森主一
森 主一(もり しゅいち、1912年6月7日 - 2007年2月25日)は、日本の生物学者(生態学・時間生物学)。勲二等。京都大学名誉教授、滋賀大学名誉教授、静岡女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学・1945年)。 ラテン文字転写の際にSyuiti Moriと表記される場合もある。 京都大学理学部教授、京都大学理学部附属大津臨湖実験所所長、京都大学理学部学部長、日本学術会議会員、静岡女子大学学長(第3代)、滋賀大学学長(第7代)、滋賀大学経済短期大学部学長(第7代)、環境市民代表(初代)などを歴任した。 概要徳島県出身の生態学や時間生物学を専攻する生物学者である。「日本の生態学の草分け」[1]と評されており、太平洋戦争後の日本における生態学の確立に大きな役割を果たした[2]。長期間にわたるショウジョウバエの暗黒飼育実験で知られており[1]、「生物リズム研究の先駆者」[3]とも評された。また、「生態系」という用語を一般社会に広めた人物としても知られている[2]。長年にわたり京都大学で教鞭を執るなど[1][3]、後進の育成に努め、静岡女子大学、滋賀大学では学長を務めた[1][3]。 来歴生い立ち1912年(明治45年)6月7日[4]、徳島県徳島市にて生まれた[3]。京都帝国大学理学部動物学専攻にて学んだ[1][3][5]。当時の帝国大学においては、動物生態学の講義が正式に開設されていたのは京都帝国大学のみであったため[6]、それを意識して進学先を決めたという[6]。理学部では川村多実二の門下となり[6]、ヤマトカワニナについて研究した[6]。1935年(昭和10年)3月、京都帝国大学理学部卒業[3]。 1935年(昭和10年)4月に京都帝国大学の大学院に進学したものの[3]、1937年(昭和12年)12月に召集され陸軍に入営し[3]、日中戦争の前線に送られた[7]。なお、陸軍においては予備士官学校にて教育総監賞を受賞しており[7]、現地の歩兵連隊では連隊旗手を務めた[7]。1942年(昭和17年)5月に召集が解除されたため[3]、大学院に戻った[1][3]。 川村多実二から海洋生物の研究をしてはどうかと提案され[6]、ウミサボテンについての研究を始めた[6]。戦火の下で「動物の週期的活動に関する研究」[8][† 1]と題した博士論文を執筆した。1945年(昭和20年)3月8日付で京都帝国大学より理学博士の学位を取得した[8]。同年8月15日、太平洋戦争は終結した。 生物学者として太平洋戦争後は、1950年(昭和25年)1月、京都大学理学部助教授に着任[1][3][5]。理学部においては、主に動物学科の講義を担当、生理生態学講座を受け持った[1]。1962年(昭和37年)10月京都大学理学部教授[3][5]、学内の要職も歴任した[1][3][5]。1963年(昭和38年)4月、京都大学理学部附属大津臨湖実験所所長[3][† 2]。1973年(昭和48年)4月から1975年(昭和50年)3月まで、京都大学理学部長[3]。また、他の公的機関の役職も兼任していた[1][3]。1975年(昭和50年)1月から1985年(昭和60年)6月まで、日本学術会議会員[3]。1976年(昭和51年)、京都大学を定年退職[1][3][5]、同年4月1日、京都大学名誉教授[3]。 1977年(昭和52年)5月から1981年(昭和56年)4月まで、静岡女子大学(現:静岡県立大学)学長[1][3][5][9]。学長退任後、静岡女子大学名誉教授[3][5]。 1983年(昭和58年)7月17日から1989年(平成元年)7月16日まで、滋賀大学学長[1][3][5][10]、学長退任後、滋賀大学名誉教授[3][5]。 1990年(平成2年)には、これまでの業績が評価され勲二等旭日重光章が授与された[5]。晩年は市民団体である「環境市民」にて代表を務めた[11][† 3]。2007年(平成19年)2月25日に死去[1][3][5]。 研究専門は生物学であり、特に生態学や時間生物学に関する分野の研究に従事した[3]。その生涯で、約20冊の著書と約300篇の論文、評論、解説を遺している[1]。動物の外部環境と体内生理機高ニの関係について研究し[1]、環境の主体化を通じた動物の進化を解き明かそうと試みた[1]。 具体的には、ウミサボテンの自律日周期活動について研究していた[1]。ウミサボテンの伸縮活動を100日以上にわたって観察することで周期性を見出し[3]、その成果を1948年(昭和23年)に『動物の週期活動』[12][† 4]と題して上梓したが[3]、この本は日本で初めての生物リズムに関する書籍とされる[3]。森自身も「おそらく、この本が、本邦では生物リズムに関しての最初のものでしょう」[3]と述べていた。この本において、潮汐周期活動、日周期活動、太陰周期活動、年周期活動などを論じている[3]。また、時間生物学は、1960年(昭和35年)のコールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムで方法論が確立されたといわれるが[13]、その1960年のシンポジウムに森も招待されており[6]、講演を行っている[6]。なお、当該シンポジウムに出席していた日本人は、森と加藤陸奥雄の2名だけであった[14]。森が招待されたのは、このシンポジウムの中心人物であったユルゲン・アショフの推薦によるものであり[6]、森の業績を留学生の本間慶蔵がアショフに紹介していたためとされる[6]。 また、ショウジョウバエの形質の長期変動について研究していた[1]。その一環として、1954年(昭和29年)11月より[5]、極めて長期にわたってショウジョウバエの暗黒飼育実験を続けており[1][5][15]、森の離任後も生物学者の今福道夫らによって受け継がれた[15]。生物学者の小野勇一は、エピジェネティクスの研究を例に「必ず後ろにロングタームな観察が付いていないと仕事にならん代物です」[16]と述べるなど、生態学における長期的な視点の重要性を指摘しており[16]、森の極めて長期にわたる暗黒飼育実験について高く評価している[16]。 そのほか、淡水生の貝類の分類や[5]、その生態の調査にも取り組んだ[5]。ヒラマキガイ科においては、いくつかの種の学名の命名者として森の名が遺されている。 学術団体に関しては、生態学の学会設立を目指して梅棹忠夫と共に奔走した[17]。当時の日本には、植物生態学に関する学会として中野治房らの日本植物生態学会と吉井義次らの植物生態学会の2つが並立していたが[17]、動物生態学に関する学会は存在しなかった[17]。そこで、森と梅棹を中心にまず動物生態学懇談会を結成した上で[17]、1950年(昭和25年)の日本動物学会大会にて生態学に関する学会設立を広く呼び掛けた[17]。しかし、森に対して下泉重吉が「梅棹さんの演説によると、私は生態学会からしめ出される。私をしめ出すような学会を作ってくれるな」[17]と苦言を呈するなど、生態学の範囲をめぐって森と梅棹にさまざまな意見が寄せられた[17]。その結果、森らは関係する研究者間の調整に奔走し[18]、1953年(昭和28年)9月14日に関係者間で日本生態学会設立で合意するに至り[18]、同年10月1日に設立趣意書を配布した[18]。また、2000年(平成12年)には、応用生態工学研究会より名誉会員の称号を授与された[19][† 5]。 人物
略歴
栄典著作単著
共著
編纂
翻訳
脚注註釈出典
関連人物関連項目外部リンク
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