ジェフ・フランコーア
ジェフリー・ブランドン・フランコーア(Jeffrey Brandon Francoeur, 1984年1月8日 - )は、アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ出身の野球解説者、元プロ野球選手(外野手)。右投右打。現在はFOXスポーツ専属のMLB解説者を務めている。 経歴プロ入り前1984年1月8日にジョージア州アトランタで生まれる。父親はボストン・レッドソックスのファンで、ジェフはデール・マーフィーとカル・リプケン・ジュニアに憧れていた[2]。4歳の時に野球を始め、6歳の時にアメリカンフットボールを始めた[3]。 10歳の頃にイースト・カッブ・ベースボール・プログラムでプレイをするが、12歳の時に一時燃え尽き野球を一時辞めたが、再びプレイ[3]。地元ジョージア州のパークビュー高校へ進学し、野球やアメリカンフットボールで活躍。アメリカンフットボールでは1年生の時に州大会優勝に貢献[3]。野球では2年連続で州大会優勝に導き、高校通算で打率.443、55本塁打、164打点を記録[4]。 フットボールでクレムゾン大学やフロリダ大学などから奨学生のオファーが来ていたが、アトランタ・ブレーブスはフランコーア獲得の手応えを掴んでいて、ドラフト1週間前には球団スカウトがフランコーアの自宅で会談をした[3]。フランコーアはドラフトでブレーブスより指名順位が前の22球団に対し、指名されないように高額な契約金とクレムゾン大学進学希望を伝えた[4]。 プロ入りとブレーブス時代2002年6月4日にMLBのドラフトでブレーブスから1巡目(全体23位)指名された[5]。球団は当初用意した契約金は140万ドルで、数週間後に球団は200万ドルまで金額を上げたが、フランコーアは240万ドルを要求[4]。球団はフランコーアをターナー・フィールドへ招待し、選手と一緒に練習させるという契約に漕ぎ着ける常套手段を駆使し、7月8日に契約金220万ドルで契約[4][5]。 マイナーリーグでは早くから将来有望とみられていた。ベースボール・アメリカ誌選定の「30球団有望株ベスト100」では、入団2年目の2003年に95位、その後2004年に27位、2005年に14位と、順位が着実に上昇している[6]。 2005年7月7日のシカゴ・カブス戦でメジャーデビュー。勝負強さと強肩でファンに衝撃を与え[7]、13補殺はリーグ2位で7月7日のメジャーデビュー以降ではメジャー最多となった[8]。チームの14年連続となる地区優勝に貢献。出場試合数は70だったが、新人王投票で3位となった。 2006年開幕前の3月には同年から開催されることになった第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のアメリカ合衆国代表に選出された[9]。 シーズンでは極端な早打ちのため四球が少なくシーズン初四球は5月9日のフロリダ・マーリンズ戦だった[10]。全162試合に出場し、20本塁打・100打点を記録した。フランコーアより若くシーズン100打点を達成したのは球団史上ハンク・アーロンとエディ・マシューズの2人しかいない[11]。 2007年にはより打席で辛抱強くなり、打率・出塁率ともに3分以上上昇。2年連続の100打点も記録した。前年に続き2年連続で全162試合に出場し、シーズン終了時点で326試合連続出場し、その時点で連続試合出場を同一チームで継続中の選手としてはグレイディ・サイズモアの354試合に次ぐMLB2位となった[8]。 2008年4月にサイズモアの連続試合出場が途切れ現役最長となったが、5月20日のニューヨーク・メッツとのダブルヘッダーの2戦目を欠場。2005年10月1日からの連続試合出場が370で途切れた[12]。6月の打率が.206など不調に陥り、7月4日にはマイナー降格。フランク・レンGMは3週間以内に昇格させるとしていたが、AA級ミシシッピ・ブレーブスで3試合で13打数7安打を記録し、3日後の7月7日にメジャーへ復帰[13]。シーズン152試合に出場したが打率.239、11本塁打は自己ワーストとなった。 メッツ時代2009年7月10日にライアン・チャーチとのトレードで、メッツに移籍した。両チームの間でトレードが行われたのは、1996年11月以来のことだった[14]。 メッツ移籍後はシーズン閉幕までに75試合に出場し打率.311、10本塁打とまずまずの活躍を見せた。 