團伊能
團 伊能(だん いのう、1892年2月21日 - 1973年2月9日)は、日本の実業家、政治家、美術史家。男爵。 人物・来歴1892年、三井合名会社理事長團琢磨の長男[1]として、福岡県大牟田市に生まれる[2]。 東京帝国大学文学部美術史学科で瀧精一に師事。ハーヴァード大学、ロンドン大学およびリヨン大学に学ぶ。東京帝国大学文学部美術史学科助教授時代の門人に坂倉準三、富永惣一、今泉篤男などがいる。デビュー作『パリ万国博覧会日本館』を設計する機会を坂倉に与えたのは團だった。また、坂倉の初期の代表作で昭和期の代表的な住宅建築である飯箸邸(東京都世田谷区等々力)は、1941年に團の都内別邸として建てられたものである。 1932年8月に福岡市教育事業費として5万円寄付、同年9月に大牟田市教育資金として2万円寄付により1933年6月14日及び1941年5月3日紺綬褒章受章(いずれも飾版)[3][4]。 病気のために東京帝大助教授を辞した後は、国際文化振興会常務理事、 パリ万国博覧会日本代表理事、ニューヨーク万国博覧会日本代表[5]等の仕事以外は社会的な活動のほとんどから引退し、ゴルフ、茶道、文学など風流の世界に生きた。尾崎紅葉、川上眉山、小栗風葉、泉鏡花、森鷗外、夏目漱石、上田敏、永井荷風、岩野泡鳴、二葉亭四迷、島崎藤村、山田美妙、横瀬夜雨、北原白秋、堀口大學などの初版本を所蔵し、自分の子供たちにはこれらの文学者の作品を徹底的に読ませ、必ず感想を言わせる文学教育を施していた[6]。美術品の蒐集家としても知られ、コレクションはウォーナーリストにも記載されている。1944年に池大雅『楼閣山水図』(現在は国宝)などを東京国立博物館に寄贈した。また、1945年の東京大空襲で、重要美術品認定の持仏堂などを焼失した。 1946年5月11日、貴族院男爵議員に補欠選挙で当選し[7][8]、公正会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[9]。1947年、第1回参議院議員通常選挙に福岡県選挙区から日本自由党公認で出馬して当選し[10]、その後、民主自由党に所属。1950年、第2回参議院議員通常選挙でも自由党公認で出馬して2度目の当選を果たしたが[11]、任期途中の1955年1月に、衆議院への鞍替え立候補のため議員を辞職する。しかし、翌月実施された第27回衆議院議員総選挙では、日本民主党から出馬した福岡県第1区(定数5)においてわずか53票差での落選(次点)となった。 実業家としては、ブリヂストン自転車工業(現ブリヂストンサイクル)社長、プリンス自動車工業(現日産自動車)社長、九州朝日放送会長を歴任。1957年には、父が建てた別邸を改装して箱根ハイランドホテルを開業。 1973年2月9日、心不全と肺感染症を併発により神奈川県横須賀市の横須賀市立市民病院で死去、80歳没[12]。死没日をもって従四位から正四位に叙され、銀杯一組を賜った[14]。墓所は文京区護国寺。 家族・親族弟は生物学者の團勝磨[1]。長姉・めいは三井鉱山の社長を務めた牧田環に、三姉・スミは日本石油(現ENEOS)の社長を務めた小倉房蔵に嫁いだ[15]。1932年に結婚した妻・美智子は宮内省大膳頭を務めた上野季三郎の五女[16][17][18]。美智子の次姉・英子が服部金太郎の長男で服部時計店(現セイコーグループ)の2代目社長を務めた服部玄三に[16]、三姉・冨美子が加藤高明の次男で東明火災海上保険(現日新火災海上保険)の取締役を務めた加藤厚太郎に[16][19][20][21]、四姉・米子が佐々木高行の孫で元神宮大宮司の佐々木行忠にそれぞれ嫁いだため[16][22],美智子の実家・上野家を通じて服部家・加藤家・佐々木家は團家の親戚となった[16]。長男の團伊玖磨は作曲家[1]。日産プリンスのCMソング『スカイラインの歌』は伊能の作詞、伊玖磨の作曲で、親子の共作である。長女の朗子(さえこ)はブリヂストンタイヤ(現ブリヂストン)会長石橋幹一郎に嫁した[1][15]。孫は群馬大学教育学部美術専攻教授の團名保紀[1]、建築家の團紀彦(二人は異母兄弟)[1]。曾孫に女優の團遥香(伊玖磨の孫娘[23])。朗子が嫁いだ石橋家を通じて、内閣総理大臣の鳩山一郎、鳩山由紀夫親子も團家の遠縁の親戚となった[15][24]。 系譜
著書訳書
脚注注釈・出典
参考文献
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