MSX
MSX(エム・エス・エックス)とは、パソコンの共通規格の名称である。 1983年に最初の規格であるMSX(通称「MSX1」[1])が米マイクロソフトとアスキー(後のアスキー・メディアワークス)によって8ビットパソコンの共通規格として提唱された。従来はメーカーごとに仕様が異なるパソコンに合わせてアスキー・マイクロソフト側がマイクロソフトBASICをカスタマイズする形で移植していたが、この方法ではメーカーごと、更には機種ごとに仕様が異なり、同じBASIC言語でも相互に互換性がないという欠点があったため、共通規格のパソコンとしてMSXが誕生した[2]。 以後上位互換性を維持しつつ1985年にはMSX2、1988年にはMSX2+、1990年には16ビットのMSXturboRが提唱された。この間、世界の複数のメーカーからMSXの仕様に沿ったパソコンが発売され、MSXの誕生にかかわった西和彦によるとMSX対応機種は日本で約300万台、海外で約100万台売れたとされている[2]。その後、blueMSXやOpenMSXやRuMSXの様なMSXエミュレーターや、MSX2をFPGAで再現した1チップMSXやMSX2+をFPGAで再現したSX1Mini+なども登場した。[3] 2023年にはMSX0、MSX3、MSX turboがMSXの権利者である西和彦より提唱され、西が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリーによってMSX0の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディング[4]が開始された。MSX0はMSX2のエミュレーターであり[5]、同年9月からクラウドファンディングの参加者向けリターンとして発送された[6]。 MSXはこれらの総称でもある。 歴史![]() 日本規格の提唱元であるアスキーの創設者の一人である西和彦が2023年のインタビューの中で語ったところによると、NECや日立といった企業が自社製品向けのBASICの制作をアスキーに依頼する際、コマンドの追加や周辺機器のサポートまで依頼されて大変だったため、統一した規格を制定してIBM PCと一緒に売ろうとしたことが、MSX誕生のきっかけだったという[7]。とはいえ、16ビット機であるIBM PCは当時の価格で1000ドル以上もしたため、MSXはより安価なパソコンの決定版として位置づけられた[7]。 1980年代1980年代初頭、日本国内におけるホビーユースのパーソナルコンピューター(ホビーパソコン)ではCPUにZ80を採用し、マイクロソフト社のBASICインタープリターをROMに格納して搭載する構成が主流であった。しかし、同じZ80プロセッサを採用したパソコンでも、メーカーごと、機種ごとに仕様が大きく異なり、これをサポートするBASICも、二次記憶装置の取り扱いやフォーマット・ハードウェアの仕様、性能の差異や拡張によって独自の変更が加えられ、俗にBASICの「方言」と呼ばれる非互換の部分が存在し、アプリケーションは機種ごとに作成・販売されていた。 当時マイクロソフトの極東担当副社長であり、アスキーの副社長だった西和彦は大半の機種の開発に関わっていたことから、多くのメーカーと繋がりがあった。そのため、日本電気 (NEC) ・シャープ・富士通のパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーの大同団結を背景として、西が主導権を握る形でMSX規格は考案され、1983年6月27日に発表された。ハードウェア規格はスペクトラビデオ社の「SV-318」と「SV-328」が参考にされている。当初、マイクロソフト社長(当時)のビル・ゲイツは「ソフトウェアに専念すべき」との考えからMSX規格には反対だったが、西に説得される形で承認。「MSX」の名称は発売当時マイクロソフトの商標だったが、1986年のアスキーとの提携解消の折に著作権をマイクロソフト、商標権(販売権)をアスキーが所有することになった。 MSXの発表会には参入家電メーカー以外にも家庭用パソコン市場に参入した経験を持つ企業、または参入を計画していた企業が参加した。しかし、参入メーカー各社の足並みを揃えるため1984年に発売時期を調整している間に、任天堂のファミリーコンピュータやセガ・エンタープライゼス(後のセガ)SC-3000等の競合機種が発売され、苦戦が予想された。また、当時国内パソコン市場シェア1位のNECは発売せず、シャープも海外でのみ発売するに留まった。FM-Xを発売した富士通も「自社の製品と競合する」といった理由でMSX市場からは短期間で撤退。そのため、MSX規格は「弱者連合」などと揶揄された。 発売は当初予定より前倒しされ、主要家電メーカーの製品は1983年の秋から年末までに出揃った。アスキーは当初「1年間で70万台の出荷」という強気な目標値を掲げ、目標は達成できなかったものの、発売から2年強が経過した1986年1月にはMSXシリーズの総出荷台数が100万台を突破した。当時、国内メーカー製の8ビットパソコン市場で大きなシェアを有していたNECのPC-8801シリーズが累計100万台キャンペーンを企画していたが達成できておらず、MSXは「日本製で最も売れた8ビットパソコン」として位置づけられる。その後も1988年の年末年始商戦だけで、FDD内蔵型のMSX2(ソニーのHB-F1XDとパナソニックのFS-A1F)が22万台の売り上げを記録した[8]。 そしてMSX参入各社は、他社製品と差別化を図るべくワープロや動画編集、音楽機能など様々な機能を付加したMSXパソコンを発売し、一方で徹底的にコストダウンした廉価な機種も登場した。しかし大部分の購入者はMSXを単なるゲーム機としか見ておらず、高機能・高価格な機種よりも低機能・低価格な機種を購入したため、参入各社間で価格競争が勃発。また他機種のパソコンとの競争も熾烈であり、MSX2が発売された1980年代後半には16ビットや32ビットCPUを採用した、より高性能な他機種の次世代パソコンや家庭用ゲーム機との販売競争に晒されたこともあり、元々参入が少なかった国外メーカーはMSX2で大半が撤退、次の規格であるMSX2+の対応機種を発売したのは日本のメーカー3社のみとなった。 1990年代1990年には販売台数が全世界累計で400万台を突破[9]。各MSX専門誌には「夢を乗せてMSX 400万台」のキャッチコピーが躍った。 しかし、この頃よりMSXを取り巻く環境は急速に悪化していき、1990年10月には16ビットCPUを搭載した新規格のMSXturboR[注釈 1]がリリースされたものの、参入メーカーは松下電器1社のみとなった。同社の機種は好調なセールスを記録し、翌1991年末にも新機種を投入したが、サードパーティーによるMSX向け商品のリリース数は減少傾向にあり、MSX専門誌は休刊や廃刊が相次ぎ、『MSX・FAN』 (徳間書店インターメディア) のみが形態を変えて発刊を続けた。 松下電器は1994年に家庭用ゲーム機3DO REALとIBM PC/AT互換機WOODYを発売。MSXの開発部隊は、大半が3DOの開発に移行した。同年に最後のMSX規格対応パソコンである「FS-A1GT」の生産を終了し、翌1995年には出荷も終了した。これをもって日本でのMSX規格は終焉したと世間一般では解釈されている。 この時期にはMicrosoft Windows 95が登場し、パソコン市場を拡大してデファクトスタンダードとなりつつあった。MSX以外にもX68000やFMRシリーズやFM TOWNSといった日本独自規格のパソコンが姿を消して行き、日本のパソコン市場はWindows 95が動作するPC/AT互換機およびPC-98またはその互換機か、あるいはMacintoshへと集約されていき、その一方でMSXのコアユーザーによるハード製作などの活動が活発に行われるようになった。