レンジャーズ時代2010年8月31日にホアキン・アリアスとのトレードで、金銭とともにテキサス・レンジャーズに移籍した。移籍後は15試合の出場で、打率.340、2本塁打、11打点の活躍でチームの地区優勝に貢献。チームはワールドシリーズまで進出する健闘ぶりを見せたが、最後はサンフランシスコ・ジャイアンツに敗れた。一方のフランコーアはこの年のプレーオフで通算24打数3安打、打率.125と振るわなかった。オフにFAとなった。 ロイヤルズ時代2010年オフにカンザスシティ・ロイヤルズと1年250万ドルで契約した。 2011年8月18日に翌年から2年1350万ドルで契約を延長した[15]。この年は5年ぶり本塁打数が20本に届いた。また自己ベストとなる47二塁打、22盗塁を記録した。 2012年は一転して低打率に終わったが、BABIPが前年の.323から.272にダウンしており、それがほぼそのまま打率に反映された[16]。 ジャイアンツ時代2013年7月9日、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍した。8月20日にDFAとなり、22日に自由契約となった[17]。 パドレス時代2014年1月6日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだ[18]が、3月22日に自由契約となり[19]、3月25日にサンディエゴ・パドレスとマイナー契約を結んだ[20]。傘下のAAA級エル・パソ・チワワズで開幕を迎え、98試合に出場。打率.294、15本塁打、60打点、10盗塁と結果を残し、7月23日にパドレスとメジャー契約を結んだ[21]。8月11日にDFAとなり[22]、8月13日にマイナー契約となった。オフの10月にFAとなった[23]。 フィリーズ時代2014年11月13日にフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結ぶ。 2015年4月5日にメジャー契約を結び40人枠入りする。同年11月2日にFAとなった[24]。この年は外野のレギュラー格で起用され、119試合に出場し、打率.258、13本塁打、45打点という成績を残し、通算150本塁打を達成したが、選球眼のお粗末さは改善されておらず、出塁率は2012年から4年連続で3割未満だった。守備では右翼手をメインに守った(85試合)が、5失策、守備率.965、DRS-5という低レベルな成績に終わり、ゴールドグラブ賞を獲得した頃の守備力は見る影もなかった。他には左翼手も20試合で守ったが、DRS-6だった。投手としても1試合、2.0イニングに投げ、3四球、1奪三振というピッチングを見せた。 ブレーブス復帰2016年2月21日、ブレーブスとマイナー契約を結び、同年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった[25]。3月29日にメジャー契約を結び、アクティブ・ロースター入りした[26]。 マーリンズ時代2016年8月24日、ブレーブス、マイアミ・マーリンズ、テキサス・レンジャーズ間での三角トレードによって、マット・フォーリーとの交換でマーリンズに移籍した[27]。オフの11月3日にFAとなった[17]。 現役引退後2017年5月に現役引退を表明し、6月よりFOXスポーツ専属のMLB解説者となった[28]。 選手としての特徴
三振が多く四球が少ない、俗にいうフリースインガーである。
守備面では強肩が特徴で、右翼の定位置からノーバウンドで三塁のスタンドに飛び込む悪送球をしたことがある[29]。2005年には70試合の出場で13補殺を記録。2007年は両リーグ最多タイの19補殺を記録し、初のゴールドグラブ賞を受賞した。2011年9月7日の試合ではマイケル・テイラーの右前への打球を補殺で打ち取り、「右ゴロ」を記録した。 人物ベーコン・チューズデー2012年4月10日、オークランド・アスレチックス私設応援団のBleachersによるベーコン・チューズデーという第2回目のイベントがオー・ドットコー・コロシアムで開催された。アウェーゲームで相手チームの応援団のイベントだが、フランコーアがスポンサーを務めた[30]。彼らにピザ20枚と、サイン入りバットをサプライズプレゼントしている[31]。 詳細情報年度別打撃成績
年度別投手成績
年度別守備成績
表彰背番号
代表歴脚注
関連項目外部リンク
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