内田樹
内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 - )は、日本のフランス文学者、武道家(合気道凱風館館長。合気道七段、居合道三段、杖道三段[1])、翻訳家、思想家[2]、エッセイスト、元学生運動家[3]。神戸女学院大学名誉教授。学位は修士(旧東京都立大学・1980年、フランス文学専攻)。専門はフランス現代思想[4]。立憲民主党パートナー[5]。 東京大学文学部卒業。旧東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。 概要高校を中退したが、大学入学資格検定を経て東大に入学、文学部仏文科卒。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。フランス現代思想を専門とし、大学で教鞭を執る。 『ためらいの倫理学』(2001年)以来、エマニュエル・レヴィナスをはじめ思想の簡明な解説や、知的エッセイを数多く執筆。少子高齢化、成熟した資本主義経済の末路への予測から、消費を基盤とした経済システムが終焉を迎えつつあるとし、今後は共同体による相互扶助、共生的な考え方を基盤とした社会を目指すべきだとしている。ネットにおける匿名性の危険性についても、警告を発しており、著書の多くはブログから発信した文章がもとになっている。 映画や武道に関する批評活動でも知られ、自身も合気道や居合道の有段者である。合気道については、大学を退職後、道場兼能舞台である「凱風館」を完成させて、そこで師範として合気道の指導を行っている。 「内田樹の研究室」というブログを運営している[6]。『ためらいの倫理学』は、冬弓舎の内浦亨が内田のサイトのテキストを発見したことから刊行された[7]。書くことの目的が生計を立てるではなく、一人でも多くの人に自分の考えや感じ方を共有してもらうこと」との考えから、ネット上で公開した自身のテクストについては「著作権放棄」の考えを示しており、他人が剽窃によって収入を得ることも容認すると2009年に述べている[8]。一方、講演については謝礼が必要(ノーギャラは仕事のクオリティを認めていない)としている[9]。 来歴東京都大田区下丸子に生まれ育つ[注 1]。父方の祖母のいとこに、参謀本部作戦課長、陸軍大臣秘書官として東條英機の側近だった服部卓四郎がいる[12][13]。 1963年に大田区立東調布第三小学校を卒業。1966年に大田区立矢口中学校を卒業。1966年、東京都立日比谷高等学校に入学[14]。高校2年で成績が学年最下位になり、のち品行不良を理由に退学処分を受けた[15]。家出してジャズ喫茶でアルバイトをするが、生活できなくなり、数か月後に親に謝罪し家に戻った[16]。 1968年10月、大学入学資格検定に合格。1969年、東京大学入試中止の年に京都大学法学部を受験し不合格。駿台予備校を経て、1970年4月、東京大学文科三類に入学。この頃、三里塚闘争に参加する[17]。東大生となってから学習塾のバイトをしだした。バイト代が時給500円(当時)で国立大学の授業料が月額1000円(当時)だったので一日2時間労働するだけで月謝が払えていた。そのため、月謝以外の稼ぎは両親からの自由を求めて借りたアパートの賃貸費用に充てていた。内田が働いていた学習塾は大学生70人で回してたが25%が過激派の大学生だったとしている[18]。 1970年代初頭に学生運動から離脱[3]。1975年3月、文学部仏文科卒業。1975年12月、合気道自由が丘道場に入門し多田宏に師事(大本教教主輔の出口王仁三郎の曾孫弟子に当たる[19])。1976年に4歳年上の女優と結婚している。妻の父親(岳父)は平野三郎。1977年1月、平川克美と共に翻訳会社「アーバン・トランスレーション」を設立[14][20]。 1977年4月、東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程(フランス文学専攻)に入学。入学後も会社経営を続けた。修士論文はモーリス・ブランショ、指導教官は足立和浩。1980年4月、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程に進学。ブランショと影響関係のある哲学者として、エマニュエル・レヴィナスの名を初めて知る。