ユリウス暦
ユリウス暦(ユリウスれき、羅: Calendarium Iulianum、伊: Calendario giuliano、英: Julian calendar)は、共和政ローマの最高神祇官・独裁官・執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日[注釈 1] から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。 ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。 なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。 概要平均太陽年を365.25日とする太陽暦の一種であり、1年を365日とする年と4年に1回366日とする年を設けた。 365(日)+ 1/4(日) = 365.25(日) …… 1年間の平均日数(平均年) 月は従来のローマ暦のものを基本的に踏襲し、月ごとの日数を調整して合計を平年の365日または閏年の366日とした。閏日が加えられる閏年は4年ごとに1回設けられ、ローマ暦時代の閏月と同じく2月に挿入された。 なお、ユリウス暦は「紀年法」ではなく、「暦法」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、4、5世紀頃、アレクサンドリアのキリスト教徒が用いたディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)、それを6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる西暦)がある。キリスト紀元は10世紀頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦における置閏法の成立は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている[1]。 制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと。 ユリウス暦の精度ユリウス暦では、1年は365.25日 = 31 557 600 秒である。これに対して、実際の太陽年は、2015年時点で、31 556 925.168秒 = 約365.242 189 44日である。その差は、674.832 秒 = 11分14.832である。86 400 秒( = 1日)/674.832 秒 = 128.032 であるから、約128年で1日のずれが、約1280年で10日ものずれが生ずることになる。カエサルの活躍した古代においては格段に正確な暦ではあったが、このような時代的な限界もあった。ユリウス暦の制定後、約1500年が経過した1582年にグレゴリオ暦への改暦が行われたのはこのためである。 キリスト教への採用キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日を定める基準としても使われるようになった。 ただし、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、新約聖書において太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されている[注釈 2] ため、復活祭の期日は、太陽暦であるユリウス暦のみでは決定できず、季節(太陽年)と月齢(太陰月)の双方に合わせる作業が必要となった。第一次ニケーア公会議は325年に、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の天文学的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。カトリック教会はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定[注釈 3] して改暦することとなった。これがグレゴリオ暦である。1582年2月24日[注釈 4]、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、西ヨーロッパでも、プロテスタント地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、プロテスタント地域でも徐々に広まっていき、最後まで残ったイギリスが1752年に採用したことで、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に正教会圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。またグレゴリオ暦の記事を参照) 運用紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年ごとに1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した[注釈 5]。紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。 紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元16年までの閏年の置かれ方は次のとおりである。
紀元9年以降紀元9年以降は以下のとおり、規則正しく運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。
