飯田 久彦(いいだ ひさひこ、1941年8月23日 - )は、日本の歌手・音楽プロデューサー。東京都出身。日本大学高等学校卒業。芝浦工業大学工学部電子工学科中退。歌手時代の愛称はチャコ。デビュー当時は第一プロダクション所属。ビクター音楽産業在籍時代に、『スター誕生!』に出場したピンク・レディーを発掘した。
人物
代表曲
- 悲しき街角/ポケット・トランジスター(1961年、AK-776)
- 小さい悪魔 LITTLE DEVIL/なみだのダンス DANCE ON A LITTLE LITTLE GIRL(1961年、AK-777)- 両曲、ニール・セダカの日本語カバー
- 悲しき片思い/子供じゃないのさ(1961年11月、SA-768)
- ルイジアナ・ママ(1961年12月、SA-772)
- 花咲く街角/ウェディング・ベル(1962年1月、SA-831)
- コーヒー・デイト MAGMATES/一度だけのあやまち I APOLOGIZE(1962年5月、SA-873)
- シェーナ・シェーナ Schoen-A Schoen-A/クライ・クライ・クライ Cry Cry Cry(1962年7月、SA-934)
- 若さでドン(1963年1月、SA-1081)-北原謙二、高木たかしと共演
- 口紅のシール/恋人は海の彼方に(1963年、SAS-21)
- 二人でゆこうよ/いとしのリンダ(1963年、SAS-63)
- 幸せをつかもう(1963年8月、SAS-92)- B面は松島トモ子「明日の幸福」
- レット・ミー・ビー LET ME BE/グリーン・グリーン GREEN GREEN(1963年11月、SAS-168)
- ブルー・ベルベット BLUE VELVET/恋のハッスル NOT RESPONSIBLE(1963年12月、SAS-185)
- 恋風さんとかくれんぼ/にわか雨(1964年7月、SAS-280)
- 星が夜空の涙なら/ミーコを想う(1965年3月、SAS-449)
- 悲しみをこわして/恋人もお金もない夜(1967年、SAS-984)- 東宝映画「悲しみをこわして」主題歌
- 悲しきエレキ小僧/モンキー大学(CW-399)
- 明日はきっと/君の名前(1967年、CW-872)
- 愛する女(ひと)は涙して/夢よ何処に(1971年、SV-1110)
逸話
芝浦工業大学へは硬式野球部のセレクションを受けるも不合格となり、一般入試で合格した。入学後の歌手デビューは高校の同級生・坂本九の薦めによる。
大ヒット曲『ルイジアナ・ママ』のサビ「from New Orleans」の発音が巻き舌のため、当時の視聴者には「ホニオリン」(または「ロニオリン」)と聞こえたという。後年、ナツメロ番組で歌った際には「フロム・ニューオリンズ」と日本語発音で聞き取りやすい歌い方をしていた。
サザンオールスターズの「チャコの海岸物語」の“チャコ”とは、彼のニックネームを桑田佳祐が歌詞にしたもの[2]。幼少時、ヒサヒコが呼びにくいためヒチャヒコとなり、縮めて“チャコ”が愛称になった。歌手引退後のビクター音楽産業ディレクター時代も"チャコ"と呼ばれ、その頃桑田と知り合っている。
ディレクター時代の最大のヒットはピンク・レディー。当初フォークデュオ風に売り出そうとしていた上層部の方針を粘って現在知られるスタイルに変えさせた一人で、7枚目のシングル「サウスポー」では録音が終わった後で曲のインパクト不足を感じ、阿久悠と都倉俊一に土下座をして僅か2日で新しい曲を作ってもらった。結果、同曲は4枚連続となるミリオンセラーを記録した。作り直し前のものは、CD『続 人間万葉歌 阿久悠作詞集』(ビクターエンタテインメント、VICL-634041/5)に「サウスポー(未発表バージョン)」として収録されている。
1988年の「恋のダーク・ホース」収録当時はビクターの制作部部長であり、同曲にて競馬実況パートを務めた高橋卓士に「うちのルイジアナ部長」と呼ばれていた。
音楽プロデューサー・主な担当
[3]
NHK紅白歌合戦出場歴
論文
脚注
- ^ 「元歌手の飯田久彦さん レコード会社テイチクの社長に就任」1999年5月18日 日刊スポーツ
- ^ 島谷ひとみ (2010年9月7日). “本物はだぁ~れ⁉”. HITOMI SHIMATANI Official Blog. オリコン. 2013年9月23日閲覧。
- ^ 日経エンタテイメント(2005年11月号)「ヒットするには理由がある!音楽プロデューサーの手腕」67 - 69頁。
関連項目