元年、1658年)に氏子衆によって建てられた[5]。次いで上殿東側に本殿が寛文元年(1661年)に安藤直清によって寄進された[5]。それから数十年後の元文2年(1737年)に本殿東側に西殿が再建された[5]。さらに上殿西側の中殿(中四社)、下殿(下四社)、八百萬殿(満山宮)が延享5年(1748年)に再建されて社殿群6棟が揃った[5]。本殿(證誠殿)と上殿(西御前)の配置は熊野本宮大社と共通しており、本殿の祭神が伊邪那美命である点が異なるが、当社には『那智参詣曼荼羅』が伝わるなど熊野との強い関係性を示している[5]。 本殿と上殿は一間社春日造かつ奥行二間とする、いわゆる熊野造で田辺地方における数少ない17世紀中期以前に遡る貴重な神社建築例である。各棟ともに細部には地域的特色を備え、近世における当地方の神社建築の展開を考えるうえでも貴重な遺構とされる[9]。これらの社殿は国の重要文化財に指定されている。 祭神社殿は6棟あり、それぞれ以下の神を祀る。
境内
文化財重要文化財
国の史跡国の名勝
和歌山県指定有形文化財
和歌山県指定史跡
行事祭事→詳細は「田辺祭」を参照
その他の行事なお、1986年(昭和61年)10月から地場産品の育成のために鬪雞神社馬場(東陽)で弁慶市(毎月第三日曜日)が開催されていたが、2020年12月から扇ケ浜公園カッパークに会場を移転した[20][21]。 氏子町→詳細は「田辺祭 § 笠鉾・衣笠」を参照
→詳細は「田辺城 § 城下町」を参照
前後の札所交通脚注
外部リンク |