たまたま手にとった『困難な自由』の最初のテクスト「倫理と精神」を読んで衝撃を受け、「この人についてゆこう」と決心する[14]。 1982年4月、東京都立大学人文科学研究科博士課程を中退。東京都立大学人文学部助手(フランス文学専攻)となる[14]。1985年9月、エマニュエル・レヴィナスの訳書『困難な自由』を国文社から刊行。1987年9月、レヴィナスに面会[14]。1989年に離婚[21]、娘の内田るんと父子家庭になる[22][23][注 2]。 1990年、神戸女学院大学文学部総合文化学科助教授となる[14]。1997年2月、観世流能楽師の下川宜長に入門、仕舞と謡を習い始める。2001年3月、初めての単著となる『ためらいの倫理学』(冬弓舎)を刊行。2009年、能楽師小鼓方大倉流の高橋奈王子[24]と再婚[25]。同年11月、『日本辺境論』(新潮新書)を刊行[注 3]。 2010年7月に平松邦夫大阪市長のもとで市長特別顧問を務める[28]。2011年3月、神戸女学院大学教授を退職[29]。同大学名誉教授[30]。同大学の合気道部顧問を継続して務める[31]。同年4月、第3回伊丹十三賞を受賞[32][33]。同年11月、神戸市東灘区住吉本町に道場兼能舞台の「凱風館」が完成[34][35][注 4]、館長を務める[36]。 2015年4月、京都精華大学人文学部客員教授に就任[37][4]。 著書単著
共著・編著
翻訳
ダウンロード・コンテンツ
USTREAMアーカイブ
出演映画ラジオ
ウェブ番組
主張学生運動関連1970年初頭に学生運動離脱の波が起きる。前日までアジ演説をしていた新左翼学生たちが翌朝に消失し、身綺麗な身なりに整えてからキャンパス生活へ戻ってきた。学生運動を離脱した彼らの真意を問うと「なんとでも言ってくれ。おれは東大出という看板を棄てるわけにいかないんだよ」と言われて納得している。彼ら東大生の学生運動家は一流企業や中央省庁に入っていった。内田はこのタイプの学生運動家は好きであると述べている[3]。逆に、「学生政治運動が現実的にほとんど無意味だということが分かっても、「革命」が幻想だということが分かっても、なお党派や組織にしがみついている」タイプは当時から苦手であった。内田は、卒業後を考えても現実的には無意味である学生運動に関する葛藤を感じないタイプの彼らは、有機農業、市民運動家、田舎ペンション経営理念、ジャズコンサートのプロデュースなど、地方の「ちょっと毛色の変わった教養人」みたいなポジションを卒業後にしていると主張している。内田も1970年代初頭に学生運動から足を洗ったが、綱領や党派の名で他者を罵倒や負傷させた学生運動時代から方向転換したことから、自身には説明責任があると考えている[3]。 政治関連自由民主党と公明党による連立政権である安倍内閣に対して、独裁[45]という強い表現を使って反対の立場を表明している。日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のインタビューで、日本「共産党に期待することは、マルクスの教えのもっとも本質的なところ、すなわち『ものごとを根底的にとらえる』という意味でラディカルな政党であってほしいということです」と述べている[46]。 月刊日本2017年5月号「日本人にとって天皇とは何か」中で天皇制を奉じる旨明言した[47]。 2019年3月27日、公式Twitterにて「新元号に現政権に阿る解釈を許す文字が含まれていた場合には、僕は以後二度と元号を使いませんし、『元号』という語そのものを使わないことにします」とツイートした[48]。同年4月2日、自らの公式ブログにて「元号は、天皇制に深くかかわる国民文化的な装置」と述べ、「令和」という元号については安倍政権のコアな支持層である日本会議の支持層である国粋主義者へのイデオロギー的配慮で国風にこだわったものであると評した[49][50]。 憲法観と自衛隊への立場憲法9条の改正には反対であるが、自身の憲法観と自衛隊についての考え方は「いわゆる『護憲派』のそれとはだいぶ違っている」という。憲法九条と自衛隊を「双子的制度」と呼び、この2つは「アメリカのイニシアティヴのもとに戦後日本社会が狡知をこらして作り上げた『歴史上もっとも巧妙な政治的妥協』の一つである」、「憲法九条と自衛隊が『リアル』に拮抗している限り、日本は世界でも例外的に『安全な』国でいられると私は信じている」と述べている[51]。