Share to: share facebook share twitter share wa share telegram print page

 

削除の復元

削除の復元
小倉にある森鷗外旧居の室内
小倉にある森鷗外旧居の室内
作者 松本清張
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル 短編小説
シリーズ 『草の径』第1話
発表形態 雑誌掲載
初出情報
初出文藝春秋1990年1月
出版元 文藝春秋
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
テンプレートを表示

削除の復元』(さくじょのふくげん)は、松本清張短編小説。『文藝春秋1990年1月号に『草の径』第1話として掲載された。1991年8月の『草の径』単行本化時には収録されず、独立した短編となった[1]

あらすじ

小説家の畑中利雄は、北九州市の工藤徳三郎という未知の人に手紙をもらい、森鷗外『小倉日記』収録の1975年発行『鷗外全集』第35巻に付せられた後記において、明治三十三年十一月三十日の記事「旧婢元来り訪ふ」の箇所で、鷗外が上から和紙を貼って削除した「旧婢元来りていふ。始て夫婿の家に至りぬ」「夫婿は企救郡松枝村字畑の友石定太郎なり」等を引用し、友石定太郎は実際には独身を通しており、鷗外の婢・木村元はなぜ夫婿の家について鷗外に虚言を云ったのか、畑中に質問した。工藤に通りいっぺんの返信後、心残りのあった畑中は、元と友石定太郎の関係から調べ始め、福岡県の宗玄寺を訪れ、元のおばの末次はなと、元・でん姉妹の墓を見つける。すると宗玄寺の住職から手紙が来て、共同墓地の「釈正心童子」と刻された童子の墓について「近辺で一つの風説が以前から横行しております」と、秘密めいた書き方がなされていた。

畑中は私大文学部助手の白根謙吉に調査を依頼する。白根の調査中、畑中は『小倉日記』の記事で明治三十三年四月以降、あたかも鷗外と親戚づきあいのように、木村元の親族が鷗外宅を訪問しているのに着目する。調査から戻った白根は「釈正心童子」の墓碑の写真を示し「明治四十三年八月二日歿」と刻されていることに加え、墓石の裏側が剥ぎ除られたようになっており、俗名と建立者の名が故意に削られていると指摘する。

「釈正心童子」は、鷗外と元のあいだに生れた遺児なのか。白根の推測はつづく。鷗外宅から暇をとった元は、姉のでんおよび夫の久保忠造と同居した。忠造が鷗外にたいして元に嘘を云わせたのは、元と鷗外とが関係あったと睨み、でんに隠れて元を無理強いに自分のものにした忠造が、鷗外を当てこすったのだとみる。当初鷗外は気がつかず、元の言葉に乗って日記にそれを誌したが、あとで気づき、和紙貼りの抹消となった。墓の建立者の名を剥ぎ除ったりしているのは、墓の謎を作り、童子が鷗外の隠し子だという浮説を流すための細工である。久保家の菩提寺の明治三十六年十月の過去帳に、忠造の長男の久保平一が明治三十四年五月二十九日に生まれ、明治三十六年十月に三歳で没したことを見出すが、明治四十三年八月の過去帳には、忠造の届出により、久保平一を「森平一」と訂正し、かつその出生を木村元と改めたことが記されており、畑中の顔色が変わる。

「あらゆる状況を帰納しての、当然の推理です」と云う白根に対し、畑中は声を改めて反論を始める。

エピソード

  • 本作は森鷗外研究家の間に「波紋を投じ」、森鷗外記念館評議員の村岡功は「森姓を冠した幼児(=森清。作中の「森平一」)の過去帳と墓の存在という、事実は否定できない。清張とともに「鷗外の克己心」を信じつつも、絶対的否定の態度もまた採り難い」と述べている[2]
  • 日本近代文学研究者の長谷川泉は、本作の最後の一行について「スリリングな断定という重さを、上手に避けたことになる」と評している[3]
  • 1996年2月に兵頭徳之と兵頭世紀の連名で『鷗外小倉日記・考 - その隠された真相』(私家版)が出版され、兵頭は本作の工藤徳三郎のモデルは自分であるとした。ただし兵頭は、川村正人(作中の「久保忠造」)が鷗外から事実を隠すよう強く依頼されていたと述べ、本作で述べられる説とは異なる[2]

書誌情報

  • 『松本清張全集 第66巻』(1996年、文藝春秋)
  • 『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション』上巻(2004年、文春文庫

脚注

出典

  1. ^ 松本清張記念館館報第12号(表紙)” (PDF). 北九州市立松本清張記念館 (2003年3月). 2023年7月18日閲覧。
  2. ^ a b 村岡功「「まめなりし」婢 木村モト女 -『削除の復元』考-」(『松本清張研究 第三号』(1997年、砂書房)収録)
  3. ^ 長谷川泉「清張・鷗外の虚実皮膜」(『松本清張研究 第一号』(1996年、砂書房)収録)

関連項目

Kembali kehalaman sebelumnya