いしの ようこ(本名及び旧芸名:石野 陽子(読み同じ)[2]、1968年〈昭和43年〉2月20日[3][2] - )は、日本の女優[3][4]、歌手[4]、コメディエンヌ[4]。
兵庫県出身[3][4]。芦屋市内の公立中学校→甲子園学院高等学校[5]→堀越高等学校に転入・卒業。グランドスラム所属[6]。姉は女優・歌手の石野真子[1]。妹は女優・タレントの宝乃純。
来歴
1985年に『テディーボーイ・ブルース』でアイドル歌手としてデビュー[4][注釈 1]。
「アイドル・石野真子の妹」ということでデビュー時から注目を浴びていた[注釈 2][1]。
『セーラー服通り』への主演や『志村けんのだいじょうぶだぁ』での志村けんとの息の合った夫婦コントでバラドルとして人気を博す[1][注釈 3][注釈 4]。
2003年の『てるてる家族』では、子供時代にフィギュアを習っていた経験を活かしてフィギュアスケートのコーチを演じ[5]、2020年の『おちょやん』では芝居茶屋の女将役のアドリブが話題となった[5]。
Vシネマでは『ミナミの帝王』シリーズに出演していた。
エピソード
子供時代
芦屋市でビーズ製ハンドバッグの製造会社を経営する父、母、3姉妹の次女(姉・石野真子は7歳上、妹・後の宝乃純は6歳下)として育つ[5]。当時は広い2階建ての邸宅と広い庭園がある裕福な家庭で育った[注釈 5]。生まれつき体が弱く幼稚園を休みがちで性格も内気だったため、当時は飼い犬のセント・バーナードが一番の友達で、よく一緒に庭で遊んでいた[5]。
小学1年生の頃、虚弱体質の改善を願う両親が知人に相談したことで、フィギュアスケートを習い始めた。3ヶ月後に出場した大会で優勝したことから強化選手に選ばれ、中野園子[注釈 6]に師事[5]。以降毎日朝練をしてから学校に行き、帰宅後から夜遅くまで練習漬けの日々を送った。大阪のリンクまて遠征することも多く、当時はのんびりできる日曜の午前中にテレビを観るのが唯一の楽しみだった[5]。
その後母は芸能界入りした真子の付き添いで東京に訪れて不在がちになり、家事を手伝わざるを得なくなったため中学1年生の時にフィギュアを辞めた[5]。中学生の頃から春や夏の長期休暇を利用して姉が暮らす東京に遊びに行った。当時の将来の夢は、ヘアメイクアーティストだった[注釈 7]。
アイドル歌手としてデビュー
上記の通り観客がいるフィギュアの大会に出ていたが、普段人前に出ることは得意ではなかった[5]。高校1年生の時、真子の出演ドラマの撮影現場を見学するとスタッフから誘われ、姉に背中を押されて通行人の役で出演[5]。これを見た(当時の)事務所関係者にスカウトされ、当初断ったが根気よく説得されて芸能界入りを決めた[注釈 8]。
デビュー準備のため高校2年生の頃に上京し、堀越高等学校に転入した[5]。千代田区の所属事務所近くの2DKのアパートで、しばらくはサポート役の事務所スタッフと同居生活を送った[5]。高校3年生でデビューしてからは、寝る間も休日もほとんどないほど多忙になった。歌は苦手だったが、デビュー時に社長から「レコード会社を決めてきたから」と突然告げられ、歌手業をすることになった[5]。同期デビューのアイドルたちとは皆忙しかったため、堀越高校や仕事場で会うとお互いに励まし合い、ライバル意識はほとんどなかったという[5]。
志村けんとのコント
10代後半、ある旅番組で人気コメディアンの志村けんと共演し、ロケバスで雑談すると彼から「お前、おもしれえな」と言われた[5]。これがきっかけで後日、志村が出演するコント番組『ドリフ大爆笑』にゲストとして招かれ、言われるがまま泥棒コントに参加。収録後、志村から新番組『だいじょうぶだぁ』のレギュラーに誘われたが、自信がないため断ろうとした。志村から「勉強だと思って3ヶ月(1クール)だけでいいから」と説得され、出演が決定した[注釈 9]。
『だいじょうぶだぁ』開始直後は、1クールだけのゲスト気分で気楽にコントに参加した[5]。しかし3ヶ月経っても誰からも「今日で終わりです」とは言われず、出演が続いたことで「期限付きの出演じゃなかった」と気づいた。「お気楽にやっていてはダメだ」と危機感を覚え、コントへの向き合い方や番組での自分の立ち位置に悩み始めた[注釈 10]。以降本腰を入れてコントに取り掛かると体当たりでやったことが周りから面白がられるようになり、少しずつお笑いの感覚を掴んでいった[5]。
約5年間出演した『だいじょうぶだぁ』の降板後、『志村けんはいかがでしょう』(1993~1995年)にもレギュラー出演したが、番組終了後はコントからしばらく遠ざかった。その後10数年ぶりに再会した志村の依頼を受け、2012年の舞台『志村魂』に参加して久々にコントを披露し、3年連続で出演した[5]。ちなみに志村けんとは偶然にも誕生日が同じ(2月20日)である。そして志村はかつていしのが恋人であることを公言していた[7]。
本人の中ではコントと一般的な芝居にほとんど違いはなく、どちらの台本も同じように読んでセリフ覚えなどをしている[注釈 11]。ある時志村から、「コントの掛け合いの間(ま)だけは教えられるものではなく、その人の経験と感性から生まれるもの。お前は絶妙の間を持っていて、一緒にコントをやるとそれが気持ちいい」と褒められたことがある[5]。
人物
血液型はAB型[3]。
特技はフィギュアスケート[5]。趣味はゴルフ[5]、日曜大工。
幼い頃からの犬好き(特に大型犬が好き)である。子供の頃は「バズ」と名付けたセント・バーナード、20代の頃は「バーキン」と名付けたフラットコーテッド・レトリーバーをそれぞれ飼い犬として可愛がっていた[5]。2015年頃に妹の飼い犬が生んだ2匹のビション・フリーゼを引き取った[5]。
堀越高校時代は、本人を含めた同級生に「ようこ」が複数人いた(長山洋子、南野陽子[注釈 12])ため、本人曰く「仲間内での愛称問題が勃発した」という[5]。話し合った結果、同級生の「ようこ」で一番早く芸能界デビューした長山が自動的に「ようこ」になり、南野は「みなみのちゃん」、本人は「ヨースケ」で呼び合うことが決まった[注釈 13]。
30代の終わり頃にゴルフを通じて知り合った一般男性と密かに交際を始め、ほどなくしてお互いに納得した上で事実婚の関係となった[5]。本人は、「結婚という形にあまり魅力を感じない。結婚しなくても好きな人と一緒にいることはできる」との考えを持つ[注釈 14]。その後2019年7月29日に放送された「人生イロイロ超会議」にて、1歳年下の男性と事実婚であることを明かした[8]。現在はこのパートナーと共に都内の一軒家で暮らしている[5]。
『ゴジラvsデストロイア』で共演した辰巳琢郎や林泰文らは、いしのについて明るい人物と評している[9][10]。同じく共演者の大沢さやかは、いしのは同作品のキャンペーンの移動中はすぐに眠って体力を温存していたと証言しており、タフな人物であると感じたという[11]。
出演
テレビドラマ
Vシネマ
- てやんでいBaby(1996年)
- ミナミの帝王13 「詐欺師潰し」(1996年)
- ミナミの帝王14 「銃撃の復讐」(1997年)
- ミナミの帝王15 「堕ちる女」(1998年)
- ミナミの帝王16 「偽装結婚」(1995年)
- ミナミの帝王17 「劇場版VII・先物取引の蟻地獄」(1996年)
- ミナミの帝王18 「劇場版VIII・詐欺師の運命」(1996年)
- ミナミの帝王19 「劇場版IX・保険金横領」(1997年)
- ミナミの帝王20 「劇場版X・待つ女」(1997年)
- ミナミの帝王21 「スペシャル劇場版・ローンシャーク・・・追い込み 」(1995年)
- ミナミの帝王22 「特別編 密約」(1996年)
- ミナミの帝王23 「長編版1〜5」(1997年)
- ミナミの帝王24 「嘆きのニューハーフ」(1998年)
- ミナミの帝王25 「消えない傷跡」(1999年)
- ミナミの帝王26 「劇場版XI・追憶」(1998年)
- ミナミの帝王27 「劇場版XII・逆転相続」(1998年)