有志が東京、大阪、名古屋、福岡、札幌、倉敷でイベントや集いを開催したり、パソコン通信上などでは多数のフリーウェアが公開されたりした。特に漫画家の青井泰研[注釈 2]が東京で開催したイベント「MSXフェスタ」には、日本各地だけでなく海外からのユーザーも集まった。この他にもMSX復活プロジェクト(MFP)がハードディスクインターフェイスを開発するなど、最もMSXの同人の活動が盛んだったのもこの時期である。だが最終的には、それらコアユーザーの多くもWindowsなど別の環境へ移行した[14][15]。 2000年代![]() 1990年代末期から顕著になったMSXコアユーザーや同人サークルによるMSX離れは、JavaやFlashなど自由度の高い環境の登場により拍車がかかっていた。その一方MSXを使い続けるユーザーも少なからず存在したが、MSXの製造・サポートの中止かつハードウェアの老朽化による問題を抱え、解決策にエミュレーターやFPGAなどが用いられた。 2000年8月20日、東京・秋葉原のヒロセ無線本社ビル5Fにて「MSX電遊ランド2000」が開催され、そのイベント中で西がMSXの復活計画を発表する[16]。2002年には商標やシステムソフトウェアなどの管理を行う任意団体「MSXアソシエーション」が発足し、公式エミュレーター「MSXPLAYer」も公開された。後に従来多数のチップで構成されていたMSXの機能をひとつのチップに集積した「1chipMSX」が製品化されている。そのほかのエミュレーターとしてはfMSX、ルーMSX、NLMSX、blueMSX、openMSX、WebMSXなどがあり、Windowsやマッキントッシュのほか、PSPやニンテンドーDSやゲームボーイアドバンスといった携帯型ゲーム機や、Java、Pocket PCなどプラットフォーム上で動作させることができる。 2006年、Wiiの価格発表の場で、旧来のゲームマシン・パソコンで供給されていたゲームソフトをインターネット上からダウンロード販売する「バーチャルコンソール」へのMSXソフトの投入が発表された。i-revoなどで多くのMSXゲームの復刻実績を有するD4エンタープライズが参入したことによって実現した。 2007年、MSXの商標権は西和彦と共に『株式会社MSXライセンシングコーポレーション』へ移る。日本での商標登録番号は第2709130号ほか[注釈 3]。 ![]() 2011年、ロシアのAGE Labsがコンピューターの学習を目的としたGR8BITというMSXキットの発売を発表。価格はUS$499(369ユーロ)。また、日本の株式会社H&SがこのGR8BITを輸入販売すると発表し、価格は2012年3月末まで4万2千5百円[17]、以降は5万3000円[18](送料/税/手数料別)で販売していたが、2015年にはドメインが失効しており、国内での販売はされていない。 チップチューンブームとMSX![]() 2000年代の別の動向として、日本でもチップチューン(ゲームボーイやファミリーコンピュータ等による音楽演奏)ブームが起こった。それに伴いMSXによる音楽活動も比較的少数ではあるが再活発化した。かつて1980年代後半から1990年代前半頃に、MSXを扱う雑誌の投稿コーナーやパソコン通信のフォーラムで、その後のチップチューンに相当する音楽が発表されていた時期があった。しかし発表環境の衰退や消滅により、同ブームまでの間は一時停滞していた。 またエミュレータや1チップMSXの登場により、PSG・FM音源・SCC互換音源、さらにMSX-AUDIOや2個のSCC音源を同時発声させた音楽が昔に比べ多く発表されるようになった。 2020年代2022年9月3日、MSX DEVCON TOKYO 1が開催され、MSX0、MSX3、MSX turbo規格が西和彦及び同氏が理事を務める特定非営利活動法人IoTメディアラボラトリー発表された。 2023年1月13日、IoT向けMSX0規格の実装であるMSX0 Stackのクラウドファンディングが開始された。 世界MSXの400万台以上の販売台数のうち、約半分が日本、残りの半分は海外での販売である[19]。 MSXは日本国内のみならず、オランダ、ブラジル、韓国を中心に現地企業でも生産され、他の国にも輸出された。日本でパソコン御三家に対して出遅れた家電メーカーがMSXに参入したのと同様に、ブラジルのグラジエンテやオランダのフィリップスといった、Apple IIやZX Spectrumに対して出遅れた現地の大手家電メーカーがMSX規格に頼らざるを得なかったという事情もあり、MSXに注力したこれら大手企業の影響力が強い諸国ではそれなりに普及した。 MSXは、文字キャラクタをROMに記憶せずユーザが生成することができ、各国の言語の独特の文字に柔軟に対応でき、英語以外のマイナーな言語を使う国々向けにローカライゼーションをするうえで好都合なので、非英語圏を中心に高く評価された[20]。用途は国ごとに異なり、主に教育用途で使われた国と、主にゲーム用に使われた国に分かれる。アルゼンチンやソヴィエト連邦諸国では主に教育用コンピュータとして用いられた。スペイン、ブラジル、韓国などでは主にゲーム用に使われ、MSXはグラフィックチップにTMS9918を搭載するなどハードウェア構成がゲーム機のコレコビジョンやマスターシステムとよく似ておりそれらのゲームが移植しやすかった点も評価され普及に繋がることとなった。一方で英語圏ではあまり普及しなかった。 北米北米ではスペクトラビデオとヤマハのMSXのみ発売された。すでに成功を収めていたコモドール64やアタリ製のコンピュータの牙城を崩すには至らず、スペクトラルビデオも倒産した[21][注釈 4]。MSXが発売された1984年の時点で価格帯やスペック的に直接的な競合製品となったのはコモドールPlus/4とコモドール16であるが、同時期に初代MSXのスペックを遥かに上回る上位機種のコモドール64やAtari 8ビット・コンピュータなどが低価格競争に突入し急速に普及したため、ZX Spectrumやコモドール16など同時期の諸外国でエントリークラスとされたパソコン自体がそれほど普及しなかった。学校などで使われる「教育用コンピュータ」としても既にApple IIが存在したため普及しなかった。 欧州当時の欧州のマイコン(パソコン)の市場は、アメリカ系のコモドール64(略称 C64)とイギリス系シンクレアZX Spectrumがシェアを二分しており、1984年にはさらにイギリスのAmstrad社からCPC 464が発売され(300万台ほど売れ)先行するC64とZX Spectrumのシェアを少し奪うという状況だった。欧州全体ではMSXとほぼ同じスペックで値段が安かったイギリス産のZX Spectrumの方がMSXより人気が高く、特にシンクレア社の地元イギリス、コモドールとアタリが強かったドイツなどではMSXはほとんど売れなかった。スペクトラビデオのジェネラル・マネージャーであるスティーブン・チューは、『MSXマガジン』1986年8月号に掲載されたインタビューの中で、北米同様欧州においてもMSXはゲームマシンとして受け止められていたが、オランダのフィリップスに加え、日本のメーカーが進出していたため、ゲーム以外への分野の対応も図られつつあると語っている[22]。一方で、フィリップス社の地元オランダのほか、イタリア、スペインではMSXは人気があった。しかしこれらの国でも、1985年発売のコモドールAmigaとAtari STにMSX2は対抗できず、1980年代末にかけて衰退していった。 欧州での展開では、序盤からテクニカルサポート体制の不備が指摘されるなど、海外進出を念頭に置いた戦略が十分ではなく、一部正規品の互換性問題などで苦戦を強いられていた[注釈 6][23]。 