吉野山
吉野山(よしのやま)は、奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。 古くから花の名所として知られており、その中でも特に桜は有名で、かつては豊臣秀吉が花見に来た事がある(後述)。現代でも桜が咲く季節になると花見の観光客で賑わう。地域ごとに、下千本(しもせんぼん)、中千本(なかせんぼん)、上千本(かみせんぼん)、奥千本(おくせんぼん)と呼ばれている。 1924年(大正13年)12月には国の名勝・史跡に指定され、1936年(昭和11年)2月 には吉野熊野国立公園に指定された。また2004年(平成16年)7月には吉野山・高野山から熊野にかけての霊場と参詣道が『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。1990年(平成2年)には日本さくら名所100選に選定された。 桜花の吉野山吉野山は平安時代頃から桜が植え続けられてきた。 特に桜が数多く集まる所があり、いずれも一目千本と呼ばれ山下の北から山上の南へと順に下千本・中千本・上千本・奥千本と呼ばれている。 植えられている桜の種類は、ほとんどが白山桜(シロヤマザクラ)であり、その数は約3万本にも及ぶという。 これらの桜は、4月初旬から末にかけて、山下の下千本から順に山上へと開花してゆく。この時期の吉野山は花見客で大変、賑わう。
奥千本の再生かつては高城山から金峯神社にかけての一帯など、現在の桜林よりも遥かに広い範囲が奥千本と呼ばれ、名所であったというが、戦前の一時期に杉桧への配置植林を行ったことや自然災害等により、高城山や苔清水・西行庵付近に僅かに残る桜の林以外は、杉桧の林に変わっていた。平成期にに入り奥千本再生の機運が高まり、2009年には「一般財団法人 22世紀吉野桜を愛でる会」が設立され、まず2010年頃から金峯神社参道の坂道の両側の杉等の樹木を伐採し、桜が植えられ、既にかなり成長し、多くの花を咲かせるようになっている。苔清水・西行庵付近がそれ以前では奥千本で最も大規模なの桜の林であったが、それでも桜の木は100本以下であった。周辺は杉林であったが2011年から2014年頃にかけて、杉の伐採と桜1000本の植樹が行われ、それらはすでに低木ながら花をつけるようになっており、名実ともに奥千本となっている。引き続きそれにつながる山にも桜への植え替えが行われており、すでに3500本以上が植樹されている。引き続き「令和の献木」1000本を募集しており、それらは西行庵の谷向や「長尾山」を皆伐した跡に植樹される予定である。 かつての名所
桜が多い理由吉野山に桜が多いのは、桜が蔵王権現の神木であるとされたことによる。 修験道の開祖とされる役小角は、金峰山(現在の大峰山系)で修行を積み、その結果、金剛蔵王菩薩(こんごうざおうぼさつ)が出現して、これを感得し蔵王権現像を彫ったとされる。その時に用いられた木材が桜樹であった。以降、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなった。これより桜は神木となり、桜の枯れ木といえども薪にさえせず、一枝を折る者は指一本を切るといったような厳しい信仰が厳守されたという。そのため蔵王権現に祈願する際には、神木とされる桜の苗を寄進するのが最善の供養となる風習が起こり、平安時代の頃から多くの桜が植えられるようになった。 また大海人皇子(のちの天武天皇)が、吉野の寒中で、庭の桜が満開の夢を見て、これが動機となって天下を定めたので、桜は霊木であり神木であるとされ、桜の愛護が始まったとも伝えられる。 信仰登山の吉野山吉野山は、大峰山を経て熊野三山へ続く山岳霊場・修行道大峯奥駈道の北端にあたる。 7世紀(飛鳥時代)に活躍した呪術者・役小角は、葛城山(金剛山・大和葛城山)、大峰山で修行を重ね、金峰山(大峰山系)で、金剛蔵王大権現を感得し、この地に蔵王権現を本尊とする金峯山寺や修行道である大峯奥駈道を開いたとされる。 大峯奥駈道は、南端の熊野を発して吉野に至るのを順峯といい、北端の吉野から熊野に至るのを逆峯と呼んだ。途中には神仏が宿るとされる拝所・行場が設けられ、これらは靡(なびき)、古くは宿と呼ばれ、多い時は120宿があったというが、近世に75の靡となった。 そのうち吉野山は6つの靡の範囲となる。
愛染宿より南は女人結界であったが、現在の大峯奥駈道の女人結界は五番関に移されている。なお、付近に現在も女人結界跡として残る。 歴史に登場する吉野山
吉野山と芸術雪の吉野山吉野山が現在のような桜のイメージで知られるようになったのは、平安時代後期あたりからと考えられている。それまでは、「春の訪れが遅く雪深い」イメージが強く、古今和歌集において、紀友則の「み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける」(春歌上)と詠まれているのが桜についての初見ではあるが、この頃はまだ、百人一首にも選出されている、坂上是則の「あさぼらけ有明の月とみるまでに吉野の里にふれる白雪」(冬歌)に代表される雪の歌が優勢であった。 雪から桜へ平安期に修験道が発達するにつれ、開祖である役小角の奉じた蔵王権現の神木として桜が尊重されたことから、吉野山の桜が徐々に名を上げ(積極的に植樹を行い、爆発的に数が増えたという説もある)、新古今和歌集の時代になると、桜と雪はすっかり立場が逆転してしまっていた。新古今集の代表的歌人で「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」と詠った西行も吉野をたびたび訪れ多くの秀歌を残した。山上には「西行庵の跡」もある。 歌舞伎舞踊江戸時代に初演された人形浄瑠璃・歌舞伎の『義経千本桜』は大当たりとなった。劇中の所作事『道行初音旅』(みちゆき はつねの たび)は、単独でこれを上演する際には『吉野山』と通称する。本来は義太夫節だが、常磐津節・富本節・清元節に書き直された作品もある。 吉野山を歌った詩歌短歌
鉄道唱歌1900年(明治33年)に作詞された「鉄道唱歌第五集 関西・参宮・南海篇」(大和田建樹作詞)では、3番に渡って吉野山が歌いこまれた。高野山・和歌山と共に、作者の歴史・景勝好みが影響しているものと見られている。
名所・旧跡
長峰下千本
中千本
上千本
奥千本
吉野山での宿泊吉野山には十数軒の旅館、民宿そして宿坊もある。 中には、温泉を有する宿もあり、花見客や修験道の山伏などが多く利用する。 吉野温泉→「吉野温泉」を参照
交通アクセス公共交通機関
自動車吉野山の道路は狭く急な坂道が多く、また山上には駐車できるスペースが少ない。そのため下千本地域の「吉野山観光駐車場」(約400台)または中千本地域の「如意輪寺駐車場」(約300台、未舗装)から徒歩の方が都合が良い場合もある。この2つの駐車場は桜のシーズン以外は無料。その他の中心部の民営駐車場はほとんどが通年有料。
桜のシーズン中
関連項目
外部リンク
座標: 北緯34度21分23.16秒 東経135度52分14.22秒 / 北緯34.3564333度 東経135.8706167度 |