共著に『9条どうでしょう』(毎日新聞社)がある。 『すばる』2007年1月号で高橋源一郎、矢作俊彦と対談した際、矢作の「有事に現自衛隊法では自衛隊員は銃を撃つこともできない、こういった「あいまいさ」は関東軍と同様で危険だ」という意見に対し、「日本人は原理原則が行動原理ではないので、憲法もあいまいなままでよい」と主張した。 教育問題における立場教育行政について、政治や政治家は教育に関わるべきではないとする立場をとっている。学校教育という制度が、非常に惰性の強い制度であって、急激な変更はなじまないと考えている。つまり、政治家が替わるごとに教育に急激な変化が起こるのは、決して良いものではないという考えである。たとえば、大阪市長特別顧問に就任した際の記者会見において、平松市長に対してこう述べている。「私が市長にお願いしたいことが一つあります。一つだけです。それは地方自治体の首長は教育行政に関与して欲しくないということです」[52]。この“政治が教育行政に関わりすぎるべきではない”という点において、大阪維新の会の教育政策には批判的である[注 5]。 公立中学校での武道の必修化について公立中学校での武道の必修化については反対の立場である[53]。 部活動について日本の学校における部活動を「文化資本の民主的分配」という側面から肯定的に捉えており[54]、昨今問題視されている「ブラック部活」や教員の長時間労働については解決されるべきであるとしながらも[54]、その一環として政府が進める部活動の地域移行には疑問を呈している[54]。これに前後して部活は教育者の仕事であり、教員を増員することで今後も学校が担うべきとの見解もTwitterで示している[55]。これに対しては部活動の実態がそもそも内田の掲げる理想からかけ離れている現状[56]、教育課程外である部活動を維持する為の教員増員の困難性[57]などから多くの反論が寄せられた。内田はこれらについて個別の反論は行っていないが、後日のTwitterで教員志願者を増やす方法を開陳し[58]、それでも教員不足が解消されない場合は自らの不明を恥じて以後教育については一切発言をしない旨表明している[58]。 「市民的成熟」と国民国家の関係論内田は、国民国家は擬制であり本質的に恣意的な構築物であると考えているが、国民国家がきちんと機能するためには、「それがあたかも自然物であるかのように、天来のもの、神授のものであるかのように、ふるまってみせる必要」があり、それができることが市民的成熟の1つの条件であると思っているという。国旗や国歌に対しても「適切にふるまう」ことができるのが成熟した国民国家成員の条件であるとしている。「国民国家とは何か」について各人が自己責任において思量することこそが国民国家成員にとっては不可避の義務であり、それは自分の代わりに他人に考えてもらうことではないし、他人に命令されることでもないと内田は考えているという。そして、「国民国家は擬制であり、私事である」ということをわきまえた上で、なおかつ国民国家以外の選択肢がないときに、「これをどのように気分のよいものにすべきか、とまずは手元足元の工夫から始める人」のことを内田は「成熟した市民」と呼んでおり、内田によればそれが「標準的な『市民的成熟』の階梯」であるという。「この健全な市民への成熟の行程」への妨げになるがゆえに、内田は国旗国歌に対する業務命令や法的強制に原則的につねに反対してきたのだという[59]。 東北論自身は四代前が庄内藩士、三代前が会津藩士であり(いずれも戊辰戦争の敗者側)、東北人の屈託は内田家の家風であるという。近代日本を全部壊した第二次大戦の軍部上層部に東北人が多いことから、東北人の戊辰戦争に対するルサンチマンの影響を指摘している[60]。また日本の言論で最強であるのは東北寒村的な「貧農の苦しみがお前らにわかるか」といったような「コロキアルな身体実感をもつ言葉と政治的幻想が癒合したタイプの言説」「『やられたらやり返せ』という中学生的マチスモと市場原理主義、弱肉強食の能力主義」 であり、都市の左翼的知識人やリベラル派はそれに対抗する力を持っていないとする[61]。 