- ミナミの帝王28 「破産・金融屋殺し」(1999年)
- ミナミの帝王29 「システム金融」(1999年)
- ミナミの帝王30 「アリバイ証明の罠」(1999年)
- ミナミの帝王31 「劇場版XIII・リストラの代償」(1999年)
- ミナミの帝王32 「劇場版XIV・借金極道 」(1999年)
- ミナミの帝王33 「劇場版XV・商工ローン-保証人の落し穴」(2000年)
- ミナミの帝王34 「トイチの身代金」(2000年)
- ホステスNo.1 再建屋みなみ(2000年) - 北斗みなみ 役
バラエティー番組
他多数
映画
Webドラマ
舞台
- 劇団ノーティーボーイズ『裏★HAPPY』(2003年)
- 劇団ダンダンブエノ『バナナが好きな人』(2004年)
- 志村魂7 (2012年)
- 久ヶ沢牛乳Presents『A HALF CENTURY BOY』(2012年)
- 志村魂8 (2013年)
- 悪名(2014年) - お絹 役
- 悪名 The Badboys Return!(2016年)[20]
ラジオドラマ
- カフェテラスのふたり 「幻の動物園」(1988年2月15日 - 26日、NHK-FM)
- FMシアター 「北千島女工節異聞」(2001年4月14日、NHK-FM) - 房江 役[21]
- 特集オーディオドラマ 「おやつのいくさ」(2020年8月12日、NHKラジオ第1 / 2020年8月15日・22日、NHK-FM) - 凛子 役[22]
CM
ゲーム
ミュージックビデオ
音楽活動
シングル
#
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発売日
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タイトル
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B面
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規格
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規格品番
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徳間ジャパン/ジャパンレコーズ (石野陽子 名義)
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1st
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1985年4月25日
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テディーボーイ・ブルース
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さよならのバースデー
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EP
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7JAS-28
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2nd
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1985年8月25日
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雨のチャペル通り
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涙のポニーテイル
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EP
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7JAS-39
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3rd
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1985年11月25日
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ロマネスク・ヨコハマ
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天使になりたい
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EP
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7JAS-50
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4th
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1986年5月25日
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グッバイ・ブルーサーファー
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スクールリングにKISS
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EP
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7JAS-63
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5th
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1987年7月25日
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失われた夏
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さよならの関係
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EP
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7JAS-85
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6th
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1988年5月25日
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ロマンティック神楽坂
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五月雨は涙
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EP
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7JAS-103
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8cmCD
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10JC-295
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7th
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1989年6月25日