1985年にはMSX1の後継規格・MSX2が誕生し、ヨーロッパのほか、共産圏や南米にも進出したが、まもなくプラザ合意による円高によって他の輸出産業とともに窮地に立たされる[23]。 同時期、アスキーとマイクロソフトの対立が激化し、翌年1986年2月に両社の提携が解消されたほか、アスキーの上層部の間でもMSXの扱いで対立が起きていた[23]。 その結果、MSXはヨーロッパ市場からの撤退を余儀なくされた[23]。 イギリスではZX Spectrumの人気が非常に高く、MSXは東芝の現地法人が大きな宣伝をかけたわりにほとんど売れなかった。現地企業のドラゴンデータが参入を表明していたが、「ドラゴンMSX」として知られるプロトタイプ機がいくつか作られたのみで発売前に倒産した。MSXはZX SpectrumとCPUが同じだったため、ZX Spectrum用ソフトのベタ移植という形でMSX用ソフトもそれなりに発売されているが、MSXではスロットの割り当てやキーバインドなどメーカーごとの細かい差異を考慮する必要があり、さらにVDPを介したVRAMという構造は同一のアルゴリズムでの描画処理には速度的に足かせとなった(MSX Video access methodを参照)。規格としてはメモリ16Kだったものの現実にはメモリ48Kが標準だったZX Spectrumに対し、MSXにはメモリがたった8KBのCasio PV-7が現実に存在したことも大きな制約だった。ヨーロッパでMSXの最低ラインとなったフィリップス VG 8000もメモリが16KBしかなく、しかもフィリップスの初期シリーズは正規のMSXを標榜しながら互換性問題が発生した。また、イギリスには1984年に「MSXNET」という会員制のコミュニティが発足しており、ハードおよびソフトメーカーや報道関係者を中心とした「プロフェッショナル」会員と、それ以外の一般会員に分かれていたが、『MSXマガジン』1986年9月号によると大半が前者だったという[24]。 オランダでは現地の家電大手フィリップスがMSX機を販売していた[20]。1980年代のオランダではMSXはコモドール社のコモドール64やシンクレア社のZX Spectrumを抑え、最も人気のあるコンピューター[25]であり、世界的にもユーザー数で考えた場合に日本に次ぐ第2の市場となった。MSX専門誌の「MSX Computer Club Magazine」の定期刊行は1995年12月/1996年1月号まで続き、これは日本のMSX・FANよりも長い。MSXの商業的な活動が終息した後、1990年代以降の同人ベースでの活動、また2000年代以降のwebベースでの活動も活発であり、世界のMSX情報の集積地となっているwebサイト「MSX Resource Center [1]」もオランダのサイトである。 スペインではリリースされたMSX用ソフトの数が日本に次いで多く[20]、ソフトウェア販売数で考えた場合には日本に次ぐ第2の市場となった[26]。リリースされたソフトはほとんどがゲームで、ほかに実用ソフトも販売されており、ワープロなどを含んだ統合GUI環境の「EASE」まで存在していた。EASEはフィリップス社製MSX2機に標準添付されたため、オランダやイタリアでも愛用者が多かった。スペインのMSX市場は1985年に最盛期を迎え、MSX専門誌が3誌も販売されていたが、1980年代末にかけて衰退していった。MSXの商業的な活動が終息した1989年以降は同人による活動が活発になり、やはり多くのゲームがリリースされたが、著作権的に問題のある移植ものが多い。webでは2002年設立の同人ゲームサークルが母体となった Karoshi MSX がコミュニティの総本山にあたり、2003年から開催されている欧州のMSX1用インディーズゲームコンテストの MSXdev を2011年より引き継いで主宰している。 韓国![]() 韓国におけるMSXは三星電子、金星電子、大宇電子といった現地の大手家電メーカーから発売され、Apple IIとシェアを二分する成功を収めた。三星電子と金星電子は早期に撤退し、MSX2は大宇電子のみが発売した。初期のMSXは家庭用が3割だったのに対し、教育用が7割を占めていた[27]。FDDも周辺機器として発売されたが、当時としてはかなり高価だったためにあまり普及しなかった。ただしMSX発売当時の韓国はコンピュータプログラムに対する法的保護がなかったことから、コンピュータショップではROMゲームを手数料程度でFDにコピーするサービスを行っており、それらの恩恵を受けるために高額なFDDを買う需要が多少あった。 MSXソフトが動作するものの、キーボードがないなど、MSXとしての絶対条件を満たしていない互換機としての扱いの家庭用ゲーム機をZemmix(大宇電子)というブランドで展開されており、韓国で人気を博した[20]。 また、韓国では日本製のゲームソフトが人気を集めていたが、当時は著作権の扱いがいい加減だったため[注釈 7]、安価な海賊版が市場を占めていた[28]。 1980年年代には三星電子におけるセガ・マスターシステムのライセンス機が出回り、Zemmixと競合ハードとなったことで韓国製ゲーム作品はMSXとのクロスプラットフォーム作品が珍しくなかった。1990年代には三星電子におけるメガドライブのライセンス機、現代電子におけるNintendo Entertainment SystemやSuper Nintendo Entertainment Systemのライセンス機、金星電子における3DOの規格機なども発売されたが、高価な次世代機に移行できない層の存在と、Zemmixの普及率から、旧世代機であるZemmixの市場が長く併存したことにより、大宇電子は1995年までZemmixを販売し続け、日本国外の製品としては唯一MSX2+規格に対応したゲーム機としてZemmix Turboを発売していた。また、韓国仕様のMSX2はハングル表示用のSCREEN9があり、ゲーム雑誌編集者の前田尋之は、これが韓国内で普及した一番の理由ではないかと推測している[20]。 香港香港では、1984年の時点において香港製のコンピュータが高額だったことに加え、業務用ソフト[注釈 8]を作る人や企業が多く、マイコン用ソフトの開発者は少数派だった[29]。それから2年後の1986年においてもMSXはゲームマシンとして扱われていた[30]。香港では日本製ソフトがテープとして流通していたが、こちらも著作権の扱いがいい加減[注釈 9]だったため、他のパソコンと同様にMSX用ソフトの海賊版も売られていた[32]。他方、『MSXマガジン』1986年8月号では香港在住の日本人読者の話として、違法コピーが多い分ディスクの普及が日本よりも進んだとしている[33]。 中南米![]() ブラジルでは現地大手家電メーカーのグラジエンテと、シャープのブラジル法人シャープ・ド・ブラジルが1986年頃より製造販売した[20]。Atari 2600の代理店からMSX機の販売に切り替えた経緯があるグラジエンテを始めとして、シャープもMSXをパソコンというより安価なゲーム機の代替品として捉えていたようで、MSX2規格の発表以後にもかかわらず初代MSXしか販売されなかった[20]。ブラジルでは国内産業保護のために海外製ハード・ソフトの輸入に法外な関税をかけて事実上禁止する法律があるため(ライセンスを得て現地生産することで関税を回避できる。または密輸か違法コピー)、当地で流通したゲームは全て国内製、販売されたMSX機は上記の現地大手家電メーカー2社によるものだけだったが、テレビCMを含む積極的なキャンペーンの結果、MSXは発売から2年で10万台、トータルで40万台の大ヒットとなった。 