田口文太
田口 文太(たぐち ぶんた、1878年2月24日 - 1972年9月3日)は、日本の薬剤師、陸軍軍人、教育者。階級は陸軍薬剤中将。 東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任した。 概要日本の陸軍で活躍した薬剤師である[1][2]。陸軍衛生材料廠のトップを経て[1]、陸軍薬剤総監に就任した[1][2]。静岡女子薬学専門学校で校長を務めるなど[1]、後進の育成にも尽力した。 来歴生い立ち1878年(明治11年)2月24日に生まれた[1][2]。誠之小学校を経て[1]、東京府尋常中学校で学んだ[1]。第一高等学校を卒業し[2][† 1]、さらに東京帝国大学に進学した[1][2][† 2]。当時の東京帝国大学は分科大学制を採っており、東京帝国大学の下に設置された医科大学の薬学科にて学んだ[1][2][† 3]。大学在学中の1905年(明治38年)に、陸軍衛生部の医科大学依託学生となった[2]。東京帝国大学を卒業し[2]、薬学士の称号を得た[† 4]。 軍人として大学卒業後は陸軍に奉職し[2]、陸軍二等薬剤官として東京第一衛戍病院に勤務する[2][† 5]。しかし、1909年(明治42年)12月14日、陸軍省医務局の局長だった森林太郎に指示され[2][† 6]、陸軍委託学生として[1][2]、東京帝国大学の大学院に進学することになる[1][2]。同年12月25日、東京帝国大学の医科大学より、大学院への入学が許可された[2]。大学院在学中は、丹波敬三の門下となり[2]、衛生化学について学んでいる[2]。なお、医科大学だけにとどまらず、東京帝国大学の理科大学や工科大学でも学んでいたようである[2][† 7][† 8]。 陸軍においては、第一次世界大戦[2]、シベリア出兵[2]、満州事変[2]、日中戦争[2]、などに関する業務に携わった[2]。1927年(昭和2年)よりドイツ国の首都であるプロイセン自由州ベルリン市に駐在した[1][† 9][† 10]。1931年(昭和6年)には、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任している[1][† 11]。1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し[1][2]、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将である[2]。 退役後専門である薬学の知識を生かして、田辺製薬の顧問に就任した[1]。さらに、静岡女子薬学専門学校においては校長に就任している[1][† 12]。1972年(昭和47年)9月3日に死去した[1][2]。 研究専門は薬学であるが、大学院在学中は東京帝国大学の医科大学だけでなく[2]、理科大学や工科大学でも幅広く学び[2]、そこで得た知見をもとに日本薬学会で研究成果を発表している[2]。日本薬学会が発行する『藥學雜誌』をはじめ、学術誌においても論文を発表している。 人物子供の頃から水泳に親しみ[1]、第一高等学校や東京帝国大学でも水泳部に所属していた[1][2]。卒業後も後輩たちに水泳を指導していた[1]。また、第一高等学校では端艇でも活躍していた[1]。そのため、大日本体育協会や日本游泳連盟などで役員を務め[1][† 13]、日本におけるスポーツの振興に尽力した[1]。太平洋戦争後も日本陸上競技連盟にて顧問を務めた[1]。 顕彰文太が居住していた邸宅の母屋は、「田口家住宅主屋」[3][4]として国の登録有形文化財に登録されている[3][4]。1885年(明治18年)に建てられた木造平屋建であり[3][4]、台所や和室などがある居室棟と[3][4]、離れ[3][4]、および、書斎などがある洋館で構成されており[3][4]、居室棟と洋館との間に玄関が設けられている[3][4]。文太の父である田口卯吉よって建てられ、文太が継いでから1898年(明治31年)に水道と電灯線が敷設された[5]。田口家住宅主屋は「国土の歴史的景観に寄与している」[4]とされ、2010年(平成22年)4月28日に登録有形文化財として登録され[3][4]、同年5月20日に告示された[4]。 家族・親族縁戚関係にある著名人は多数存在するが、ここでは親族に該当する著名人のみを記載した。
系譜
略歴
栄典
著作寄稿、分担執筆、等
脚注註釈
出典
関連人物関連項目
|