ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ
ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ(アラビア語: حمد بن عيسى آل خليفة, ラテン文字転写: Hamad bin Isa Al Khalifa[1], 発音:Ḥamad bin ʿĪsā Āl Khalīfa(ないしはKhalīfah), ハマド・ビン・イーサー・アール・ハリーファ、1950年7月15日 - )は、初代バーレーンマリク(国王、在位:1999年3月6日 - )。ハリーファ家の君主としては第11代に当たる。バーレーンの政体を絶対君主制から立憲君主制に移行させ、議会政治の復活や女性参政権の確立など、大規模な民主化政策を断行した。 名称実名のハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファは、「ハリーファ家のイーサー(口語発音:イーサ)の子ハマド」の意であり、本人のファーストネームである個人名(イスム)はハマドとなる。 称号については、即位直後は伝統的な君主号である「首長(アミール、Amir/Emir)」を用いていたが、2002年に国名がバーレーン国 (State of Bahrain) からバーレーン王国 (Kingdom of Bahrain) に変更されたことで「国王(マリク、Malik)」となった。 イスラーム圏では通常、貴人や年長者・識者に対して、尊称であるシェイク(アラビア語発音:シャイフ)を名前の前に付けて呼ぶが、ハマドの場合はより高位の国王号を有するため付さないのが普通である[1]。 略歴以下の略歴はEmbassy of the Kingdom of Bahrainによる[2]。
民主化政策
1971年のイギリスからの独立後のバーレーンは、1975年に議会を停止し絶対君主制を形成していった。これに対し、1999年3月、首長に即位したハマドは大規模な民主化政策を断行した。 まず1999年6月、特赦令を発布し政治犯の釈放と国外追放処分者の復権を行った。2001年には治安維持法と治安裁判所を廃止した[3]。 最も大きな改革は、2002年の憲法改正である。これによりバーレーンは王制に移行し、二院制の議会が設立され男女平等の普通選挙制も確立された。この時点でハマドの地位も首長から国王へと変化した。これらの民主化に向けた政策は欧米からは高く評価されている[4]。 一方では反ハマド政権の市民数百人を政治犯として逮捕・拘束・虐待などの弾圧をしており[5][6]、度重なる市民デモによる抗議やアムネスティなどの人権擁護団体から政治犯の釈放を求められている[7][8][9][10]。 人物地位憲法改正後の現在のハマド国王の権限は以下のようなものである。国王位はハリーファ家の世襲制と憲法に規定されている[11]。
信仰イスラム教スンナ派を信仰する。しかし、国王及び内閣の多数のポストを占めるハリーファ家がスンナ派である事実は、シーア派住民の割合が高いバーレーンにおいて治安上の不安要素になっており[4]、シーア派の反政府デモ・抗議集会と治安部隊の衝突が度々発生している[12]。 その他趣味は鷹狩・ゴルフ・釣り・テニスなど[2]。ワールドカップへの初出場を目指すサッカーバーレーン代表には国を挙げた援助を行っている[13]他、中東地域では初のF1誘致にも成功し、自身のスポーツへの興味を国威高揚に役立てている。また皇太子時代から設立・発展に携わり、現在も最高司令官を務める国防軍への思い入れは強い[2]。 バーレーンで発行されている10ディナール紙幣に肖像が使用されている。 家族第一夫人はいとこに当たるサビーカ王妃であり、他にも妻がいる。子女は5男1女の6人がいる。 脚注
関連項目外部リンク
|