廃太子廃太子(はいたいし)は、皇太子、王太子などの皇嗣や最優先王位継承者を廃すること、また廃位された人物を指す語。皇室、王室における廃嫡である。 なお、立太子を経ず儲君が廃された場合や、立太子前に薨御した場合などは廃太子とはいわない。 概要
中国三国時代の呉の太子孫和の例など、宮廷闘争や政争の結果として発生することが多いが、対象者が実際に皇位・王位継承者として不適格であるがゆえに緊急避難的措置として行われる場合もしばしば存在する。 不適格の例としては一般的な廃嫡と同じく、上記とも関連してくるが、ロマノフ王朝のピョートル1世とアレクセイ・ペトロヴィチの例のように父親である皇帝・国王との政治的意見の対立、粗暴・淫乱など人格・素行的な欠陥(素行不良)などである。健康上の理由、病弱も廃太子の理由となりうる。本人の素行や健康に問題がなくとも、後継者たる子、特に男子がないこと、婚姻問題やそれに付随して発生する諸問題も廃太子の原因となりうる。古代中国の前漢時代には、妃の実家の問題を理由に、外戚(呂氏)一族討伐における多大な功績にもかかわらず立太子・即位できなかった皇子も存在する。 太子は一国の君主たる皇帝、国王の後継者であり、周囲に与える影響が絶大であるだけに、通常の名家・貴族の嫡子よりも相当に厳しい基準で判断され、一般の貴族なら容認される程度の不行跡でも廃されるケースがままある。その一方でうかつに実施した場合、後任の太子の人選によっては宮廷内外に大混乱、最悪の場合内乱や国家の分裂を引き起こす可能性があるため、ぎりぎりまで発動されないことも多い。いわば伝家の宝刀であり、その決行は非常に難しい問題といえる。冒頭の孫和の例でも、父である皇帝孫権が孫和の弟の孫覇を寵愛したことから孫和派と孫覇派の抗争が起こり、国家が大混乱に陥ったことから老境に入った孫権が最終手段として廃太子に踏み切ったものである(二宮の変。孫覇も同時に処断され第三の皇子が太子となった)。 中国史における廃太子
日本史における廃太子歴史→「皇太子」も参照
日本における「皇太子」は、概ね飛鳥時代から奈良時代にかけて成立・確立された。 第41代持統天皇の後継者を巡り、天皇位ではなく皇太子位を巡る、史上初の紛争が発生した[3]。その結果、持統天皇11年2月16日(697年3月13日)に持統天皇の孫である珂瑠皇子が立太子され、同年8月1日(697年8月22日)に弱冠15歳で即位し第42代文武天皇となり、史上初の皇太子を経て即位した天皇が誕生したとされる[4]。 第42代文武天皇の子は首皇子しかおらず、文武天皇の実母元明天皇、同母姉元正天皇を経て、元明天皇在世中に立太子された首皇子が第45代聖武天皇として践祚した。しかし、聖武天皇には後継者となるべき男子がおらず、藤原不比等の娘光明皇后との間の皇女であった阿部内親王に譲位した(第46代孝謙天皇)。天平勝宝8歳(756年)、孝謙天皇は聖武上皇の遺詔により、道祖王を立太子した。道祖王は、聖武天皇と同じく天武天皇の子孫、かつ祖母は五百重娘[注釈 1]で藤原氏と血縁的な繋がりも深かったが、天皇よりわずかに年長だった。 しかし、道祖王は自身が皇太子に不適格であることを公言した上、男色や機密漏洩等の不行跡があったため、これを理由に史上初めて廃太子された[5]。このことにより、立太子後も皇太子位の廃黜を可能にする段階が到来し、より深刻な権力闘争が起きることとなった[6]。 特に、奈良後期~平安初期の約1世紀の間(第46代孝謙天皇から第54代仁明天皇)に、皇太子の地位を剥奪された「廃太子」が5件(5名)集中的に発生している[7]。ただし、平安時代の高岳親王以降、廃太子となっても幽閉・処刑などの処分は行われておらず、基本的には一般の親王と同じ待遇に降格されるに留まっていた。これは、皇族の身分に対する考え方の変化に伴って廃太子が身分ではなく、特定皇族に起きた現象として捉えられるようなったからと考えられている[8]。 また、南北朝時代にも直仁親王など複数の例が存在し、こちらは政治的な要素もさることながら、軍事的敗北の結果としての要素が強い。 なお、いわゆる旧皇室典範第52条が特権の剥奪等も含めた皇族に関する懲戒を定めており、廃太子も法的に可能であった。 事例
廃太子の儀式廃太子の際、基本的には立太子と同じように廃太子の儀式が行われた事例がある。 平安時代の廃太子の儀式では、廃太子の身分を剥奪するために、皇太子の冠を取り上げ、その後、廃太子の冠を授ける儀式が行われたとされる[10]。また、廃太子は、天皇の命令によって行われることが多かったため、天皇自身が儀式に参加することもあったようである。 参考文献
脚注注釈出典
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