松濤
松濤(しょうとう)は、東京都渋谷区の町名。現行行政地名は松濤一丁目および松濤二丁目。住居表示実施済区域。 概要渋谷駅の北西部に位置し、町域内の多くは住宅地として利用される。東京都心を代表する山手の高級住宅地の一つとしても知られるが、「松濤」はかつてこの地に茶園「松濤園」があったことに因み、茶園の名が町名となった珍しい例である[5]。 町域は邸宅が多くを占め、Bunkamuraや戸栗美術館、渋谷区立松濤美術館、観世能楽堂(2017年GINZA SIXに移転)といった文化・芸術関係の施設も多く見られる。このため「松涛文化村ストリート」と称してのまちおこしが図られている[6]。 北・東・南側は同じ渋谷区内で、北部は神山町に、東部は宇田川町に、南東部は道玄坂に、南部は円山町・神泉町にそれぞれ接する。西部は山手通りを含み、目黒区駒場に接する。 地価住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、松濤1-13-7の地点で205万円/m2、松濤2-3-2の地点で159万円/m2となっている[7]。 歴史この一帯は江戸時代に中渋谷村、中豊沢村などといい、小字名として大山、大向、神山などがあった。大山には紀州徳川家の下屋敷があった[5]。1876年(明治9年)、旧佐賀藩主の鍋島家がこれを譲渡された。11代当主の鍋島直大は広大な土地に狭山茶を移植して茶園を開き、士族授産の元武士に運営を依頼し、「松濤園」と命名した[5]。茶の銘柄も「松濤」とされ、一時は東京市中に高級茶として知られた。地領近くに直大の四女・信子の嫁ぎ先の松平恆雄が居住している(後に秩父宮雍仁親王妃の勢津子が出ている。後に現在の旧東京都知事公館)。 1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入、松濤園の茶業は振るわなくなった[5]。このため茶園は廃止され、1904年(明治37年)には鍋島家が経営する畑果樹園種蓄牧場「鍋島農場」[5] と、農務省が運営する種畜牧場渋谷支所に分かれた。 関東大震災を契機として鍋島家は屋敷地を移住者向けに分譲し、高級住宅地となる。忠犬ハチ公で知られる帝大教授の上野英三郎もここに住んでいた。1924年(大正13年)、鍋島家は涌水池のあった種畜牧場の一角を児童遊園として開放し、さらに1932年(昭和7年)10月にはこれを東京市に寄付。1934年(昭和9年)4月からは渋谷区によって管理されることになった[5]。 この間、「松濤」は1928年(昭和3年)に住所町名として採用された[5]。湧水池のある広大な鍋島侯爵邸は太平洋戦争後の華族制度廃止により公園として整備され、現在では鍋島松濤公園となっている。 世帯数と人口2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
人口の変遷国勢調査による人口の推移。
世帯数の変遷国勢調査による世帯数の推移。
学区区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年3月時点)[14]。
交通鉄道町域内に鉄道駅はないが、京王井の頭線・神泉駅が利用可能な範囲にある。 バス道路主な道路
高速道路
祭・催事事業所2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[16]。
事業者数の変遷経済センサスによる事業所数の推移。
従業員数の変遷経済センサスによる従業員数の推移。
施設教育
公園
文化・芸能宗教
医療
企業等その他
過去に存在した施設
ゆかりの人物出身者
居住等
管轄等警察消防
日本郵便
脚注注釈出典
外部リンク |