初代MSXが普及し専門誌による情報交換も盛んだったブラジルではユーザーコミュニティがMSX2の発売を切望していたが、シャープは1988年にMSXから撤退。グラジエンテも1990年にはMSXから撤退し、以降はMSX2ではなくファミコンを販売した。そのため、サードパーティーからMSX2相当にパワーアップする製品などが発売され[20]、ユーザーコミュニティによる自主制作も盛んとなった。それなりの知識があれば、各種アップグレードパーツを用いてMSX2用のメガROMのゲームを日本と同様にプレイすることが可能だった[34]。5.25インチフロッピーディスクを流通媒体とする独特の同人文化も発達した。 アルゼンチンでは地元メーカーのテレマティカが1984年にDaewoo MSX DPC-200をベースにしたTalent MSX DPC-200を発売。他にはスペクトラビデオやグラジエンテ、東芝の製品もわずかながら販売された。また、アルゼンチンではMSXを「教育用コンピューター」として学校教育で国家レベルで導入されたており、学校教育の中でMSX-LOGO言語が教えられていた。テレマティカが1987年に発売したMSX2 TPC-310はコマーシャルで「ターボ」のキャッチコピーを売りにしていたが、あくまでキャッチコピー上の文句だけで、実際は普通のMSX2機である。アルゼンチンでのMSXの販売は1990年に終息した。 キューバでは東芝とパナソニックのMSXが1985年に学校教育で採用され、"Intelligent keyboards"の名称で呼ばれた。ただしパソコンの一般への販売は禁止されていた。 中東![]() アラブ諸国ではクウェートの大手SIであるAl Alamiah[注釈 10]が日本からヤマハや三洋などのMSX機を輸入しており、子会社のSakhr社によってアラビア語用ローカライズを行い販売していた。このようにMSXは、韓国向けではハングル、アラブ諸国向けにアラビア文字を使える[35]など、現地向けに仕様をローカライズすることが可能だった。Sakhr AX330はファミコンとMSXの複合機、Sakhr AX660とSakhr AX990はメガドライブとMSXの複合機であるが、アル・アラミアはMSXのライセンスを得ていないため、ハードの詳細は不明である。パソコンとゲーム機の複合機はテラドライブなど他に例があるが、1993年に発売されたSakhr AX990がMSX2以降ではなく初代MSXとの複合機なのは、MSXマガジンでも「謎」としている[36]。ソフトウェアは、ファーストパーティであるAl Alamiah/Sakhr社が本体にバンドルしていたもの以外にも、Methali社など複数の現地メーカーから供給されていたが、SakhrはMSXを「教育用コンピューター」と銘打って販売していたため、教育ソフトや教育ゲームが多い。また、日本から輸出された作品にはアラビア語のマニュアルが新たに同梱されている[35]。珍しいソフトとしては、Al AlamiahがMSX版『コーラン』を販売していた。 ソヴィエト連邦、東側諸国ソ連などの共産圏ではMSXは学校などに多数納入され、初等教育の現場でも応用されていた。当時の東側諸国は政府によって市場が統制された社会主義の国家であり、『物資は全て、国家が人民に供給・配給する』という形態をとっていたので、資本主義経済のもとで市場競争によってホビーパソコンが大きな市場を築いた西側諸国とは違って、東側諸国のパソコンは国営企業が独占的に製造し、ほとんどが産業用途か教育用途に回された。一方で年収くらいする高価なパソコンを自分で購入したり、市場に存在する数百個のパーツを集めてパソコンを文字通り自作する方法を指南する無線マニア向け雑誌も存在した。当時、輸入パソコンは外貨で購入可能な公営ショップ(東ドイツのインターショップなど)で高価格で販売されるのが一般的で、一般人が購入するのは現実的ではなかったが、実際には多くの東側諸国に西側諸国のパソコン(日本製も含む)が政府の監視をかいくぐってこっそりと持ち込まれており、その流通には不明な点が多い。 「東側諸国」と言っても、必ずしも国営企業の製造したパソコンがメインで普及したというわけではなく、例えばチェコスロバキアでは、国営メーカーが製造販売したZX Spectrum互換機に次いで、輸入パソコンなのになぜか普通に電気店で販売されていたSharp MZ-800の人気が高かったりするなど、国によって特色がある。MSXは、ソ連で特に教育用として普及し、国営メーカーによる教育用MSX互換機製造の試みが続けられたり、宇宙開発用として宇宙ステーションミールに搭載されるなど、1985年ごろは大きな影響力を持った。ただしソ連でMSXは「学校で使う教育用パソコン」のイメージがあったのと、高価だったため、1986年以後に低価格化した国産機のエレクトロニカBKシリーズの方が家庭用としてはユーザー数はずっと多かった。 MSXと冷戦冷戦時代、西側諸国ではコンピューターを含む電子機器の輸出を対共産圏輸出統制委員会(ココム)で制限しており、ソビエト連邦を中心とする共産圏の国々では16ビット以上の高性能コンピューターを西側から輸入することが出来なかった[38]。そのため、規制対象外とされていた8ビット機を大量に輸入し、またコピーして使用していた。機種は用途に応じて選別されていた。 これらの中にはMSXも含まれており、特にソ連やキューバでは国家の教育プログラムで導入された。その拡張性や互換性などが評価された結果、学校教育のみならず各分野で応用された。教育用には独自に簡易ネットワークシステムまで構築して利用していた例もある[39]。 冷戦終了前後にはMSX機が東側で正式に販売され、ビデオタイトラーやラベリング機のアーキテクチャなどとしても利用された。市場が開放された時期は国によって違うが、例えばソ連で西側のパソコンが正式に発売されるのはゴルバチョフ政権による1988年の協同組合(コーポラティヴ)解禁以降となる。ソ連では他の東欧諸国より市場開放そのものが遅れたうえ、ZX Spectrumが4万ルーブル(年収の13年分)で販売されるなど、西側の旧型機を輸入して高価格で売る企業が多かったので[40]、パソコンの普及も他の東欧諸国より遅れたが、1991年にZX Spectrum互換機「ペンタゴン」がZX Spectrumの心臓部であるゲートアレイの解析を完了すると、旧ソ連地域でもZX Spectrumの海賊版であるPentagonのさらに海賊版メーカーが乱立して市場を埋め尽くした。 ソ連では1985年に学校へのコンピュータ導入プロジェクト「комплекс учебной вычислительной техники」、略称:КУВТ(KUVT)が開始され、ヤマハのMSX機をベースとする教育用ネットワークシステムが「YAMAHA KUVT」として各学校に構築された(そのため、ソ連ではMSXは「YAMAHA」(Ямаха)の愛称で呼ばれる)。ヤマハの機種を用いたシステムとしては、YIS 805R(先生側)とYIS 503IIR(生徒側)が採用されたКУВТと、YIS 128R(先生側)とYIS 503IIIR(生徒側)が採用されたКУВТ2が存在する。それぞれ、単純に輸入したものではなく、ロシア語キーボードを搭載したソ連向け専用モデルである。1986年度のКУВТ-86では国産機のБК-0010Шが採用されるなど、すぐに輸入機から国産機に切り替わったため、YISの採用数は1万5千台程度とされる。教育映画の『Поехал поезд в Бульзибар』(1986年)では、教育の一環として教師の監督の元『イーアルカンフー』や『けっきょく南極大冒険』を楽しそうにプレイする子供たちの姿が描かれている。 