源有仁
源 有仁(みなもと の ありひと)は、平安時代後期の公卿。後三条天皇の皇子輔仁親王の第二王子。官位は従一位・左大臣。花園左大臣とも称された。皇族時代は有仁王と称する。 経歴永久3年(1115年)元服。始め白河院の養子となり皇嗣と目されたが、元永2年(1119年)5月に白河院の孫である鳥羽天皇に顕仁親王(後の崇徳天皇)が生まれたことから、同年8月源朝臣姓を与えられて臣籍降下し、直ちに従三位・権右中将に叙任され公卿となる。無位からいきなり三位に叙せられるのは極めて異例であり、嵯峨源氏の源定以来約290年ぶりのことであった。また、この昇進については白河院による有仁の父輔仁親王への配慮であったことが窺われる[注釈 1]。同年、堀河・鳥羽両天皇の乳母藤原光子の希望により、藤原公実と光子の間の娘(源有仁室)と結婚した[2]。なお、同年11月には父・輔仁親王が没しているが、その直前に有仁は権中納言に任ぜられている。 早くも翌保安元年(1120年)には上﨟の中納言7名を越えて権大納言に任ぜられると、保安2年(1121年)従二位・右近衛大将、保安3年(1122年)正二位・内大臣に叙任されるなど急速に昇進を果たす。鳥羽院政期に入っても、天承元年(1131年)従一位・右大臣に昇進し、保延2年(1136年)34歳で左大臣に至り、関白・藤原忠通に次ぐ太政官の次席にまで昇った。また、花園離宮を賜って居住したことから花園左大臣と呼ばれた。 晩年は病気により朝廷への出仕が困難な状況であったといい[3]、久安3年(1147年)2月3日に出家して成覚と号するが、同月13日に薨去。享年45。 人物詩歌・管絃(琵琶・笙)・書に秀で、勅撰歌人として『金葉和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に和歌作品21首が採録されている[4]。詠風は、詞花集頃の典型で伝統的に題意の世界を深め、用語の技巧に冴えを見せている。また、儀式や故実を集大成し、儀式書『春玉秘抄』『秋玉秘抄』を著している。 日記『花園左府記』は80巻にも及ぶものとされる。その逸文は『御産部類記』に天治元年(1124年)3月、5月、6月、天治2年(1125年)4月、5月、6月条が、『園太暦』に大治3年(1128年)正月、永治2年(1142年)4月、康治3年(1144年)4月条が伝わる。 官歴『公卿補任』による。
系図
系譜
脚注注釈出典参考文献
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