西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。 1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる。 月名現代日本語では各月は1月~12月の数字で表すことが多いが、古代ローマで使われていたローマ暦ではローマ神話やラテン語の数詞に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり[2]、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった[3]。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語・フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。 尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、カリグラは9月を Germanicus [注釈 6]、クラウディウスは3月を Claudius、ネロは4月を Neroneus [注釈 7]。ドミティアヌスは10月を Domitianus と改名した。9月についてはアントニヌス・ピウスが Antoninus と改名したほか、タキトゥスが Tacitus と改名した。11月はピウスの妻の名をとって Faustina となったり Romanus となったりした。コンモドゥスに至っては月に自分の名をつけるだけでなく、12の月全部の名を変更した。順に1月は Amazonius、2月は Invictus、3月は Felix、4月は Pius、5月は Lucius、6月は Aelius、7月は Aurelius、8月は自身の名である Commodus、9月は Augustus、10月は Herculeus、11月は Romanus、12月は Exsuperatorius であった。改名の企てはその皇帝の死とともに廃れ、すぐに元の月名に戻った。ユリウス暦で人名が月の名となって残ったのは、結局7月のJulius(Iulius)と8月の Augustus だけだった。 各月の長さヨハネス・ド・サクロボスコ説13世紀の学者ヨハネス・ド・サクロボスコによれば、最初期のユリウス暦での月の長さは、規則的に1か月おきに大の月と小の月がくるようになっていた。サクロボスコによれば、紀元前46年まで使われていたローマ暦の各月の日数は、1月から順に次のとおりである。
この暦の日数はユリウス暦の1年の日数に比べて11日少ない。サクロボスコは、ユリウス暦への改暦の際に2月を除く各月の日数が1日ずつ増やされ、閏日は2月末に付加されるようにした、と考えた。サクロボスコによれば、当初カエサルが制定した各月の日数は次のとおりである。
そして、皇帝アウグストゥスが8月を自分の名に変更するのと同時に8月の日数を増やし、各月の日数を次のように変更した、と考えた。
8月の日数を増やしたのは、アウグストゥスが、自分の名をつけた8月がユリウス・カエサルの名にちなんだ7月よりも日数が少なくなることを嫌ったからだとされる。この結果、大の月と小の月が交互にやってくるというローマ暦の原則が崩された、とサクロボスコは考えた。 実際現在では、ローマ暦末期の各月が大の月、小の月の順に交互にやってきていなかったことがわかっており[注釈 8]、サクロボスコの解釈は誤りとされる。ローマ暦末期、カエサルが改暦をする前から3月・5月・7月・10月はもともと大の月で固定されていた。ローマ暦とユリウス暦では大の月の第15日目・小の月の第13日目は「イードゥース」という特別な名で呼ばれていたため、月の日数への言及がなくても、ある年のある月のイードゥースに関する言及があれば、その月が大の月か小の月かを推測できるのである[注釈 9]。(ローマ暦を参照) ローマ暦末期の各月の日数は、当時の壁に描かれた暦から、おそらく次のとおりである。
サクロボスコの見解は3世紀のケンソリヌスや5世紀のマクロビウスとも食い違い、またユリウス暦初期のマルクス・テレンティウス・ウァロによって記録された紀元前37年の暦とも食い違う。また、前述した1999年にエジプトで発見された紀元前24年の暦ではすでに8月の日付が31日まであり、これとも食い違う[注釈 10]。 新年初日改暦直前のローマ暦は1月1日が新年初日で、これはユリウス暦でも踏襲した。しかし、各地ではユリウス暦の導入後もこれとは異なる日付を新年初日とした。エジプトのコプト暦では8月29日に新年が始まる。いくつかの暦では、アウグストゥスの誕生日9月23日に新年を合わせた。ビザンチン暦はインディクティオに由来して9月1日に始まる。 中世のカレンダーはローマ人がしていたようにそれぞれ28から31日までの日を含む12の縦の列として1月から12月を表示し続けたため、すべての西ヨーロッパ諸国は1月1日を「元日」と呼び続けた。しかし、これらの国のうちのほとんどは12月25日・3月25日、あるいはフランスのように復活祭に新しい年を開始した。 2、3のイタリア都市国家を除くほとんどの西ヨーロッパ諸国は、グレゴリオ暦を採用する以前のまだユリウス暦を使っている間に、新しい年の最初の日を1月1日に移した。以下の表は各国が新年として1月1日を採用した年を示す。
ユリウス暦を使用する正教会→「修正ユリウス暦」も参照
現代の西方教会はグレゴリオ暦を使用している。例外として、東方教会に分類されるがローマ教皇の教導下にある東方典礼カトリック教会の中には、ユリウス暦を使い続けているものがある[10]。 正教会には現代でもユリウス暦を使用するものがある。ただし全ての正教会がユリウス暦を使用しているわけではなく[11]、修正ユリウス暦と呼ばれる、2800年まではグレゴリオ暦と同じ日付となる新暦を使用している教会もある[12]。 20・21世紀ではユリウス暦はグレゴリオ暦より概ね13日遅れとなるため、ユリウス暦を使用する教会では、日付で固定される祭日は13日遅れで祝われる事になる。たとえば降誕祭(クリスマス)については、ユリウス暦の12月25日は20・21世紀では概ねグレゴリオ暦の1月7日に相当するため、グレゴリオ暦1月7日に「12月25日のクリスマス」が祝われる[11]。ただし復活大祭(パスハ)の計算のみは、フィンランド正教会とエストニア正教会を除いてユリウス暦で計算され、全ての正教会で祝日の統一が行われている[12]。
グレゴリオ暦との差前項の通り、現在でも一部ではユリウス暦を使用している。グレゴリオ暦との差は以下の表の通りである。
ユリウス年→詳細は「ユリウス年」を参照
正確に365.25日を1年とする時間単位をユリウス年といい、天文学で広く用いられる。例えば1光年は、真空中の光が1ユリウス年に進む距離である。
脚注注釈
出典
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