1985年当時、MSX機は一般には販売されておらず、国産機と言えども一般人には購入できないほど高価だったため、当時のソ連の人民が触れることのできたコンピュータは、基本的に学校にあるこのヤマハの教育用パソコンであり、「YAMAHA」はパソコンの代名詞となった[注釈 11]。ただし導入状況は学校によるので、MSXを全然知らない人も多い。また、1980年代後半以降には、ヤマハ以外にも大宇電子や東芝など、数は少ないながら日本や韓国から複数のメーカのMSX機が教育用として輸入された。 1980年代後半には国産機の展開が本格的に始まったこともあり、MSX機は家庭用ホビーパソコンとしてはあまり普及したわけではない。当時は月収が100-150ルーブルの中、パソコンは1000ルーブルくらいの高価格のためにほとんど普及していなかったが、1987年頃には国産機のエレクトロニカBKシリーズが650ルーブルまで低価格化したこともあって、ホビースト向けに7万8000台を売り上げる大ヒット機となり[42]、MSXの家庭普及率を大きく上回った。BKシリーズは教育用パソコンとしてもYAMAHAと並ぶ勢いがあったが、一方でMSXのアーキテクチャ自体は政府に好評で、その後もソ連で教育用パソコン向けにMSX互換機の開発が行われた。 ペンザ州計算機工場が1987年にリリースしたПК8000は、MSXアーキテクチャをベースとして開発が行われたが、当時のソ連はMSXの心臓部であるZ80互換プロセッサ、TMS9918互換ビデオプロセッサ、PSG互換音源を自国内だけで開発することができず、MSX規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでもMSX-BASIC互換を目指し、GW-BASICを拡張したインタプリタを搭載した。64Kの大容量RAMなど良い点もあったが、場合によって非常に遅くなる、圧電スピーカー(ビープ1音)、1000ルーブルを超える高価格など、悪い点も多く、市場ではあまり受け入れられなかった。 1989年にリリースされた後継機の「ПК8002『エルフ』」は、MSX2アーキテクチャを目指して設計されたパソコンであり、PSG音源相当の3チャネルサウンドなどを搭載したが、V9938互換ビデオプロセッサを開発することができなかったため、MSX2規格との互換性は限定的にならざるを得なかった。それでも教育用コンピュータとしての導入を目指して1000台から2000台が製造され、『ロードファイター』や『ボンバーマン』の移植なども行われたが、ソ連崩壊に伴う経済危機により以後の開発は中止された。なお、ПК8002には『PUT UP』(MSXマガジン87年10月号に掲載)が移植されており、1987年当時のソ連政府はMマガを購読していたとされる。 ![]() ソ連の軌道宇宙船ミールでも、MSX2規格の動画編集機であるソニーHB-G900AP[注釈 12]と見られる機材[43] が設置されており、1990年12月のTBS宇宙プロジェクト『日本人初!宇宙へ』にて撮影されたビデオの編集に使用されていたことがスポンサーであるソニーの技術情報誌の特集記事として掲載された[44]。 音楽制作ではYAMAHA CX-5が良く使われ(アルバムのジャケット写真やライナーの使用機材紹介でよく載っている)、アンドレイ・ロジオノフ&ボリスチホミーロフはソ連初のテクノアルバム『パルス1』(1985年)を制作している。これは当時のソ連ではテレビのエアロビクス番組が流行っており、体操用の音楽としてソビエト連邦文化省の要請により制作されたものである。当時のソ連はアフガン侵攻による経済制裁中ながら、ヤマハがソ連の教育プログラム「YAMAHA KUVT」向けにMSXの特注モデルを制作して輸出するなど、ソ連と日本の通商は比較的活発であり、YAMAHA CX-5やRoland TR-909など、西側とそれほど変わらない日本製の機材が使用されていることがアルバムのライナーで紹介されている。アルバム『512 kbytes』(1987年)のジャケットでは、DTMやアートワークの制作に使ったYAMAHA YIS 805Rや、EIZO製のモニターなどの周辺機器が紹介されている(КУВТで導入されたものと同じ機材)。アンドレイ・ロジオノフはMSX用ゲームも制作してリリースしている。こちらも教育用としてソ連文化省と防衛省の要請によって作られたもので、パッケージにはその旨の記載がある。また、リズムマシンYAMAHA RX15の制御にCX-5を使用した『Танцы на битом стекле』(1989)を手掛けたアレクセイ・ヴィシュニャや、CX-5に搭載されたFM音源モジュールYAMAHA SFG-05を活用したНовая Коллекцияなども、MSXを活用したソ連のテクノミュージシャンである。ただし、当時のソ連にテクノやDTMが存在したことが西側諸国に知られるのは、ソ連崩壊後のことである。 ソ連崩壊後にパソコンやゲーム機の海賊版メーカーが乱立した時期には、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したAmstrad CPCベースのMSX互換機Алеста(1993年)や、MSX-DOSと一部に互換性のあるOSを搭載したZX Spectrum互換機のATMターボ2(1993年)など、特殊なハードもリリースされた。なお、ソ連時代はMSX機は一般には販売されていないので、MSX機の所有者は存在しないはずだが、YAMAHA製のキーボードやリズムマシンと一緒にYAMAHAのMSX機を使っているテクノミュージシャン以外に一般人の中にもなぜか正規のYAMAHA製MSX機を所有している熱狂的なファンもおり、2000年代以降にも熱狂的なファンによる互換機が制作されたり、海賊版ハードの乱立時期に製造された製品をFPGAを利用してさらに進化させたハードがリリースされた。 特徴MSXは「子供に買い与えられる安価なパーソナルコンピューター」「コンピューターの学習に繋げられるコンピューターの入門機」として構想された[45]。その一方で必要に応じてシステムを拡張することで本格的なプログラミングや実務処理にも使うことが可能な、総合的なホームコンピューターとしても設計されている。 MZ-700、ぴゅう太、M5、JR-100、PC-6001、RX-78、SC-3000など、他の当時の低価格入門機のパソコンと同じ様にテレビやカセットデッキをモニターや二次記憶装置として流用するようなシステムとなっている。 MSXは単なる入門型パソコンとしてのみならず、当時の大人のマニア向けゲームハードという側面をもつ。時には家電品として、時には楽器として、時には当時の「ニューメディア」として分類される。それは、MSXが松下電器や日本ビクターなどのように家電品のルートで販売されたり、ヤマハや河合楽器などの楽器店のルートで販売されたり、フィリップスやNTTのキャプテンシステムのようにニューメディアと位置づけて販売されたが、それは主にゲーム機として利用された事情による。 またメーカーを越えてハードウェアおよびソフトウェア資産が利用できる統一規格であり、「オープンアーキテクチャ」のさきがけである。CPU、VDP、メモリーマップ、I/Oマップ等のハードウェア仕様を規定するレベルに留まらず、後述のようなスロット機構の採用とシステム(BASICおよびDOS)と密接に連携し、機能拡張の抽象化を担うBIOSを介することを前提に、柔軟性と互換性を維持する形となっている。 名称の由来