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KISSまで待てない -MY WORLD-
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ジェラシーには鍵を
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EP
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PS-203
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8cmCD
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10JC-432
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アルバム
オリジナル・アルバム
#
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発売日
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タイトル
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規格
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規格品番
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徳間ジャパン/ジャパンレコーズ (石野陽子 名義)
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1st
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1985年6月25日
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Boys & Girls
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LP
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28JAL-3012
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CT
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28J-2012
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CD
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32JC-128
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ミニ・イメージ・アルバム
#
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発売日
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タイトル
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規格
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規格品番
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徳間ジャパン/ジャパンレコーズ (石野陽子 名義)
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1st
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1985年12月21日
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ピンクのラブソング
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LP
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22JAL-3033
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ベスト・アルバム
#
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発売日
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タイトル
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規格
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規格品番
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徳間ジャパン/ジャパンレコーズ (石野陽子 名義)
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1st
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1986年6月25日
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ALL THAT YOHKO
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LP
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28JAL-3055
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CD
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32JC-160
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2nd
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1986年10月25日
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YOHKO INDEX
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CD
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27JC-175/6
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3rd
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1989年6月25日
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ALL THAT YOHKO KISSまで待てない -MY WORLD-
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CD
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32JC-435
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4th
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2004年12月22日
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GOLDEN☆BEST 石野陽子
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CD
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TKCA-72795
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タイアップ一覧
曲名
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タイアップ
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収録作品
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テディーボーイ・ブルース
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セガ『テディーボーイ・ブルース』イメージソング
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シングル「テディーボーイ・ブルース」
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KISSまで待てない -MY WORLD-
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CX系『志村けんのだいじょうぶだぁ』エンディング・テーマ
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シングル「KISSまで待てない -MY WORLD-」
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脚注
注釈
- ^ 同期は本田美奈子、森川美穂、中山美穂、南野陽子、斉藤由貴、井森美幸など。
- ^ 『テディーボーイ・ブルース』が売野雅勇と芹澤廣明の作詞・作曲コンビというところからも力の入りようがうかがえる。
- ^ 姉の石野真子も『ドリフ大爆笑』や『志村けんのだいじょうぶだぁ』でゲスト出演経験が幾度かある。
- ^ 海外でも人気があり、映画『ゴジラvsデストロイア』のキャンペーンで台湾を訪れた際も、志村との番組についての質問が多かったという[4]。
- ^ 自宅に会社が併設され、居住スペースと工房などを合わせて10部屋以上あった。また、敷地内には枯山水の日本庭園とバラが咲く洋風庭園、中庭の池には鯉が泳いでいたという[5]。
- ^ 後に坂本花織を指導し、北京オリンピック銅メダリストへと導いた。
- ^ 憧れた理由は、東京で姉のステージを舞台裏で観た際、衣装替えのため汗だくで戻った姉をヘアメイクさんが瞬時にきれいにするのを目の当たりにしたこと。本人は「女の子を驚くほど変身させる技術はまるで魔法のようで、かっこいいお仕事だなと思った」と語っている[5]。
- ^ 本人によると、「内気な性格だったけど元々人に頼るタイプではなかった。以前から心の中では“自分で道を選び、自信と責任を持って歩ける人になりたい”と思っていた。そんな時にスカウトされ、事務所の人との話し合いを重ねる内に『早く自立したい』という気持ちが強くなり、『とりあえずやってみよう』と考えが変わった」と述懐している[5]。
- ^ 本人によると「(上記の)『大爆笑』の泥棒コントを終えてホッとした直後、志村さんから急に『最後にカメラが寄るから何かオチやって』と無茶振りされました。心の準備もなくカメラが来て、慌てて何かを言ったのですが、あまりに必死で何を言ったかは覚えていません。でも今思えばあの無茶振りは、私が新番組のレギュラーとして使えるかどうか、志村さんなりのオーディションだったんだと思います。ただ、あの時にオチを担当する怖さを感じたので、『だいじょうぶだぁ』を依頼された時は『私にコントのオチを任さないこと』を条件にお引き受けすることにしました」と回想している[5]。
- ^ 本人は、「不安と焦りから事あるごとにディレクターなどに疑問や意見を積極的にぶつけるようになりました。後日この行動を聞いた志村さんから楽屋で注意されましたが、私は「自分の居場所を作るための作業をしているので邪魔しないで下さい」と言い返しました。すると志村さんは、私が必死に模索している中での行動と理解してくれて、その途端ニヤリとされました」と回想している。
- ^ ただし、「例えばドラマが1時間で綴るストーリーを、コントでは3分とかでギュッと凝縮してやる感じです。コントでは、一日の撮影でいくつもの役を演じ分けるので切り替えが大変なんですが、その濃密な経験は他のお芝居にも確実に生きていると思います」と語っている[5]。
- ^ ちなみに一学年下には、荻野目洋子もいた。
- ^ 本人は、「彼女たちより背が高くて当時はひょろっとしていて男の子っぽかったので、“ヨースケ”になったんだと思います」と語っている[5]。
- ^ 具体的には、「私は根が真面目なので妻という立場になると自ら完璧を求めてしまい、無理をしてストレスを溜め込むかもしれない。自分やパートナーが自由にやりたいことをしながら関係を築き上げていくのが理想です」と語っている[5]。
- ^ 姉の真子と来園。
- ^ 森口博子と来園。
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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シングル | |
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スタジオ・アルバム |
微笑(ほほえみ) - MAKO II - MAKO III - 恋のディスクジョッキー MAKO IV - わたしのしあわせ MAKO 5 - TWENTY MAKO 6 - ジーンズにはきかえて MAKO 7 - サフラン - Truth - Mako Rivival - Mirai - Love Merry go round
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ライブ・アルバム |
MAKOライブI - BYE BYE MAKO LIVE〜8月の太陽より燃えて〜
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ミニ・アルバム | |
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ベスト・アルバム | |
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CD-BOX | |
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出演テレビドラマ | |
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出演映画 | |
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出演テレビ・ラジオ番組 | |
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関連人物 | |
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関連項目 | |
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