学力低下論同学齢集団内の競争というシステムが、「他人のパフォーマンスを下げる」という相対優位の戦略を取らせると主張している[62]。また、日本の子どもたちが学習意欲を失ったのは、「勉強すれば、金になる」という利益誘導のロジックが学校教育を覆い尽くし、親・教師・メディア・政治家もそのロジックを主張したためであると述べている[63]。 地球温暖化問題について温暖化と二酸化炭素の間の因果関係はまだ科学的には証明されていない、と2007年に述べている。氷期と間氷期を交互に経験する地球は現在は「間氷期」にあり、いずれは氷期が訪れて動植物が激減すると内田は考えているため、「温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないか」と考えているという[64]。 音楽の趣味「ナイアガラー」1976年3月に野沢温泉スキー場で「楽しい夜更かし」を聴いたのが、大瀧詠一の音楽を最初に経験した機会であったという。以後37年間、内田は忠実な「ナイアガラー」として過ごしたと2013年に述べている[65][注 6]。 内田は「ナイアガラー」の語義を次のように説明している。「『ナイアガラー』というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。」「ナイアガラーは『日本のフリーメイソン』であるから、どこで知り合っても『私、ナイアガラーなんです』とカミングアウトすればたちまち百年来の知己となることができる。これは他のミュージシャンにはあまりないことである。」[66][67] 2005年8月19日に大瀧と初めて会う[65][注 7]。2007年から2013年までの間、「ラジオデイズ」のオーディオ・コンテンツとして大瀧との座談会を平川克美らと共に計6回行い、大瀧の自宅兼スタジオである福生スタジオに招かれるなど親交を深めていった[68]。 言語教育論「読解力というのは目の前にある文章に一意的な解釈を下すことを自制する、解釈を手控えて、一時的に『宙吊りにできる』能力のことではないか」と主張しており、「『読解力を上げるためにはこれがいい!』というようなこと言い出した瞬間に、他ならぬそのような発想そのものが日本人の知的成熟を深く損うことになる」としている[69]。2018年の時点では現状を「今の日本社会は、自分自身の知的な枠組みをどうやって乗り越えていくのか、という実践的課題の重要性に対する意識があまりに低い。低いどころか、そういう言葉づかいで教育を論ずる人そのものがほとんどいない。むしろ、どうやって子どもたちを閉じ込めている知的な枠組みを強化するか、どうやって子どもたちを入れている『檻』を強化するかということばかり論じている」と批判している[69]。精神科医が軽々しく診断を下さないようにしているのと同じように、急いでシンプルな解を求めないことこそが重要であると主張している[69]。また、内田がそのように考えるに至ったのは、エマニュエル・レヴィナスの著書を翻訳している内に心の成熟が必要であると気付き、自身も心が成熟する内に意味が分からなくても洋書を読めるし、何を書きたいのかわからないままにでも書けるようになったと話している[69]。 若者論オタク嫌い。「「オタク」とか「萌え」とか「やおい」いうのは私がもっとも苦手とする領域」「こういう子ども中心のアンダーグラウンド的なネットワーク活動」「「おのれ自身を位置づける歴史的文脈」に反応する知的アンテナそのものが「オタク」の諸君にはほとんど構造的に欠落している」「ほとんど自己言及だけで構築されている自閉的な文化活動」「自分の立ち位置について客観的に語ることのできない人間と話をするのはすごく消耗する。だから、私は「オタク」が苦手なのである。」と表明している[70]。にも関わらず『ONE PIECE』や『鬼滅の刃』の批評のオファーが来ることがあり困惑している[71]。 2013年1月、「日経トレンディネット」に掲載された原田曜平との対談「日本企業は若者とどう付き合うべきか?」にて「私は今の30代後半から45歳前後の世代が、申し訳ないですが、“日本最弱の世代”と考えています」と発言[72]。その一方で今の20代とは仲がいいと続けた[72]。 脚注注釈
出典
外部リンク
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