ロゴマーク![]() 右下隅にMSXのロゴマークが見える。 MSX仕様に準拠したハードウェアとソフトウェアにはMSXのロゴマークが付与された。このMSXマークで「MSXで動く」と分かるように、ホームビデオのVHSを参考に発案・デザインされた。以後、MSX2、MSX2+、MSXturboRとMSXがバージョンアップする度にロゴは作られ、MSX2からは起動画面にMSXロゴが表示されるようになった。公式MSXエミュレーターの「MSXPLAYer」でもMSXのロゴは踏襲された。デザインは全て西が元になるアイデアを出した。 このロゴマークのついたMSX仕様のソフトウェアを発売する際にロイヤルティーは不要だった。これはMSX発表当時、対抗規格を打ち出して来た日本ソフトバンク(後のソフトバンク)の孫正義と西和彦のトップ会談によって決定されたものである[50][51]。 MSX0、MSX3、MSX turboでは従来のロゴマーク踏襲しつつ、やや細身となったMSXの文字と、ピクセル化された英数字の組み合わせとなっている。 ハードウェア後述のスロットによるアドレス空間の拡張や、BIOSによるリソース管理の仕組みの特徴は、後継製品でもモード切替に因らないシームレスな後方互換性の実現や、規格の拡張に寄与している。 CPUMSX1, MSX2, MSX2+は8ビットCPUのZ80A相当のプロセッサを3.579545MHzで使用。MSXturboRはそれに加えて16ビットCPUのR800も搭載し、システムチップにより排他的にシステムを担うプロセッサを選択することが可能である。 MSX0、MSX3、MSX turboにおいては、MSX1、MSX2、MSX2+、及びMSXturboR(上位機種のみ)の下位互換機能が組み込まれたマイクロコントローラーやFPGAによる上位互換実装となっている。 スロット互換性を維持しながらフレキシブルな実装を可能にするため、MSXではZ80のメモリ空間(アドレス空間)を拡張したバンク切り替えと、メモリ管理ユニットの間の性質を持つスロットと呼ばれる仕組みが設けられた[52]。 MSXではメモリ空間[注釈 13]を四分割した「ページ」を単位として管理し、16KiBごとにリソースを割り当てるようになっている。さらに「スロット」1つ当たり64KiBの空間を持ち、標準で4つの「プライマリ・スロット」が設定され、任意のスロットの該当アドレスのページをメモリ空間に接続することが可能になっている。また、プライマリスロットはさらに4つのセカンダリスロットを拡張することができ、仕様上は最大で16のスロットシステムに接続できるようになっている。従って仕様上は16KiB×4ページ×4スロット×4セカンダリスロットで=1MiBのアドレス空間が確保され、その空間に対し、ROM、RAM、I/Oをページ単位で任意に割り当ててアクセスする形になっている。 プライマリ/セカンダリスロットは基本的には同等とされ、多くの機器はどのスロットに挿入しても規格の上では変わらず動作する。なお、セカンダリスロットは再帰的な拡張を想定していないため、セカンダリスロット拡張を行う機器は、セカンダリスロットへの接続が出来ない。見かけは一つのカートリッジであっても、複数のデバイスを収めるために内部的にスロット拡張をしていたμ・PACKやMSX-DOS2カートリッジ、拡張スロットなどの周辺機器がこの制限にあたり、プライマリスロットへの挿入以外では動作しなかった。 Z80のシステムでありながら、ハードウェアとの接続にI/O空間ではなく基本的にメモリーマップドI/O方式を用いることが推奨された。アクセスの際にはBIOSコール(BIOS割り込みルーチン)の時点でスロット切り換えによってメモリ空間が切り替えられ、同時にハードウェアへの割り当てリソースも変更されることで競合は回避された。I/Oアドレス空間は8ビットとして想定[注釈 14][53]されており、一部のアドレスが規格として予約されている。外付けデバイスとして実装される場合は接続先のI/O空間の状態が不定であるため初期化時にチェックの上割り当てるようになっているため、直接ハードウェアを初期化するような場合には設計の差異を考慮する必要がある。 これらの仕組みを物理的に拡張する手段として、スロット機構に接続するコネクターが最低1基装備された。多くの機種では差しこみ口が筐体上面や前面などに配置されていたため、他の多くのシステムのように、背面の拡張スロットで挿抜したり筐体を開けることなく手軽に増設機器の差し替えができた。電源投入時の着脱防止機構やホットプラグは規格としては用意されていない。着脱時に電源を切る機構は一部機種にあり、カートリッジが正常に装着されるとこの機構がキャンセルされ電源が入るようになっていた。2基目のスロットは初期の一部の機種でエクスパンションバスの形状を持つものがあったが(ピン配列は同じ)、程なくして見られなくなった。 メモリーマッパー「スロット」の仕組みは柔軟な運用や設計を可能にしたものの、「1つのスロットに4ページ/64KiBを越える空間を配置できない」「ページ間のアドレス空間の移動や再マッピングができない」といった、Z80に由来するメモリー空間・アドレッシングに依存した制約があった。特にワークエリアとスタックが置かれるページ3の切り替えには若干の困難が伴い、単純にRAMページをスロットに増設するだけでは増設されたメモリーの有効な活用がやや煩雑なものとならざるを得ないという事情があった。これを改善するため、MSX2規格制定時にRAMページの拡張を行う“メモリーマッパー”が拡張規格として追加された。このメモリーマッパーを用いることで、ページの割り当てに対する制限を軽減することが出来た。また、後に登場したメガROMの一部にもメモリーマッパー規格を応用し、酷似した仕様でROM空間の切り替えや拡張を行う製品が登場した。ただし、これらは市販アプリケーションもしくはZ80バイナリによって直接実行するソフトに限られた話で、MSX-BASICではメモリ空間を前半にROM、後半にRAMを固定で割り当てその末尾に拡張用のワークエリア、フックなどを配置していることもあり、これらのメモリをユーザーエリアとして有効活用する仕組みが無く、RAMDISKなどの形で活用するようになっている。 ディスプレイや文字表示関連の規格MSX1、MSX2及びMSX2+は一般家庭への普及を目指すため、標準の構成で家庭用テレビにRFを標準装備[注釈 15]し、専用モニターを必須としない仕様となっていた。 これは他の低価格帯の入門機にも見られた仕様で、文字の滲みや解像度の低さなどのデメリットもあったが、家庭用電気製品を流用できるようにすることでシステムのトータルコストを下げる効果があった。TMS9918Aの出力がそもそもNTSCであり、初代規格ではRGB出力を持つ製品は限られた。 初代規格のVDPがテキスト表示の拡張によってグラフィックス処理も実現していたこともあり、文字フォント(文字キャラクタ)は基本形状がシステムROMから初期化時に定義はされるものの、表示性能の制限の範囲で任意の形状、色に書き換えが可能なPCGとして利用することが可能である。SCREEN0,1,2,4では全ての文字形状をユーザーが自由に定義して使うことが出来、SCREEN1,2,4ではBASICのサポートは無いもののVDPの画面モードを変更することによって1ライン当たり任意の2色をフォントに割り当てることも可能である。 日本向けのMSXではPC-6000シリーズに近似したキャラクターコードを採用しており、特定の漢字(日月火水木金土・大中小・年時分秒・百千万円)や罫線が記号として定義されているほか、カタカナに加えてひらがなも標準で定義されていた。これらのコードは海外向けMSXではアクセント記号付きアルファベット[注釈 16]に割り当てられた。なおMSXで半角ひらがなに割り当てられていたコード領域は、現在のSHIFT JISコードで使用されている。MSX1の時点では半角文字の80カラム(1行80桁)表示も不可能だった。初代規格の時点では漢字ROMの仕様がなく、ワープロなどの実装に伴うハードウェアが独自にアプリケーション依存で実装されていた。MSX2ではそれらのうち、第1水準のフォントを持つ東芝仕様のものが表示用のBIOSと共にオプションとして定義され[54]、後にI/Oマップにも東芝仕様の物が割り当てられている[55]。 コネクター関連の規格コネクタ類に関しては、主にジョイパッドやマウスの接続用にアタリのAtari 2600相当の9ピンコネクター(アタリ仕様ジョイスティックのもの)が2ボタン仕様に拡張されて定義された。また、オプションでセントロニクス仕様の14ピンプリンターインターフェースも搭載された。 汎用的な仕様のコネクタを採用したことは、のちに電子工作の接続・制御用途として重宝された。上記のスロットコネクターに関しては、電子部品を扱う店で電子工作用の汎用基板が入手できた。 キーボード関連の規格キーボードはパラレル入力で同時押しも可能である。規格の上では、いくつかの特定の3つのキーの組み合わせは動作の整合性が図られた以外、3つ以上のキーが同時に押下された場合の入力の整合性は保証されていない。なおセパレートタイプ(つまり本体と別の)キーボードは定義されておらず、キーボードのコネクタは機種によって異なる。なお日本向けキーボードの配列にはJIS配列と50音順配列(かな配列)の両方が規格にあり、ワークエリアの設定で選択することもできた。 ソフトウェア→ゲームについては「MSXのゲームタイトル一覧」を参照
初期はROMカートリッジ、並びにカセットテープ。MSX2の後期からはフロッピーディスクにより様々なソフトウェアが提供された。規格にたいして特徴的な実装は下記のとおりである。 BIOS前述のようにBASICやOSの収められたシステムROM、ゲーム等のROMカートリッジ、メインメモリなどのRAM、そして各社の独自拡張による周辺機器(ハードウェア)などのリソースは「スロット」に接続されているが、それを抽象化し、汎用的に利用できるようにしているのがBIOSである。基本的なBIOSのうち、主な機能はメモリの先頭部分からジャンプテーブルとして配置されており、システムがZ80の割り込みモード1で構成されているため、RST命令で呼び出せるエントリのうち、RST 00H~28HをBASICがサブルーチンコールに使用。RST 30Hがインタースロット・コール、RST 38Hがハードウェア割り込みに割り当てられている[56]。基本機能に含まれない機能、ハードウェアには基本的に拡張BIOS並びに対応している場合は拡張BASICが付随し、起動時に初期化ルーチンを呼び出すことで割り込みベクタがワークエリアに登録され、システムに組み込まれる。ユーザーは対応アプリケーションなどではほぼ無意識に、BASICなどでは必要に応じてコマンドによる初期化で有効化し、利用することができた[注釈 17]。 基本仕様に組み込まれたハードウェアも含め、互換性をBIOSレベルでのみ保証することによってある程度の設計の自由度を確保しており、ワープロやテレビなど民生機器と同化したような各社の商品としての独自性を発揮するのに寄与し、設計の共通化により低コスト化を可能とした他、プラグ&インストール&プレイではなく文字通りのプラグ&プレイを実現していた。 但し、基本仕様に含まれるBIOSの実装はハードウェアに強く依存する仕様になっており、PSGやVDPなどはBIOSが内部レジスタをラップするような実装になっているため後継製品などでも実際には仕様を包含したものを選択せざるを得ず、データレコーダの実装はZ80の実行クロックに強く依存した形でタイミングを取り波形を生成しているため、割り込みを禁止したうえ、規定のクロックでプロセッサが動作することを要求する仕様[57]となっている。 これらスロットやBIOSなどによる特徴的な実装は柔軟性がある代わりに、ハードウェアの構成は規格として規定されたもの以外では固定されていることは期待できず、初期化・認識処理はスロットを検索する必要があるというオーバーヘッドを伴うものとなった。一部アプリケーションなどでは、特定の構成を期待したコードになっているためMSX2で動作しなくなったり、実際には接続されているにもかかわらず、その拡張機器を認識できないなどの非互換性につながっている。また、ハードウェアの相違を考えればかなり互換性が維持されているFDD等の「同じ種類」のハードウェアであっても、スタック領域やワークエリアなど、実装の違いから特定条件で動作しないなどの現象が発生することもあった。 またこれらの仕組みは、ハードウェアリソースに対するアクセス自体に演算リソースを必要とし、「スロット」の実装にともなうウェイト(wait)の挿入やBIOSコールを経由する等のオーバーヘッドは、3.579545MHz動作CPUのZ80に重くのしかかり、パフォーマンスを落とす原因ともなった。VDPについては処理速度を得るため、システムROMの特定のアドレスに書かれている値からI/Oアドレスを確認の上、直接制御することを正式に認めている[58]。 MSX-BASIC→「MSX-BASIC」も参照
二次記憶装置から直接起動するソフトウェアや機種固有の内蔵ソフトを除けば、ユーザーの操作、利用を支えるのがMSX-BASICである。他の実装で見られたマシン語モニタは標準システムとしては用意されておらず、直接のメモリ操作や実行ではなくDOSないしは、BASICから呼び出す形となっている。 当時の多くのPCで採用されていたマイクロソフト系の命令セットを持っていたが、変数名は先頭から2文字のみでgoto命令などの飛び先は行番号のみなど初期の実装に近い形となっている反面、浮動小数点の演算では仮数部は6桁または14桁のBCD[注釈 18]を仮想計算機として実装しており、システムの規模や速度に対して精度の高いものとなっている。この演算部分はBASIC以外からの呼び出しも可能なようにMath-Packとして外部からも呼び出せる手順が公開されている[59]CITEREFMSX-Datapack11991。精度は高いものの相応に演算コストが高いため、ゲームなどレスポンスや処理速度を重視するケースでは変数を整数として宣言することがTipsとなっていた。 MSX-DOS→「MSX-DOS」も参照
更にオプションでMSX-DOSと呼ばれるCP/Mシステムコール互換OSも導入可能で、これを導入すれば既存のCP/Mアプリケーションの多くがファイルシステムをコンバートすることによりほぼそのまま動作し、CP/M環境で利用可能なアセンブリ言語、C言語、Pascal、COBOL、FORTRAN等も使え、またCP/Mで動く欧文ワープロや表計算等の実務アプリケーションも実行できた。 但し、本体が安価なMSXでは相対的にFDDは高価であり、活用されるようになるのはFDDを内蔵した本体が安価に提供されるようになったころからである。 その他初代規格ではその構成部品に専用品を用いず、その時点で市場に供給されていた利用実績の豊富な既存の汎用半導体製品を採用し、基本仕様が安価に製造できるよう構築されていた。各メーカーから発売された機種はほぼローエンド(低価格帯)だった。 その代償で、仕様は平凡なものとなり、当時の主だったパソコンが高解像度化を求められていた中にあって、最大でも256×192ドットの解像度だったことと合わせて「先進的でない」と批判する意見もあった[60]。 価格帯と汎用性に舵を切った実装は、日本ではセガのSC-3000と同様に任天堂のファミリーコンピュータと比較されてしまい、ゲーム専用のファミリーコンピュータのグラフィック性能と比較して劣っていたので「中途半端な子供の玩具」として受け取られた。 ネットワークMSX向けの主要な商用パソコン通信サービスとしては、1986年12月からアスキーが運営したアスキーネットMSX、および松下グループ(後のパナソニックグループ)系のネットワーク企業・日本テレネットが運営するTHE LINKS(ザ・リンクス)がある。 アスキーネットMSXは、MSXを所有していることが使用の条件だったが、実際に使えるマシンはMSXに限らなかった。NHK学園のパソコンの通信講座で使われたこともあった[61]。 対して、THE LINKSはMSX専用だった。画像通信やゲーム配信をサポートした独特のサービスで、対応機種をMSXに限定、モデムも専用ソフト搭載のカートリッジのみとすることにより、他のパソコン通信サービスにはないカラフルなコンテンツの提供や画像配信、動くメールなども実現していた。MSXによる日本語表現の特徴の一つである半角ひらがなやグラフィック文字はJISの規格外で、機種によって全く別のキャラクタが定義されており、MSXに限らず多機種混在のパソコン通信では使わないのが常識となっていたが、THE LINKSはその逆にJISやシフトJISの2bytes文字の日本語は書き込むことができず、1byteのMSX文字でコミュニケーションを取ることになっていた。THE LINKSのためだけの専用通信ソフトが必要で、通信ソフトが内蔵されたTHE LINKS専用モデムカートリッジがあった他、松下電器産業のモデムカートリッジに通信ソフトが内蔵されていた。 当初は通信速度300bpsのモデムカートリッジが発売され、後には1200bpsの物も出た。MSXturboRが発売された時期にはパソコン通信も9600bpsを超える速度のモデムが一般化し、MSXでもRS-232CカートリッジとPCモデムを使用するユーザーが増えた。MSX2の中には本体に1200bpsモデムを搭載した、通信パソコンと称される機種もいくつか存在する。 それ以外にもPC-VANやNIFTY-ServeにMSXに関係するSIGやフォーラムが設けられた。また、MSXの話題を扱う草の根BBSが全国に開設されており、MSX専門誌が休刊し、商業的にMSXが衰退した後は同人活動とともにパソコン通信での活動によって培われたコミュニティーがMSXを支えた。パソコン通信で発表された自由ソフトウェアは、MSX専門誌のMSX・FANに付録ディスクに収録されたり、ソフトの自動販売機TAKERUで販売されたりもした。 その他にMSXを用いたネットワークサービスには、囲碁のネット対戦「GO-NET」や株式投資などがあった。 通信ソフトにはアスキーからMSX-TERMが発売されたが性能の悪さからあまり使用されず、自由ソフトウェアのmabTermやRAETERMや松戸タームが使われた。MSX向けのネット運営用ホストプログラムはMSXマガジンが開発した「網元さん」やMHRVなどが多く用いられた。 周辺機器ROM/RAMカートリッジ
入力機器
記録装置![]()
拡張音源MSXは音源としてPSG(AY-3-8910相当品)を持っていた。1983年当初はそれでも十分だったが、他のゲーム機やパソコンが音源機能を強化する中、MSXにも対抗上各種ミュージックシステムが開発された。
MIDIインターフェイスMSXでMIDIを使用することができるハードウェアも開発された。色々な規格のMIDI音源を接続できるがMSXでは各市販ゲームが後述のMSX-MIDI+LA音源対応になっている為、MSXではMSX-MIDI+LA音源が実質的な標準となっている。具体的にはファミクルパロディック2、幻影都市、グラムキャッツ2などである。その後の同人ソフト(1995年頃から)ではGM/GS音源対応として作られたものが存在する。LA音源の音源モジュールはMT-32、CM-32L、CM-64、CM-500(MT-32との互換モードあり)であるが、SC-55、SC-55mkIIもMT-32の音色配列も搭載し、下位互換性をある程度担保している。
これらインテリジェントなものや、スロットに差し込むハードウェアはコストが高く、規定のシリアルデータとしての信号を生成できれば演奏は可能であるため、汎用インターフェイス等を利用したMIDI出力の方法ならびに実装がユーザによって行われている。
プリンターMSX規格のもの、MSX向けのもののみ
パソコン通信用
その他の周辺機器
規格提唱企業と賛同メーカーMSXに賛同したメーカーには「メーカーコード」と呼ばれるIDが割り振られていた。メーカーコードを付与され1980年代から1990年代にかけてハードを製造した企業を以下にメーカーコード順に記す。
メディア広告1980年代当時パソコンは、一般への普及を標榜していたため、テレビCMや雑誌・新聞広告に知名度の高い芸能人やキャラクターを起用する場合が多かった。MSXも数々のキャラクターでの宣伝を展開していた。
専門誌
なお、MSX発売メーカーの機種の専門誌としては他にOh!FM・Oh!PASOPIAがあるが、どちらもMSXは発売時に紹介された程度の扱いしかされていない。 ディスクマガジン
これら以外にも、ユーザーにより自主制作されたものも存在する。 派生品MSXは単価が安く、またカートリッジスロットからZ80のメモリーバス、アドレスバスをそのまま引き出すことが出来るため、Z80の付随回路としてシンプルに設計でき、拡張や工作が容易である。80系/Z80系の環境では標準とも言えるCP/M互換のMSX-DOSという原始的なOSや開発環境も整っており、既存のCP/M環境やMS-DOS環境からのクロス開発も容易だったため、組み込み用や制御用にも多く流用されていた。 一部の市販ビデオタイトラーやビデオテックス(キャプテン)システム、また公共施設等に設置されたビデオ端末や簡易ゲーム機などにもMSXを流用したハードウェアが内蔵され、稼動していた例も少なくない。 特にビデオタイトラーでは、ソニーのXV-J550/J770/T55Fシリーズや松下電器産業のVW-KT300などの家庭用タイトラーのハードウェア構成は明らかにMSXを応用・流用したものである。ただし、これらの機種では基本はMSXシステムをベースとしていても独自の実装がなされており、特にBIOSなどは大幅に簡略化されMSXとしての機能は望めないなど、簡単な加工程度では汎用のMSXシステムとして使うことは不可能である。それらのMSXベースのタイトラーは安価なビデオタイトラーとしてはかなり普及していた時期があり、一時期は企業ビデオパッケージ、解説ビデオやインディーズAVなどの小規模なビデオ関連の作品などにMSXの漢字ROMフォントとまったく同じフォントを用いたテロップを多く見かけることが出来た。
反響日本で300万台、海外で100万台くらい売れたMSXは、1983年の日経優秀製品賞も受賞した一方でマスコミからは同世代の家庭用ゲーム機・ファミリーコンピュータと比較され、「失敗したゲーム機」と評されることもあった[2]。西和彦は著書[2]や2023年のインタビュー[7]の中でファミコンと比較する形で酷評されてつらかったと振り返っている。 「失敗だった」と語られる理由に関して西は2つ挙げている[2]。1つ目はMSXの位置づけであり、上位機種である16ビット機はIBMが既に事実上の標準になっており、ゲーム機である任天堂のファミリーコンピュータは安かったことで、MSXは存在意義を発揮することができなかった点である[2]。2つ目はネットワークが不十分であるがゆえに、電話やテレビのように一家に一台の必需品になれず、ペンや電卓などのアナログを代替することができなかった点である[84]。 一方でMSXが発売されて10年以上過ぎたころ、西は「MSXが初めて出会ったコンピュータであり、この出会いがなければ、コンピュータの仕事をしていない」と語る人に出会ったことで、「MSXは使ってくれた人たちの記憶の中に生きていると思う」と語っている[84]。 脚注注釈
出典
参考文献
関連項目MSXを音楽芸術活動に取り入れた主な人々
MSXを使っていた事を公表している有名人(50音順)外部リンク公式
資料1チップMSXその他
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